日々是好日日記

心にうつりゆくよしなしごとを<思う存分>書きつくればあやしうこそものぐるほしけれ

人権と民主主義の先進国=アメリカの黄昏

2022年06月30日 07時15分41秒 | 政治
 「アメリカの連邦最高裁は6月24日、妊娠15週以降の人工妊娠中絶を原則として禁止する南部ミシシッピ州の法律が憲法違反にあたるかどうかが争われた裁判について、州法は合憲だという判断を示しました。そのうえで『憲法は中絶する権利を与えていない』として、半世紀近くにわたって判例となってきた1973年の『中絶は憲法で認められた女性の権利』だとする判断を覆しました」(2022/06/24 NHKTV)。
筆者が学校に入学したのは1946年4月、つまり敗戦後最初の尋常1年生であり、5年続いた国民学校最後の入学生。1年坊主の学校生活は、紙が無くて出版されない教科書を1年上級の先輩から貰い、その墨塗り作業から始まった。「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」で始まる先頭ページはパスだが、3ページ「ヘイタイサン トテチテタ」は読めなくなるように丁寧に墨汁を塗る。とはいえ、新入生は字が読めない。先生にとって、文盲の児童たちにどこからどこまで墨を塗るか間違いなく指示するのは容易ではない。東京横浜辺りからの疎開児童を呑み込んで膨れ上がった教室はカオスそのもの。「トテチテタ」までの墨塗りですら2日も3日もかかるという塩梅だった、と記憶している。
こんな話を思い出したのは上掲の妊娠中絶違憲判決を出したという米国連邦最高裁判所の判決のニュースに刺激されたためである。あの墨塗り時代の幼い子供たちの心中にすらアメリカの理性と知性、対する日本の後進性が、劣等感を刺激されながらよ~く分かっていたように思われる。それが今、こういう外電を見聞きするにつけ、あの時代あこがれの知的先進国アメリカ合衆国のどうしようもない精神の退廃を感じざるを得ないのである。
「堕胎の決断」という極めて個人的な問題は、他方でキリスト教という倫理性の強い宗教環境の中では手放しで扱えないテーマで、戦後の日本のように急激な人口増加の中で社会問題化する貧困に対して「家族制限!」として非情に法律が対処していった超現実主義的な例とは違って、すぐれて「倫理的」な問題であり、それゆえに1973年までアメリカでは妊娠中絶について議論が続いたのはむしろ当然でもあった。「性別」という哺乳類たるヒト科ヒト族の宿命的な問題ゆえに文明的にも法律的にも高度にセンシティブな問題だったからである。
しかし、これがドナルド=トランプという稀有な扇動政治家が指名した連邦最高裁判所の判事が圧倒的多数になるに及んでデリケートな問題がすべて政治的に扱われ、ついにこういう個人の肉体と精神の中にまで公権力が介在してくるまでになった。紛れもないアナクロニズムであって、これは大衆化したアメリカ政治と文化の知的劣化にほかならない。
かくて、米国南部や中西部を中心に全米の半数余りにあたる26の州で、今後中絶が厳しく規制される見通しだという。判決後にワシントンで行われたデモンストレーションのニュース報道画面に「Guns are More Protected than My Body」などと書いたプラカードが掲げられていた。直前に発生した小学校での銃乱射事件などの無警察状態を非難したものでもあろう。人権と民主主義の先進国アメリカの黄昏である。
 


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