札幌・北海道のレトロ建物大好きおぢさん日記

札幌(北海道)のレトロでモダンな建物を見たり撮影するのを趣味としています。

田上義也氏の建築探訪①

2023-01-15 23:14:09 | 田上義也氏

田上義也(たのうえ よしや、1899年(明治32年)5月5日 - 1991年(平成3年)8月17日)は、日本の建築家、音楽家。

栃木県西那須野村(現・那須塩原市)出身。本名吉也。

大正から昭和にかけて、北海道を拠点に活躍した。
若くしてフランク・ロイド・ライトの影響を受け、確かな腕を持つ棟梁の小島与市と出会った。
北海道の気候風土に根ざした、特徴的な要素を持つ洋風建築を数多く残している。

また、札幌新交響楽団の創立者でもあり、初代指揮者も兼務した。

※wikipediaより

 

上記の通り田上さんは個性的な洋風建築をたくさん設計しました。
だが古いものが多く代表作のいくつかはすでに解体されています
それでも建築活動が長かったので現存している建物もまだまだあります。

レトロ建物を撮影してまだ2年半ですが、田上作品をいくつか撮影し
中には解体に間に合わなかった建物や撮影後に解体された建物もあります。

ここでは自分で撮影出来た建物だけ載せていきます
いずれは解体された建物でも設計図や写真が残っているものを、まとめていきたいと思います。

 

参考とさせていただいたのは
昭和6  (1931)年発行 EDITIONS KENSETSUSHA 「田上建築画集」
昭和34(1959)年発行 ㈱建設情報社 「北国の住まい」
昭和41(1966)年発行 らいらっく書房 「田上義也建築作品抄」
昭和46(1971)年発行 ㈱工業調査会 「札幌オリンピック施設 -競技場・選手村・関連施設などの記録-
昭和52(1977)年発行 現代出版社 「北のまれびと<エゾライト・田上義也>上・下巻」

昭和58(1983)年発行 北海道銀行 「北海道銀行三十年史」
昭和62(1987)年発行 ライフ出版社復刻版 「田上義也建築畫集復刻版」
平成7(1995)年発行~~平成19(2007)年発行までの 北海道新聞社 「〇〇の建築探訪」シリーズ 

平成14(2002)年発行 「田上義也と札幌モダン」
平成23(2011)年発行 北海道銀行 「北海道銀行六十年史」
「札幌ノスタルジック建築散歩」様 

 

※建築年数の古い順で
※設計年と建築年で多少のズレがあります

 

「旧高田治作氏邸」
1925年(大正14年)
小樽市富岡

 

個人住宅の第一号が小樽の旧高田氏邸
第一号作品がまだ現存していることが驚きだ

高田氏は小樽生まれで小樽日報記者時代に石川啄木と親交があった人物。
人脈を介しての建築依頼と思われる。

坂の途中にある角地なので景色は良いであろうことは現地で確認できた
角ばった外観と窓の意匠、とくに階段室と思われる縦長の窓が印象的。

住宅街なので住民以外はあまり通らない場所だが、行って見れば思わず立ち止まって眺めてしまうだろう。

施主は数回変わっているが皆さん治すところは治しながら大事に住まれている。

 

 


2021年4月撮影

 

 

「旧小熊捍教授邸」
1927年(昭和2年)
札幌市中央区

 

北海道帝国大学(現在の北海道大学)の小熊捍(まもる)教授の自邸として建設された。

小熊教授は友人の西村北大教授の土地に建てたアトリエ(百円の家)を気に入り、設計者である田上氏を紹介してもらい自宅の設計を依頼したとあるが、北海道医師会初代会長であった開場博士の田上氏設計の自宅を見て気に入り田上氏を訪ねたの記もある。

昭和2年といえば田上氏28歳のころだった。

場所は南1条西20丁目にあったらしく、やがて隣にも田上氏設計の住宅(太秦北大教授邸)が建設された。
現在でいえば裏参道の入り口にあたる場所だろうか


※昭和33年当時の住宅地図 赤枠が「旧小熊邸」で名前は当時施主の「島本宅」
道路を挟んで西隣に「太秦」宅の名前も見える ここが西20丁目と21丁目の境目


邸の前の道路には路面電車がかつて走っていた(現在は地下に市営地下鉄東西線)
今はマルヤマクラスなどがある中央分離帯がある道路です。
西の突き当りが路面電車の旧円山公園電停跡でした。


※ストリートビューで見る現在地 左のMSが南1条西20丁目、道路を挟んで21丁目なので
ここに「小熊」「太秦」の田上氏設計の住宅が並んでいたと思われる。

 

東京帝国ホテルの建設で師事したアメリカ人の建築家フランク・ロイド・ライトの影響を受け、
大きく張り出した軒、窓の形や水平性を強調したデザインなどにロイドの影響を感じられる。

現在、2階正面に飾られている写真が小熊教授。
建築中に教授連を連れて見学に行ったら思ってもいないような作り方をしているので怒り「こんな家に金は払わない」と帰ってしまった。

その後に田上氏に謝罪し和解をしたエピソードがある
田上氏も若く自信もあり譲らなかったのでしょう。

小熊邸を訪ねた教授連や知人などからさらに田上氏に設計依頼があった。

移築後の場所は伏見5丁目。

 

 

 

 

この建物にはまだエピソードがある。

小熊教授が本州に転勤した後、創立したばかりの「北海道銀行」の所有になり
東京から来た初代頭取、島本 融氏が居住し大変に気に入った。
設計者である田上氏を呼び歓談したとある。

島本氏はその後この家の増築、東京の自宅、それに70を超える北海道銀行の支店や寮、保養所の建築を田上氏に依頼した。
また邸を訪ねた客が住宅を気に入り田上氏に建築の依頼をしたり
北海道銀行の重役なども住宅依頼をしている。

 

田上氏の建築人生には戦後の空白期間があるが、その時に島本さんと出会ったことは
田上氏の人生において大きな意味があったのではないか



※北海道銀行三十年史より

 

所有者が変わったりしながら、平成に入ると解体を危惧した市民の保存運動が起こり現在の地に平成10(1998)年に再現された。

当時の建物の建材はほとんど使われていないようなので移築とはいいがたいようだ
ただ建物のモダンさは当然として田上義也氏にとって意義のある建物と理解され
保存しようとした当時の市民関係者に敬服します。

 

現在はフィッシングショップの「ドリーバーデン」が1階と2階を使用しカフェを営業している。
内部を見るには釣りの商品かカフェを利用することだ。

 

 

 

 

 

 


2020年9月撮影

 


※田上建築画集より

 

 

「旧坂牛直太朗氏邸」
1927年(昭和2年)
小樽市入船

 

田上氏初期の作品に小樽の建築が多い
「田上義也と札幌モダン」では小樽人脈として、坂牛直太朗氏をあげている。

坂牛氏は小樽新聞社の社長であった上田重良氏の没後、夫人の久寿子さんが社長となり
それを補佐したのが女婿であった坂牛直太朗氏である。

大正13(1924)年に田上氏が突然来訪したときから交友が始まったと述べている
この前年に田上氏は「バチェラー学園」を竣工しているが、バチェラー氏は
坂牛氏が教会委員を務めた小樽聖公会に札幌から月1で来ていた。

そのようなバチェラー氏、キリスト教を背景として田上氏が人脈を作ったのかも知れない。

坂牛邸は張り出した多角形の応接間や垂直、水平線が印象的な個性的な家で
旧小熊邸と並び現存する中で代表作だと思う。

小樽公園を目の前にし、反対方向には天狗山が見える
お向かいには小学校も新設された。
所有は坂牛家だが現在は居住していないように見えた。

今の隣家は宗教法人の「MOA」になっているが、かつては坂牛氏の義母(上田家)の家があり、新築も田上氏が手掛けた。
建物は解体されたが名残りの「サイン」が坂牛邸との境の石垣に彫られている。

 

 

 

 

 

 


2021年4月撮影

 


※田上建築画集より

 

 

「旧佐田作郎氏邸」
1928年(昭和3年)
函館市元町

 

佐田氏は商事会社の社員としてカムチャッカや上海などで腕をふるい
函館出張所では主任として赴任する。
上海での勤務を活かし函館最初の支那への直航船を向けるなどして
海産商、経済界、社交界、やがて市議として活躍された。
そして終戦の一か月ほど前にフィリピンで戦死している。

佐田氏との関係性は現在不明だが、札幌の旧小熊邸の翌年に竣工しているので同時期の設計ではと言われる。

通称「プレイリーハウス」と呼ばれるがこれは田上氏の師匠であるF.Lライト氏が建てた建物の様式
「プレイリースタイル」に由来する。
ただ意匠は同じではないようだ。

観光客の多い元町であるが住宅街の小路突き当りにあるのでひっそりとしている。

後年にカフェの「日和茶房」に再利用されたが、閉店してしまった
現在は建物の内部を見ることは出来ない状態だ。

札幌の旧小熊邸、小樽の坂牛邸と並ぶ田上氏初期の代表的な住宅建築であろう。

 


 

 

 

 

 

 


2022年6月撮影

 


※田上建築画集より



※2015年札幌cafe本より



「S氏邸」
1929年(昭和4年)
札幌市中央区

 

S氏は北大農学部を卒業し、教官として残った。
同じ北大の小熊教授や太秦教授のどちらも知人であり、どちらの自宅を訪ねても建ち並ぶ田上設計の邸宅を見て紹介してほしいと頼んだのであろうか。

またS氏は北大恵迪寮の寮長であり、寮出身の小熊氏との交友はそこからかも知れない
現存しているS邸は増築や改築があり、建設当時とは1階の連続するガラス窓と2階の角にある窓にそれを見ることが出来る。

通りからは木々が多く満足に外観は見えないが、建物の裏側に建築当時の外観を見れるそうだ(敷地外からは見えないが)

当時は隣に養父である北大二代目学長である南鷹次郎氏の家があったが現在の所有者は別になった
ただ、S邸から3軒並んでレトロな建物が並んでいる
一番端の角の家は「札幌の建築探訪」に載るほどの家である。


 

 


2021年1月撮影

 

 

「S氏邸」
1930年(昭和5年)
札幌市中央区

 

S氏は北大医学部の教官出身の内科医師であり、竣工当初は医院兼、住宅であったようだ。

写真を見ると竣工時とは大きく改築されていることがわかるが
円筒形のデザイン箇所は原型に近い形で残されたようで医院当時は待合室であったの記載もある。

S医師と田上氏とは先に住宅を施工した医師会の人脈で依頼したのかも知れない。
(札幌市医師会館の建築も田上氏の設計による)

私事だが数十年前になるか、同じS医院という名前で駅前のビルに入居していた内科医院があった。
熱があったり風邪をひいた時はそこへ行っていた。
当時でさえすでにおじいちゃん先生であったが、もしかすると施主と関係があったかも知れない。

 

 

 


2020年8月、21年1月撮影

 


※田上建築画集より

 

 

「旧瀬川氏邸」
1930年(昭和5年)
小樽市見晴町

 

旧瀬川邸も現役の個人住宅である
海が見える山側にあり、撮影場所の車道から見上げるように敷地はよく見えるが
住宅が隠れるくらいに樹木があり全貌はよく見えない。

わずかに垣間見える玄関や窓枠の意匠などが歴史を感じさせる
外観の角ばったところが田上氏デザインを思わせるくらいかも知れない。

瀬川氏は当時「北海タイムス」の営業局長であった
美術・芸術のジャンルにより田上氏と北海タイムスの人脈繋がりが深くなった結果、田上氏に依頼したと思われる
この見晴町の住宅は当時の近辺の建物同様に別荘ではないかと思われる。

道路向かいには、田上氏の代表作であった「坂別邸」があったが2007年に焼失した。
坂別邸は1927年の竣工なので、それを見た瀬川氏が田上氏に設計の依頼をした可能性もある
いずれにしても映画のロケ地にまでなった旧坂別邸を惜しむ声は多い。

 

 

 

 


右側に旧坂別邸があった 2021年1月撮影

 

 

「旧石狩海浜ホテル跡」
1937年(昭和12年)
石狩市弁天町

 

1937年に竣工後、内部未完成のまま1945年に空襲により焼失した
戦後も80年近くなると札幌、石狩に空襲があったこと自体知らない市民が多いだろう。
爆弾を落とす方は海辺にある大きな施設が目立ったからではと思う。

その後、最近になって「石狩海浜保護センター」敷地内で風呂場跡が発見され
専門家の研究により「石狩海浜ホテル」跡と確認された。

 

 

 

 

 

 


2021年5月撮影

 

 

「旧帝産落部事務所」?
1941年(昭和16年)
八雲町落部

 

どなたかのブログに旧帝産落部事務所と記されてあったが真偽は不明
改装はされており確かに独特の設計かと思うが…

田上氏は一時、請われて会社経営をしたことがある
それが旧帝産航空株式会社で、八雲町落部で取締役工場長に田上氏が就いた。
 
戦時中に軍機に使用するベニヤ板を製造していたので戦後は米軍が摂取に来て
役員である田上氏には責任を科せられるかもだったが事なきを得た
また作家の伊藤整を夫人同士の繋がりにより雇用をしていた。
 
 
工場がこの敷地周辺にあり、建物は事務所であったとの情報を見た。
工場の創立は昭和18年ころで、工場は戦後に閉鎖されいくつかの会社の手に渡ったのち解体されたようだ。

現在「落部7区会館」になっているこの建物は当時のものの可能性があり
田上氏設計の可能性もあり?
 
現地に誰かいれば聞くことも出来たが誰もおらずかなわなかった。
建物は窓の小割風がなんとなく田上氏っぽくないかなぁと想像するのも楽しい。

 

 

 

 


2022年6月撮影

 

 

「更科源蔵氏邸」
1956年(昭和31年)
札幌市中央区

 

更科氏(1904-1985)は北海道生まれの詩人、アイヌ文化の研究家である。
田上氏設計である平取町の二風谷小学校の校歌も作詞している
また北海道立文学館の初代理事長も務めた人物であった。

更科氏も伊藤整と交友があったとのこと
1985年死去 故郷の弟子屈町に「更科源蔵文学資料館」がある。

田上氏とは北海道立図書館(現北菓楼札幌本館)にて知り合った
共通の友人である金田一昌三氏(のち田上氏設計の住宅を建築するが解体)が館長をしていたのでその繋がりであろうと言われているが
更科氏の談によると昭和7.8年ころ田舎で印刷屋をしていた時に見慣れない不思議な男が名刺の注文をした
それが田上義也と更科氏の出会いと述べている。

写真の茶色の壁の部分が改築された箇所で、屋根が正三角のファサードであった建築時の写真と比べたら大きな違いがわかる。

のち田上氏設計の「北1条教会」が取り壊される計画が報道されると、更科氏ほか田上氏と交友がある人たちが中心になり
保存の会を立ち上げ保存運動をした(結果は1979年に解体された)

 

 

 


2021年1月撮影

 


※北のまれびとより

 

 

「西條八十歌碑」
1958年(昭和33年)
函館市啄木小公園

 

田上氏は住宅や施設だけではなく、このような碑も制作している
令和4年、函館に行った際、啄木像のある海辺の公園が目印で行ってみたが
田上さん自身も西條さんと共にここでこの啄木像を見たそうだ。

碑には函館ライオンズクラブと函館東ライオンズクラブの銘がある
田上氏も1969年に札幌エルムライオンズクラブの会長に就いている。

他のジャンルと同様にライオンズクラブも田上氏の人脈を広げるのに
一役買っていた。

 

 

 

 


2022年6月撮影

 

 

「旧支笏湖ユースホステル」2021年解体
1960年(昭和35年)
千歳市支笏湖

 

支笏湖ユースホステルは日本最古のユースホステルであり
現存している最古のユースホステルでもあった。

当初は1955年に旧支笏小学校の校舎を利用し開業したとある
その後1960年に三角屋根の旧館を田上氏が設計建築した。

田上氏は同年に札幌の「宮ヶ丘ユースホステル」を設計し、その後も多くのユースホステルを設計した
また支笏湖には1967年に「ホテル鹿の湯」を設計している(解体済)

湖畔にほど近い木立の中に見える赤く三角の屋根が地上にまで延びているのが外観の大きな特徴であった。

内部には螺旋階段を設け、これがとても印象的
田上氏の代表作に螺旋階段を設けた施設が他にもある。

また階段廻りの小さな窓は師匠である F・L・ライトの意匠に通じるものがあると言われる。

すでに数年前から旧館は営業しておらず林間に姿を見せるだけであった。
訪問時には、照明関係や備品等も取り外されており
一部の床や躯体などに不安がありそうだった。

支笏湖ユースホステルは2021年3月に鶴雅グループが取得した
その後、再開発が企画され支笏湖ユースホステルは解体された。

建物には人間もそうだが寿命があり、長く大勢の宿泊客に親しまれたまま
ピリオドをうつ。

最後の最後に内部を見ることが出来て感謝しかないなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2021年4月撮影

 


※2021年北海道新聞より

 

 

「旧宮ヶ丘ユースホステル跡」
1960年(昭和35年)
札幌市中央区

 

宮ヶ丘ユースホステルは支笏湖ユースホステルと同年の竣工だが、ホステルの開業自体は支笏湖のほうが5年早い。

場所は札幌市中央区の円山の林の中で、閉業~解体後の現在は散策路が整備されている。

ユースホステルの名残りは、建築と同時と思われる石垣が残っていた
現在では建物があった痕跡など一つもないが不自然にある石垣こそが
ここにユースホステルがあったと証明してくれる。

竣工時のホステルは何と言ってもサイロ型の展望台だろう
旅行者に北海道らしさを味わって欲しかったのか
また赤レンガを使用しているのも同様の理由かもしれない。

ちなみに田上氏は「北海道ユースホステル協会」の会長を務めていた時期がある。

 

 

 

 

 


2021年5月撮影

 


※北のまれびとより

 

 

「旧カトリック海の星保育園」
1960年(昭和35年)
函館市日乃出町

 

SNSで知り合った方より、この建物も田上義也氏の設計と教えていただいた。
創建時は、両翼があり今の場所から数10メートル左に移動した場所にあったことが2011年のストリートビューで確認できた。
 
次に2016年のビューでは現在の位置にある建物が建てられていて
同じ建物が並んでいるのを見ることが出来る。
 
そして2021年では現在の建物だけで左側にあった同じ形の建物は解体され
新園舎が出来上がっていた。
つまり古い建物を解体するときに、先に同じもの建ててから古いほうを解体した
そういう計画だったのだろう。
なので実際には2016年ごろに新築されたものが残っている。
 
田上氏設計の北湯沢ユースホステルで見る尖形のせり出す屋根
中部の窓はステンドグラスになっており園児のお祈りをする場所のようだ。
 
現在は「うみのほし認定こども園」として多くの子供を見守っている。
 
 
 
 
 
 

2022年6月撮影

 


※公式HPより

つづく

 



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