さて、今回は董卓の紹介、4回目じゃな。今回は董卓の失敗談を中心に見ていくとしようかのう。うまく行けば能力評価までやろうかのう
さて、董卓の紹介4回目じゃな。
どうも、張郃だ。ふむ、もうそろそろ董卓も終わりに近づいていると睨んでいたが、能力評価まで行けるのか?
失敗ややらかしたことならもうすでにお話としては出回っているので、そんなに先はないと私も思います。
そうじゃな。今回は董卓のやらかしたことと、その後の意外な展開の話をしようかのう。短くまとまれば能力評価まで行くぞい。
分かりました、よろしくお願いします。
人物紹介
董卓の金融政策
さて、漢には五銖銭、と言う貨幣が流通しており、一般的にはこれで取引をし、税を納めておったんじゃ。じゃが異民族の流入や黄巾の乱などで漢が把握できる人口が大きく減少し、税が思ったように取り立てられなくなってしまった。
そこで董卓は金融政策に大ナタを振るったんじゃ。
従来の五銖銭を潰して新たな貨幣を作る、発想としてはそこまで悪くはないんじゃが、作った銭がイカンかったんじゃ。
董卓が作った銭は従来の五銖銭の五分程度しかなく、模様もなく、穴は開いておらず、周りに線を付けることもせず、鑢をかけて磨くこともなかったんじゃ。
穴が開いていないと、棒や紐に通すこともできないから、数量の管理がやりにくいですね。
そうじゃな、結局この貨幣の評判は非常に悪く、貨幣価値が暴落し、最終的には貨幣の流通がまともにしなくなる事態に陥ってしまうのじゃよ。そしてその影響をもろに受けたのが誰あろう曹操じゃな。
曹操の経済政策
さて、曹操の経済政策と言うと、屯田制と共に戸調制が挙げられるんじゃ。元々漢の納税方法は田租と算賦の二つに分かれておった。田租は農産物の納付、算賦は銭の納税じゃな。当然董卓の貨幣政策の失敗により、算賦の方が機能しなくなってしまった。
そこを補うために曹操が行ったのが戸調制じゃな。これは曹操の紹介のところでも語っておるが、簡単に言えば布帛を納めることじゃ。秦漢の頃から一部で推奨されておったんじゃが、男耕女織政策とも密接な関係があるんじゃ。
これは「男は農地を耕し、女は機織りをすべき」と家内で役割を分業するシステムで、当初一部で奨励されていたのが徐々に広まり定着していったんじゃ。
丁度曹操は屯田政策により、曹操の下には農地を耕す人民が多数集まっておった。つまり、屯田制による副次効果で戸調制の導入もすんなりとできるようなシステムになっておったんじゃよ。
戸調制については曹操の紹介のところにもから、良ければそちらも見てくだされ。
こうして曹操は機能しなくなってしまった漢代以来の算賦(銭納税)を見て、代わりに戸調(戸単位布帛納税制)を制定し、補うこととしたんじゃよ
勘違いしてはいかんのだが、この形式の納税は漢王朝でも議論に上がり(都度却下されているが)、一部地域では特別税のような形で納められていたのだ。だから曹丞相が初めて発案し実行したわけではない。そこは勘違いしてはいかんぞ。
とは言え、貨幣経済がぼろぼろの状況で、代案としてこれをすぐに制定できる柔軟さが、曹操の凄いところじゃのう。
上の曹操の紹介のところにも書いておるが、この戸調制はやがて隋唐の租庸調制に繋がり、日本にも渡り採用されていくなど、大きな影響を及ぼしておるんじゃよ。
さすがは曹操、と言うべきじゃろうな。詩文は科挙にも取り入れられておるし、後世に及ぼしてるものがかなり多い。さすが超世の傑と呼ばれるだけのことはあるのう。
黄巾賊との戦い
さて、董卓のもう一つの失敗じゃが、黄巾賊との戦いで敗戦を喫しておる点じゃろうな。
もしかしたら、何らかの意図があってわざと敗北したのかもしれん、と考えた時期がワシにもあったんじゃが、どう考えてもわざとそうすることのメリットが見当たらんかったんじゃ。
と言うことでこれに関しては単純に、異民族とはまるで勝手の違う戦い方をする相手に戸惑い、それが故に敗れたのではないか、と思うんじゃよ。
董卓の戦い方は見ていくと相手のすきを窺い奇襲をかける、と言うスタイルでの勝利が多く、タイプとしては曹操にちと近いんじゃな。
違いがあるとするなら曹操は防衛戦でも力を発揮する統率力があるが、董卓はどちらかと言うと正面から相手の攻撃を受け止めるタイプではなく、関羽や呂布のように遊撃からの奇襲を得意とするタイプの武将と思うんじゃな。
だから雲霞の如く湧いてくる黄巾賊相手では力を発揮しきれんかったのかもしれんのじゃよ。
そうじゃな、じゃがそれ以外ではほぼ勝ちっぱなしな訳じゃから、大したもんじゃろうな。
と言ったところで今回はここまでじゃな、次は董卓に関してまだ語っていないエピソードについてと董卓の最後、それから能力評価と行こうかのう。
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