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カテゴリ:読書案内「社会・歴史・哲学・思想」
桑野隆「生きることとしてのダイアローグ」(岩波書店)
![]() 「対話=ダイアローグ」という概念の大波をかぶって、まあ、だからといって、今更、ミハイル・バフチンの波に乗る元気もないわけで、斎藤環が参照している、素人向けらしい、この本の波になら溺れずに乗れるかなと手に取ったのが本書です。 で、今日の案内は桑野隆「生きることとしてのダイアローグ」(岩波書店)です。 桑野隆といえばトロツキーの「文学と革命」(岩波文庫)の訳者だったんじゃなかったか?なんていう、まあ、その時代の思い出が浮かんできましたが、ロシア思想史の人で、ミハイル・バフチン研究の、まあ、第一人者だと思います。 で、その方がバフチンの対話論についてかみ砕いてくださっているのがこの本です。 ミハイル・バフチンといえば、まあ、ボクにとっては「カーニヴァル論」と「ポリフォニー論」で1980年代ころからブームだった、ソビエト・ロシアの文学研究者でした。 『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』が川端香男里の訳でせりか書房から出されたのが1974年です。文化人類学、中心と周縁の山口昌男とかが盛んに話題にして、ボクも読みました。この本と、少し後に出た「ドストエフスキーの詩学」(ちくま学芸文庫)ですね。 本書の桑野隆さんがこうまとめられています 活況を呈したバフチン・ブームが一段落した二一世紀にあって、あらためて見なおされているのが、バフチン特有の対話論です。もともと、この対話論を実践的に応用しようという動きは分野によっては早くから見られましたが、昨今ではさらに広がりを見せ、教育や精神医療、介護、異文化交流、第二言語習得、その他、多様な場で活かされるようになってきています。以前は主として作品解読のための理論としてつかわれていたものが、今日では現場での実践でもって評価されるようになってきたわけです。(P4「はじめに」)小説の構造について、70年代から、80年代、「カーニヴァル論」、「ポリフォニー論」という、当時としては画期的な論考として翻訳されたバフチンですが、今、「対話論」へと読み手の関心が移ってきたというわけです。斎藤環の関心もそのあたりでした。 で、桑野さんのこの本の面白さは「対話論」を バフチンの思考、あるいは、思想の出発点に置いた!ことですね。「カーニヴァル」→「ポリフォニー」→対話というバフチン受容の流れを、対話→ポリフォニー→カーニヴァルとひっくり返していることだと感じました。 人間存在の根本にほ、それは人それぞれの内的な世界の立体化、まあ、意識化といってもいいのかもしれませんが、そこには必ず対話的なあり方があるということが、小説を書くドストエフスキーにはあって、小説的世界、複数の人間存在のせめぎあいの世界の描写においてポリフォニーが発生し、カーニヴァル的な社会を作り出すというのが、桑野さんの思考の方向性だというのがボクなりの理解でした。 で、やはり、気にかかるのは「対話」とは何かですが、本書の面白さは対話→内的言語・意識→発話・引用・異言語混淆→沈黙と展開する後半ですね。 大騒ぎになる「小説世界」の登場人物たちの内側にあるダイアローグ的世界、で、そのダイアローグの向うにあるのが「沈黙」、図式的に言えばこういう論旨ですが、 「沈黙」って何? なぜ、「沈黙」を話題にする必要があるの?まあ、そういう疑問が浮かびますね。それに対してこの引用から始まって、桑野さんの結論へ展開します。 静寂と音。音の知覚。静寂と沈黙。間と言葉の始まり。音でもって静寂を破ることは機械的で生理的である。これはまったくべつの世界なのである。静寂においてはなにひとつひびかないが、沈黙においてはだれひとり話していない。沈黙は、人間世界においてのみ可能なのである(バフチン)で、桑野さんはこの引用をこうまとめます。 〈静寂〉とは違って〈沈黙〉には、〈声〉を発する可能性、話しはじめる可能性があることを強調しています。「沈黙は、人間世界においてのみ可能なのである」というくだりからしても、人間にとっての〈沈黙〉がもつ意義が重視されています。この点では、〈静寂〉と〈沈黙〉をひとくくりのものとして論じる立場とは好対照をなしています。(P151)で、続けておっしゃっているのが、あっと声をあげそうになった具体例でした。 わたしには、「苦界浄土」三部作をはじめとする一連の著作で水俣の受難によりそった石牟礼道子がうかんできます。「苦界浄土」はその全体が、まさに沈黙を余儀なくされた人びとの〈心に染み入る対話〉となっています。中略 たとえば小説を読んでいるとします。騒がしくおしゃべりを続けている登場人物たちのことばの意味を読み取ろうするのであれば、彼らの内的対話に耳を澄ませる、するとその奥に「沈黙」があるのだということでしょうか。 それは、つまり、たとえば、教科書で読むことが出来る漱石の「こころ」の「先生の手紙」の饒舌の始まりには、まず、小説の登場人物で遺書の書き手である先生の沈黙があって、あの作品を書き始めて、そこまで書いてきた漱石の沈黙が、その向こうにある。あの場合は二重に重なった沈黙ですね。まあ、ボクなりには、そんなイメージですが。 発話される 言葉の始まりにある、あの、「間」ですよね。 で、桑野さんは、そこから言葉にたどりついて話し出す人もいれば、どうしても言葉が見つからない人もいることを示唆していました。チュッと、ドキドキしましたね。この年になって小説や映画がやめられないのは、多分、そこのところの「ほんとうのこと」を期待しているのでしょうね。 下に目次を貼りました。もちろん対話論の具体的解説、バフチン入門的案内も優れていると思います。正直、バフチン直接はほねですから、このあたりからいかがでしょうかね。 はじめに
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