三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

董卓(とうたく) 字:仲穎(?~192)その3

さて、今回は董卓の紹介、3回目じゃな。今回も前回の続きで董卓の意外な側面を追いかけてみようかのう。

 

さて、董卓の紹介3回目じゃな。

どうも、張郃だ。まだ董卓の意外な側面が続くと言うことだな。 

まだ意外な側面がある、と言うことですね。

むろんじゃ、まだまだ董卓には語るべきことがあるからのう。今回も柿沼陽平氏が著した【劉備諸葛亮 カネ勘定の『三国志』】を参考にしていくぞい。

分かりました、よろしくお願いします。

うむ、それでは行くとするかのう。

人物紹介

董卓と名士

董卓が権力を握った当初、尚書の周毖、城門校尉の伍瓊、後に蜀に流れる許劭の従弟の許靖等を信任し、彼等に人材を推挙させたんじゃ。

まず、中央には荀爽・韓融・陳紀、蔡邕と言った名士を取り立て、汚職官吏を一掃させておるんじゃ。

しかも董卓は政権掌握後も関東の人間達が自分達を蔑み、敵視されていたにも関わらず、当初関東の士人達にへりくだっておるんじゃよ。自分達の配下もあまり高い官位を与えず、逆に関東の士人を郡太守など高い官位に推挙させておるんじゃ。

だが、これが裏目に出るのだな。 

張郃殿の言う通りで、周毖らが地方の長官として登用した韓馥(冀州牧)・劉岱(兗州刺史)・孔伷(豫州刺史)・張咨(南郡太守)・張邈(陳留太守)、見れば何となく分かるじゃろうが、悉く彼らは軍兵を率いて、反董卓連合軍を結成するんじゃよ。

さすがにこれを聞くと董卓は怒り、周毖・伍瓊等が自分を売ったと思い、彼らを惨殺するんじゃ。

この時、許靖はさっさと逃げて、難を逃れておるんじゃが、こっからが彼の苦難の始まり、とも言えるかもしれんのう。

これはでも、董卓が悪いとはちょっと言えない気がしますね。どちらかと言えば差し伸べた手を払いのけた、関東諸侯に問題があるような気がします。

董卓が暴虐だから、と言う割には董卓は当初譲歩し過ぎなぐらい、譲歩しておるからのう。積極的に名士もとりたてておるし、この辺りは関東諸侯にも問題があると思っておるぞい。

長安への遷都

董卓が悪とされる要因の一つとして、長安への強引な遷都が挙げられるんじゃが、これも例えば、曹操は洛陽におった献帝をやはり許へ遷都しておる。

遷都自体が批判の的になるのはおかしいんじゃよ。しかも長安への遷都は董卓にとって、より本拠地へ近い地域への移動となり、関東諸侯に対抗するために、戦略的に正しい行為と言えるのじゃ。

またこの時陵墓を暴いて財宝を取り出して、と言う悪行も語られておるが、これも曹操や過去の英雄達も普通にやっておる。そもそも亡くなった人物への手厚い葬儀など無意味と曹操は考える口じゃ。だからこそ自身の葬儀は薄葬で良い、と遺言しておるんじゃよ。

儒教的観点からは先人を蔑ろにする行為はダメなのだが、そちらにばかり金をかけると邪教や無駄な祠・祭祀へと繋がり民衆の生活を圧迫するだけだからな。 

そう考えると、董卓も合理的考えの持ち主だったと言えるかもしれんのう。名士は尊重するが、儒教の害悪を害悪と考えておったのかもしれん。

また、洛陽は董卓の焼き討ちでボロボロになったが、柿沼氏の記述によると、この時長安は好景気で、軍糧は充実しておったんじゃ。

実際董卓は郿に砦を築き、三十年分の食料をため込むんじゃよ。

まあ洛陽の焼き払いでも色々暴虐な行為をやっている、と書いておるが、例えば財宝を奪うために、富豪を捕え罪をかぶせて財産を没収した、とあるが、誰をどういう風に罪に落として、と言う具体的な話は皆無だからな。この辺りは陳寿董卓をより悪く見せるために筆を曲げている可能性もあるだろう。

蔡邕に対する敬意

さて、董卓が蔡邕に対して非常に敬意を払っておったことは演義でもある程度語られておるから知っておる人も多いじゃろうが、具体的な例を挙げてみようかのう。

献帝紀』によると長安に就いた董卓は太師となり、更に尚父となることを願い、蔡邕に相談するんじゃ。蔡邕は

「昔、周の武王が天命を受け帝位に就いた時、太公望は太師となり、周の王室を補佐し、道に外れた連中を討伐しました。だからこそ天下の人々は彼を尊敬し、尚父と称したのです。

今、公の功績と徳行はまことに高いものがございますが、関東をことごとく平定なされ、洛陽に天子さまをお返しになってから、このことを議論した方がよろしいでしょう。」

と言うと素直に従い、取りやめたのじゃ。

また、当時董卓は竿摩車と言う、青い蓋と金の華飾りがつき、両側の覆いには爪で描かれた模様の刻まれた、天子や皇太子乗用の車に乗っておったんじゃ。

『魏書』によると竿摩の意味は天子に迫る、と言うことを意味するんじゃ。

そして再び『献帝記』に目を向けると、この竿摩車に乗っていた時期、長安周辺に地震が起こったことがあったんじゃ。そこで董卓は蔡邕に地震が起こった理由を尋ねるんじゃ。すると蔡邕は

「地が動き陰の気が盛んなのは、大臣がのりを越えた結果引き起こされる現象です。公は青い蓋の付いた車に乗っておられますが、遠近を問わず、皆不適当だと思っております。」

と答えるんじゃ。これを聞いた董卓は素直に蔡邕の意見に従い、目立たない黒い蓋の車に乗り変えるんじゃよ。

普通に聞き分けの良い君主でしかないな。

若い頃の侠と言えた時代の董卓とイメージが被るのう。もっとも良い面ばかりでないのは確かじゃが、必要以上に悪く言われている部分も多いと思うんじゃよ。

と言ったところで今回はここまでじゃな。次は董卓の普通にやらかした部分を描いていくとしようかのう。できれば能力評価まで行きたいが、こればかりは何とも言えんのう

 

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