さて、今回紹介するのは陸績じゃな。彼は陸康の息子であり、本来なら彼が一族の取りまとめ役となるべき立場であったんじゃが、まだ幼かったことから、年長であった陸遜が取りまとめるようになっていったようじゃな。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は陸績の紹介じゃな。彼もまた陸氏の姓に恥じない、優れた人物だったようじゃな。
陸績は演義では赤壁前に諸葛亮に論破された人物ですね。ですがこれはフィクションと言うことですか。
まあ、そうだな。大体あの場面の諸葛亮は底意地が悪すぎる。相手の欠点をあげつらって意見を潰すなど、智者としては下の下でしかない。
真の智者は相手をやり込めるのではなく、相手を納得させた形で意見を飲み込ませる人物じゃからな。
同時に多数の人間を相手にしないといけなかったから仕方ないのであろうが、演義の諸葛亮のあのやたらと論破ばかりする行為は、外交官としてみれば決して褒められたものではないと思うんじゃよ。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・統率
陸績は、彼が正しいと思ったところを誰憚らず主張したために煙たがられて、中央から追われて鬱林太守に任ぜられ、偏将軍を加えられ、兵士二千を給せられた。
陸績は足が良くないうえに、学者として文化的な仕事をしたいと願っていたので、(そうした任にあてられたことは)彼の志に背くものであった。(『陸績伝』)
陸氏は陸胤にしても陸凱にしても軍人としての活躍が見えるのですが、陸績はその中では少し異質なんですね。
その辺りが軍事と統率の評価にも現れていると言うことだな。
知謀・政治
陸績は六歳の時、九江において袁術に目通りをした。
袁術がミカンをお菓子として出したところ、陸績はその内三つを懐に入れ、退出しようとしてお辞儀をすると、ミカンが床にこぼれた。袁術が(からかって)言った。
「陸郎(陸績のこと)は人に招かれた席ではミカンを懐に隠されるのか。」
陸績はひざまづいて答えた。
「母に持って帰ってやりたいと思ってのことです。」
袁術は陸績が普通の子供と違っていることに大きな感銘を受けた。(『陸績伝』)
袁術って所々で大物感出している時ありますね。
史書の記録とは勝者のための記録だからな。敗者側の情報はどうしても実態より悪く言われるものだから仕方なかろうな。
孫策が呉にあった頃、張昭・張紘・秦松らが上客として遇されていたが、孫策は彼らと語り合い、天下がまだ安定しておらず、武力的な統治を行って天下を平定する必要があるとの議論を展開したことがあった。この時陸績はまだ年若く末座にあったのであるが、遠くから大声で言った。
「昔管夷吾(管子)は斉の桓公の宰相となり、諸侯たちを一つにまとめ、天下を正しく方向づけましたが、それに兵車は用いませんでした。孔子が言われています。
『遠方の者たちが服さぬ時は、自らが文徳を修めて彼らをこちらへ寄って来させるのだ。』と。
ただ今のご議論は、道徳によって懐き寄らせると言う手段に努めず、もっぱら武力を重んずるものでございました。私は年端も行かず物事もよく分かっておりませんが、ご議論に完全には賛同いたしかねます。」
張昭らは、陸績の非凡さを高く評価した。(『陸績伝』)
凄いのはこの議論をした時点で、まだ年端も行っていない少年だと言うことだな。
187年生まれですから、孫策が暗殺される200年までの間の出来事ですものね。
(陸績は)軍務のある時にも著述を行うことを辞めず、『渾天図』を著し、『易経』に注を付け『太玄経』に解釈を施し、それは世に広く伝えられた。
自分の死ぬ日をあらかじめ知って、(自らを祭る)辞(ことば)を作った。
「漢王朝の志士たる呉郡の陸績は、幼くして『詩経』と『書経』に深く通じ、長じては『礼』と『易』とを楽しんだ。主命によって南方の軍征に従事するも、病を得て困苦に迫られ、長寿を得ることができなかった。
ああ、悲しいことだ、志願とかけ離れてしまったその生涯は。」
「今より60年後、馬車は軌(わだち)を一つにし、文字も共通のものとなり(天下は統一されるであろう)。それを目にすることの出来ぬことが心残りである。」
彼は三十三歳で死去した。(『陸績伝』)
60年後と言うのはまさに呉が晋によって併呑され、天下統一された時期だからな。
『易』を彼も十分に活用して先を見通していたのですね。
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簡単解説
演義の印象が良くないからな。実際はこの時代呉を代表する学者の一人だのに、この評価は少々残念だな。
それだけ演義の影響が大きいと言うことでしょうね。
まあ、ここはそう言う人物達をなるべく多く、掬い集めることが目的じゃからな。さて、それでは今日はここまでじゃな。良ければ次もよろしく頼むぞい。
よし、それでは今日のところは帰るとするか。
張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。