病気だったから今がある。未来がある。

2024年12月31日

僕の糖尿病は、生まれついてのものだ。というより、糖尿病は本来遺伝性の病気だから、僕のような人がいることは何も不思議ではない。
ただ、僕の場合はそうと気づかずに生きてきたため、何もかもがしんどかった。前半人生のあらゆる場面で倦怠感や疲労回復の鈍さに悩まされ、失敗することが多かった。
このまま死んでしまおうと考えたことも、一度や二度ではない。
30代で糖尿病の治療が始まってからもそこまで楽にはならなかった。治療行為の苦しみが増えて、今度は自分が何を目指しているか分からなくなった。
この時期の僕は、今の自分から見ても怖いくらいに異常な思考をしていたと思う。人生がうまくいかないことでヤケクソだったのかもしれない。
身体がきつすぎて心の制御もできなくなる自分の病気をどれだけ恨んだか。
この病気さえなければ学生生活はもっと明るかっただろうし、大学進学を諦めることもなかった。きっと僕は、高山市ではない都会で普通に暮らしていたことだろう。
だが、もし普通に生きていたら今の自分はいなかった。遠い場所で暮らすうちに家族が欠けていき、最後は生まれ育った実家まで失っていた可能性がある。いや、確実にそうなっていた。
もしもの世界で起きるその結末は、僕が最も嫌なものだ。身体は健康であっても心が深く抉られて、喪失感に苛まれる人生になってしまうだろう。
普通に生きていたらどうやっても最悪のシナリオを防ぐことはできない。やはり、僕が糖尿病で生まれることが必要だった。
長年苦しめられてきた糖尿病を克服し、身体障害者になりながらもこれが本来の自分だと思えるまでになったから、余計にその思いを強くする。
もしかしたら、僕はこうなることが生まれる前から決められていたのかもしれない。そう思えるくらい、これまでの人生が噛み合い始めた。
それは自分の過去だけではない。父親の、祖父の、僕が生まれてもいなかった昔の記憶がここへ来て意味を持つようになった。
こんな人間、他にはいない。糖尿病を持って生まれたことも、病気で苦しんだ半生も、足を切断して身体障害者になったことも、また最終的に病気を克服したことも、全ては現在地への伏線だったのか。
最悪の結末こそ回避できたけど、これで終わりではない。むしろこの先が肝要だ。
僕は義足ではあっても動くことができる。手術した目も細かい文字が見えるようになった。だいいち気持ちに余裕があるから冷静にものを考えられる。
身も心も健康になれたからこその心境であろう。
神様が与えてくれたこの幸運を無駄にするわけにはいかない。だからお世話になった人に手紙を送って旧年を締めくくった。
新年が変化の年になることを願わずにはいられない。
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