旅拝

過去の旅の記録です。

四国巡礼編(23)菩提の道場(6)太山寺(52番札所)~圓明寺(53番札所)

 【菩提(ぼだい)の道場(愛媛県)】



 お遍路28日目。

 当時、松山ユースホステルは改装中で、壁にマイナスイオンが出る塗料を塗っていた。
 おかげさまでこの旅で一番快適な睡眠を取れたと思う。死んだように眠り続けた。結果的に寝坊したが、もう1泊して松山の街を観光することにした。

 この年、夏目漱石の小説(松山を舞台にした作品)坊っちゃん』誕生100周年ということで、街の観光スポットでは小説の登場人物マドンナの衣装を着た美しい女性達(道後マドンナと呼ばれるイベントスタッフ)が観光客と一緒に写真を撮っていたのを覚えている。

 この日、松山の街で観光した場所は下記の通り。

(伊予)松山城天守は江戸時代後期に再建されたもので、現存十二天守の一つ中で最も新しい。訪問時改修中だった。内部拝観せず。

秋山兄弟生誕地秋山好古(兄、三男)、秋山真之(弟、五男)の生誕地も観光名所となっていた。秋山兄弟は日露戦争で活躍している。

秋山好古満州で当時世界最強と呼ばれたロシアのコサック騎兵を破り、日本陸軍騎兵の父と呼ばれた。最終階級は陸軍大将

秋山真之:1890年に起きたエルトゥールル号遭難事件において、トルコへの生存者送還に従事している。日本海海戦においてロシアのバルチック艦隊を撃破した。最終階級は海軍中将

 スタッフの方の話では、司馬遼太郎の小説坂の上の雲NHKで2009年に放映されるとのことだった(本木雅弘さん主演(秋山真之役))。『坂の上の雲』は秋山兄弟と正岡子規を主人公にした物語だ。

伊佐爾波(いさにわ)神社主祭神仲哀(ちゅうあい)天皇神功(じんぐう)皇后応神天皇三柱姫大神(みはしらのひめのおおかみ)(宗像三女神)仲哀天皇神功皇后道後温泉に御来湯された際の行宮跡に創建された。当時写真を撮影しておらず、神社の雰囲気を思い出せない。

道後温泉日本最古と呼ばれる(日本三古湯(ことう)の一つ)。せっかくなので道後温泉本館を利用した。

※日本三古湯:道後温泉有馬温泉(兵庫県)、白浜温泉(和歌山県)(日本書紀風土記に基づいた選定、(延喜式神名帳に基づいた選定では、白浜温泉ではなく他の温泉が選ばれている))

 観光スポット巡り以外では、ネットカフェを利用している(デジカメで撮影した写真をDVDにコピーした)。



 松山の街を堪能して宿(松山ユースホステル)に戻ってからは、昨晩に続きオーナー平野さん(大統領)から色々と貴重なお話を伺った(旅日記にメモしているものを一部紹介すると、「この世は実は四次元である。そうでないと三次元のことは分からない」等)。

 平野さんは小林正観さんのご友人ということで、宿で正観さんの著作を多数販売していた。ここで1冊の本を購入したので後程別記事で紹介させて頂く。



 [第52番札所:龍雲山(りゅううんざん) 護持院(ごじいん) 太山寺(たいさんじ)]

・御本尊:十一面観世音菩薩
・創建年:(寺伝)用明天皇2年(587年)
・開基:(寺伝)真野長者
・住所:愛媛県松山市



 お遍路29日目。
 昨日ゆっくり英気を養ったせいか、朝4時半に起床。気力・体力が充実しているのを感じた。
 


 松山ユースホステルから52番札所までおよそ10km。午前8時に到着しているので、逆算すると午前6時前には宿を発っていたと思われる。

 太山寺の寺伝によると、用明2年(586年)(飛鳥時代)、豊後国(大分)の真野長者という者が難波(大阪)に船で向かう途中、高浜の沖で嵐に遭遇。信仰する観音様に無事を祈願したところ、山頂から光が差し嵐が治まったという。
 その後光の差した場所を訪れたところ、そこには一寸八分の十一面観音を祀(まつ)った小さな草堂があった(現在の奥の院)。感謝した長者は一旦豊後に引き返し、工匠を集め本堂を建てる木組みを整えてこの地を再訪した。一晩で本堂を建立したということで「一夜建立の御堂」と伝えられている。

 その後、天平11年(739年)に聖武天皇の勅願を受けた行基が、御本尊の十一面観音像を彫って寺院に安置したとされる(現本尊は平安時代後期の作)。
 天長年間(824年〜834年)に弘法大師が訪れた際、法相(ほっそう、ほうそう)から真言宗に改宗している。



 [第53番札所: 須賀山(すがざん) 正智院(しょうちいん) 圓(円)明寺(えんみょうじ)]

・御本尊:阿弥陀如来
・創建年:(寺伝)天平勝宝(てんぴょうしょうほう)元年(749年)
・開基:(寺伝)行基
・住所:愛媛県松山市



 太山寺(52番札所)から圓明寺(53番札所)までは、およそ2.5km。午前9時半頃に到着した。

 圓明寺の寺伝によれば、天平勝宝元年(749年)に行基聖武天皇の勅願を受け、御本尊の阿弥陀如来、及び脇侍の観世音菩薩勢至菩薩を刻んで開基した。
 当初は、和気浜の西山という海岸(現在地の北西約2.5km)にあり、「海岸山圓明密寺」と称した。

 後に弘法大師がこの地を訪れた際、荒廃した伽藍を建て直したという。
 鎌倉時代以降、度重なる兵火により寺院は荒廃。元和年間(1615年~1624年)に現在地に移され、この地の豪族、須賀重久によって再興された。
 寛永13年(1636年)、京都仁和寺覚深(かくしん、かくじん)入道親王より「須賀山」山号を賜り、仁和寺直末(じきまつ)となった。

 残念ながら、写真を見ても参拝時の様子を思い出せない。寺院にいた地元の方と話をしたと旅日記に記録しているが、会話の内容まで記録していなかった。



 次の54番札所(延命寺)まではおよそ35km。このままいくと参拝は翌日となる為、どこかで一泊する必要がある。昨日一昨日と宿に泊まっていた為、この日はテント泊をすることにした。

 国道196号をひたすら北へ向かう。道中、地元の方から湿布と栄養ドリンクのお接待をして頂いた(感謝)。



 夕方(まだ17時前だったと思う)、公園で休憩を取ろうとしたところ、そこには一人の旅人がいた。その若者はチャリダー(自転車旅行者)で、今晩ここで野宿をすると言う(四国を旅行しているが88ヶ所霊場巡りはしていないとのこと)。既にテントを張っていた。
 夕方とはいえ、まだ周囲は明るかった。今までは周囲が暗くなってからテントを設営していたが、この日はここで歩みを止めることにしてテントを設営。

 すると、通りかかったお巡(まわ)りさんから声をかけられた。この旅一回だけ経験した職務質問だ。どうやらこの時(そで)無し白衣(はくえ、びゃくえ)を脱いでいたのでお遍路と分からなかったようだ。

 「歩き遍路をしています」とお巡りさんに伝えた。
 ふとチャリダーの青年を見ると、神妙に「自分もお遍路をしています」という空気感を醸(かも)し出しながら、無言で私に全てを託していた。

 しばしの沈黙の後、今回は大目にみるとのこと(感謝)。

 四国でどこまで野宿が許容されているかは不明だが、当時全日程の約1/3の日数野宿している。
 今振り返ると、テントを持たずに宿に泊まりながら歩いていたら、お金が足りなくなって途中で帰ることになっていたかもしれない。

 (写真は、この日撮影した夕陽。久しぶりに海で夕陽を見た)





(旅した時期:2006年)

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