人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経信解品第四』について 1 | 中杉弘の人間の探求

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937 ※慧命須菩提(しゅぼだい)は、古代インドにおける釈迦十大弟子の一人であり、解空第一、被供養第一または無諍第一と称される。

 

人類を救う 100万人の法華経入門 『妙法蓮華経信解品第四』について 1

 

 これから、妙法蓮華経信解品第四に入ります。

「爾の時に慧命須菩提(えみょうしゅぼだい)、摩訶迦旃延(まかかせんねん)、摩訶迦葉(まかかしょう)、摩訶目犍連(まかもつけんれん)、仏に従いたてまつりて聞ける所の未曾有(みぞうう)の法と、」
 ここに集まったのは、立派な大菩薩です。釈迦十大弟子の慧命須菩提(えみょうしゅぼだい)、摩訶迦旃延(まかかせんねん)、摩訶迦葉(まかかしょう)、摩訶目犍連(まかもつけんれん)は、仏に従いたてまつりて、聞ける所の未だ聞いたことのない未曾有(みぞうう)の法と、
 「世尊の舎利弗に阿耨多羅三藐三菩提の記を授けたもうとに、希有(けう)の心を発(おこ)し、」
 世尊が舎利弗に記別を与えたのです。そのことを集まった大菩薩達も喜んだのです。どんな記別をもらったのかというと、阿耨多羅三藐三菩提の記別を受けたのです。これが最高の教えです。これが、妙法蓮華経ということです。仏は、舎利弗に妙法蓮華経を授けたのです。舎利弗は「わかりました。私はしっかりと信受しました」言ったのです。
 「歓喜踊躍(かんきゆやく)す。即ち座より起(た)ちて衣服(えぶく)を整え、偏(ひとえ)に右の肩を袒(あらわ)にし、右の膝を地に著(つ)け、」
 「舎利弗は仏様から記別をもらって成仏したのだな。素晴らしいな。華光如来になったのか」と歓喜踊躍して、座より立って衣服を整えて、右の肩をあらわにして左肩に袈裟をかけて、右の膝を地面につけて、
 「一心に合掌し、曲躬(こくぐ)恭敬(くぎょう)し、尊顔(そんげん)を瞻仰(せんごう)して、仏に白して言さく、」
 一心に合掌して、腰を曲げてお辞儀をして尊敬して敬い、尊顔を仰ぎ見て仏に白して言さく
 「我等僧の首(しゅ)に居し、年(とし)並に朽邁(くまい)せり。」
 我等は僧の上にいます。しかし、成仏しないで年もすでに経ってしまいました。
 「自ら已に涅槃を得て、堪忍する所なしと謂(おも)いて、復阿耨多羅三藐三菩提を進求(しんぐ)せず、」
 自らすでに涅槃を得たと思っていたのだけれども、まだ最高の悟りまで進んでいませんでした。かなり位の高い菩薩の地位にいるので、悟りは得ているのです。それを越える悟りが阿耨多羅三藐三菩提です。これは何かというと、妙法蓮華経ということです。それは、日蓮大聖人様の南無妙法蓮華経です。この法だけは、わかりませんでした。

阿耨多羅三藐三菩提とは、南無妙法蓮華経のことなのです。
 「世尊往昔(おうじゃく)の説法既に久し。我時に座に在って、身体疲懈(ひけ)し、但(ただ)、空(くう)、無相(むそう)、無作(むさ)を念じて、」
 世尊は昔から法を説いてきました。我は長い間、座禅をしてきたので、身体が疲弊しています。ただ、「空、無相、無作」を念じてきたので、これはわかりました。空がわかるということは、簡単です。仮(け)がわかる人は空(くう)がわかるのです。「それはわかった」と言っているのです。

無相とは、「世の中に相はない」ということです。無相に対しては、有相があります。有相と言っても、相のごときものがあるのです。これは、『如来寿量品第十六』で出てきます。「如是相(にょぜそう)と言いい、「是の如の相」という意味です。

全体を通して見た時には、無相です。「無量義は一法より生じる」です。そのような目で見ると、相などありはしません。私に属するものや、「これは私だ」というものはありません。これが無相であり、それが悟りです。まだ上がありますが、一応、悟りです。それは、有作に対しての無作です。

貴方は活動をしています。それは有作ですが、もっと深い目で見ると、貴方は何も活動などしていません。「個人が活動している」というのは有作です。貴方は何もやっていないのですから、無作なのです。そのような目で見ると、そのように見えてきます。

大宇宙にある地球上の生命は、何でしょうか? それは無作なのです。本当は何の目的もありません。でも、人間から見ると草や葉っぱに見えるのです。貴方は人間、あの動物は豚に見えます。そのように見ていく見方のことを有作(うさ)といいます。

本当は何もありません。無作なのです。無作も見えるし、有作とも言えるのです。ちょうど、寝言を言っているようなもので、何も本体などありません。人間の本体など何もありません。人間がペチャクチャとしゃべっているように見えますが、中身は何もありません。中身から見ると無作です。今、貴方の肉眼で見ている世界は有作です。有作と無作の関係はそのような関係です。
 「菩薩の法の遊戯神通(ゆげじんつう)し、仏国土を浄め、衆生を成就するに於いて、心喜楽(きぎょう)せざりき。」
 菩薩の法とは、遊戯神通(ゆげじんつう)です。何故かというと、有作で見ると限界がありますが、元々は無作です。生命は元々一つなのです。我々が生きているのは、バーチャルリアリティーですから、本当は何もありません。

そのように見た時に仏国土を清めるのです。何故、清めるのかというと、仏国土は衆生の集まりです。様々な衆生がいるのです。その衆生に向かって「お前達の正体はないのだ。全てバーチャルリアリティーなのだよ」と言うと、仏国土が清められてしまうのです。

仏国土と反対の世界が、娑婆世界です。娑婆世界は「俺が」「俺が」と突っ張っている堪忍の世界です。本体など何もありません。死んで終わりだと思っているのです。「もうじき、俺は死ぬのだ」と見ているのです。

仏は人間の見方が違います。「権力で暴れている人は可哀想だな。この人達は自分が無相であることも知らないのだな」という目で見ているのです。すると、「権力で生きている人は、可哀想な人だ」とわかるのです。全て無相で見るのです。無相で見ると清浄な仏国土に見えてくるのです。(2に続く)

 

 

『妙法蓮華経信解品第四』

爾の時に慧命須菩提(えみょうしゅぼだい)、摩訶迦旃延(まかかせんねん)、摩訶迦葉(まかかしょう)、摩訶目犍連(まかもつけんれん)、仏に従いたてまつりて聞ける所の未曾有(みぞうう)の法と、

世尊の舎利弗に阿耨多羅三藐三菩提の記を授けたもうとに、希有(けう)の心を発(おこ)し、
歓喜踊躍(かんきゆやく)す。即ち座より起(た)ちて衣服(えぶく)を整え、偏(ひとえ)に右の肩を袒(あらわ)にし、右の膝を地に著(つ)け、

一心に合掌し、曲躬(こくぐ)恭敬(くぎょう)し、尊顔(そんげん)を瞻仰(せんごう)して、仏に白して言さく、

我等僧の首(しゅ)に居し、年(とし)並に朽邁(くまい)せり。

自ら已に涅槃を得て、堪忍する所なしと謂(おも)いて、復阿耨多羅三藐三菩提を進求(しんぐ)せず、

世尊往昔(おうじゃく)の説法既に久し。我時に座に在って、身体疲懈(ひけ)し、但(ただ)、空(くう)、無相(むそう)、無作(むさ)を念じて、
菩薩の法の遊戯神通(ゆげじんつう)し、仏国土を浄め、衆生を成就するに於いて、心喜楽(きぎょう)せざりき。

 

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