シュウジのスタジオは自分たちがいたスタジオより1回り広く、ピカピカのドラムが2セットも置かれていて、部屋中がさらに輝いて見えた。
鏡の横には背の高い観葉植物まであり、映りこむ分も加わったその濃い緑色がさらに品のいい華やかさを添えている。
シュウジは奥のセットに座り、笑顔でスティックを振った。
「できはどうだ?」
「初めてにしちゃあ、結構まあまあってとこだ」ナカジが笑顔で答えた。
「まあ、ボチボチってとこかな、久し振りに基本からやったよ。そっちはどうだ?」 ツッタカがドラムセットとシュウジを交互に見ながら返す。
「へへへ、こっちもまあまあだ」
講師を見ながらシュウジも満面の笑顔で答えた。シュウジを担当した講師も笑顔で頷いている。順調そうだ。
「あのう、当初はワンコーラスを予定していたのですけど、時間が予定よりかなり押してしまいまして、次のクラスの時間が差し迫っていまして……。さっき、とりわけ良くできていた初めの部分だけを合わせたいと思うのですが、いかがでしょう……」
宮田講師が申し訳なさそうに言った。
「そうですか、そういうことなら、仕方ないですね」
ツッタカが物わかりよく答えた。
ナカジとシュウジもはい分かりましたと、素直に頷く。シュウジは事前に確認済みだし、3人ともかなり疲れていたので異論はなかった。
「では、さっそくですが、演奏に移りましょう」
「先生、せっかくだから記念撮影してもいいかな」
唐突にツッタカが言い出した。ナカジとシュウジもそれもいいかと従った。もちろん、と講師がツッタカの携帯を受取って構える。
時間が無いって言ってるのに、こんなことしてる場合じゃないけど、ここは笑顔で我慢だ。3人とも満足そうで、次につながりそうないい手ごたえだ。
「撮りますよ、はい、チーズ!」
ドラムセットに座り、両手のスティックを立てて持つシュウジを挟み、ギターを抱えたナカジとツッタカを手早くフレームに収める。
「じゃ、いきますよ、アワ~ン、トゥ、ァワントゥースリーフォー!」
宮田講師が例の鼻にかかった声でカウントを出すと、2人の老人は互いに目を合わせてタイミングを合わせ、最初に人差し指、次に薬指を弦に押し当てて、慎重にその2弦だけをピックで弾いた。
♪ C、C、 …GG ……A、 …AA……
2人のギタリストは先ほどの練習と同じようにコード進行とコード図、そして自分の左右の手元に集中し、微妙にずれながらたどたどしく弾いていった。
講師がアレンジした超初心者向けのコード進行は、基本的に同じコードを2回ずつ繰り返し、最後の4つだけ音を刻むように弾いて終わる。
スティックを握って構えるシュウジの横にはドラム担当の講師が寄り添って立ち、読めないギターのリズムを首と手で慎重に追いながらシュウジの入るタイミングをサポートしている。
♪C、C、……G、G、 …F……G…F、……C
♪………………………………………………………、チッダダ、ダドダン!
入りのズレたイントロ最後の音に、同時に入る予定の無理くり付け足したシュウジのドラムが緊張のあまり半拍遅れ、つんのめるように鳴り響いた。
「はい、お疲れ様です!」
間髪入れずに宮田講師が叫び、ドラム講師との拍手がスタジオ中に鳴り渡った。
夕方5時を過ぎたばかりの居酒屋は開いたばかりでコンクリートの床に打った水も清々しく、カウンターの中の大将は口開けの客が女でないことを惜しみながら、テレビの野球中継を横目に作業している。
示し合わせたように3人そろって蒸し上がったばかりの熱いおしぼりで顔を拭き、お疲れさん! と最初のグラスビールをぶつけ合うと、ナカジは一気に飲み干して盛大な息を吐いた。
たったの2時間弱なのに、ブックオフで待ち合わせしてたのが遠い過去のような感覚だった。
シュウジとツッタカも空いたグラスを置いて大きく溜息をつき、無意識に首を回している。
女将さんが「熱いですよ」と言い添えながら焼酎のお湯割りを差し出して空のグラスを下げて戻った。
「結構、できたんじゃないの、ちゃんとそれなりになってたし。ツッタカはともかく、ナカジは全くの初めてだったのに、しっかり弾けてて驚いたよ。最初にしちゃ上出来だよ」
事実は別として、慎重に言葉を選びながらシュウジが明るく励ますように言った。
「まあな、講師の先生も呑み込みが早くて若い人と変わらないって驚いてたな」
まんざらでもなさそうにナカジが応えた。
「やっぱり。講師もそう言ってたか」
くたびれ切って口もきかないナカジに、落ち込んでるとしか思えなかったシュウジは真逆の返事に、呆気にとられながらも気が楽になった。
シュウジ自身はバンドに執着してないが、新しいチャレンジが身も蓋もないことになって、ナカジの気持ちが変に拗れるほうが100万倍面倒くさかった。
「ギターのコードもいろいろあってさ、初心者でもやりやすい簡単なのもあるんだよ。ま、本物とはちょっと違うけど、それなりだったろ。弦のチューニングもさ、知ってたか? ヘッドに小さな機械を挟むだけで簡単にできるんだぜ。
俺たちも年を取ったけど、だいぶ時代も変わってたんだなぁ。中古の本やCDもそうだけど、なんか、あらゆる面で素人向けのものが充実しててさ、昔は上達しない方が悪いって感じだったけど、今は素人が標準っていうか……
新しい世界の入り口ってもうずっと前から大きく開いてたんだって、何か改めて感じたよ」
焼酎のお湯割りをゆっくりと一口飲んで、ナカジが感慨深げに言った。
「昔はそれが当たり前だったけどなあ。まあ、やらなきゃ知らなかったってことだな」
調子を合わせるようにシュウジが合の手を入れた。てっきりできなくて大変だった愚痴から始まると思ってたのに。こいつ、こんなにポジティブなヤツだったかな。
「お前もかなりお疲れの様子だな」
シュウジが大人しくいるツッタカに水を向けた。多少の疲れはあれど調子よく騒ぐと思っていたのに。
「お前さ、いったい今まで何をどのくらいやってたんだよ? 講師の先生も何かお前にとまどってたぞ」
ナカジが遠慮なく訊く。
「俺は、まあ別に……、そん時そん時で、気分が乗った時に自由にって感じさ」
相変わらず、分かったような分からないような返事だ。でも、実際の実力は今日の様子で十分だった。
「“青春のビートルズ”はどうだった?」
シュウジが質問を変えた。
「うん、それな! やっぱビートルズは年を取らないなあって、改めて思ったよ。古い思い出の一部だったのがさ、新しいスタートになっても格好いいんだもんな。
これを俺たちなりにガガーって演奏したらさ、もう、偉いことになると思ったよ! お前らもそう思ったろ」
打って変わって、水を得た魚のように目を輝かせてツッタカが言った。その豹変ぶりに、必死にやったあのボロボロのイントロを自分でどう聞いてたんだと、内心ツッコミながらも心の隅で共感していた。
確かに、演奏した量は極くわずかだったし、お粗末そのものだったけど、2人のギターの中に自分のドラムが入って3人で曲が完成した時、何か、体のどっかで、かすかだけど、ググッて血が沸いたのは確かだった。それがビートルズの魔力かどうかは分からないけど。
「すいませーん、梅干しひとつ、あと焼き鳥の盛り合わせ塩で追加ね!」
元気を取り戻したツッタカが厨房に向かって叫んだ。
「これから、どうする?」
シュウジがナカジに訊いた。
「まずは、ギターをどうするかだな」
ナカジが当然のように答えて座り直した。
「ふふふ、そだな」
シュウジが含み笑いを浮かべながらグラスを傾ける。この意味不明なノリの良さが愉快でしょうがない。
「講師も大したもんだよ。あんな有様でも最後にしっかりレッスンとギターをアピールしてきたもんな」
ナカジがポケットから引っ張り出した講師の名刺に目を細めて見入った。肩書の筆頭に“Professional Guitarist”とあり、その下に“専任講師・GSM”とある。
「GSMって何だ? グッド、先生、ミュージシャン? それともグレイトか?」
シュウジが自分がもらった名刺と見比べながら訊いた。
宮田講師と同じように、“ Professional Drummer”の下に同じ文言が入っている。
「なんだかな」
ツッタカが覗き込んだが、皆目見当がつかずあっさりと引いた。
実際は、楽器セールスマネージャーの略なのだが、すでに興味を失った老人たちは、手を空けるためにさっさと名刺をポケットにねじ込むと、各々焼酎を口に含み、突き出しの豆腐にしょう油を掛けた。