小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

津和野を訪ねて

 わざわざ津和野に行けとは言わない。行きたいと思ったら行けばいいし、そうでなければ、それでもいい。

 

 津和野は島根県の西端、山口県のすぐ隣に位置する古い町だ。人口は7000人程で、ひと昔前は観光地として大きく栄えたと聞く。関東からのアクセスはお世辞にも良いとは言えず、東日本の人には馴染みが薄いかもしれない。

 去年の秋頃、友人の縁で津和野に行った。私は旅行が好きで全国を回っているが、だからこそ、同じ場所を再訪することは基本的に無い。しかし、津和野には甚く感動し、今年の秋にも足を運んでしまった。

 同じ場所に2回訪れたいと思ったことは、今までほとんどなかった。ずっと何故なのか考えていた。今年の滞在の中で、少し答えに近付けた気がする。津和野の静かさに魅力を感じたのだ。

 

 秋の早朝に津和野城跡に登ると雲海を望める。そして朝霧が晴れれば、津和野の町が一望できるはずだ。町の大きさと津和野城跡の標高がちょうどいいから、ゲームのオープニングムービーを見ているような気分になる。ただし、その存在感は格別である。

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朝の津和野城跡より

 山間の小さな盆地に広がる津和野の町並み。町を挟んで向かいの山々の間から、悠然と太陽が顔を出し始める。眩しさと暖かさを感じながら、登山で乱れた息を整える。肺に染み込む澄んだ空気は、まだ冷たい。落ち着きはじめた息遣いの音の隙間から、山の環境音が耳に届く。意識が視覚、聴覚、嗅覚、冷覚に集中していく。

 津和野の静かさと前述したが、それは音がしないということではなく、おだやかさ、あるいは心理的な静寂に近い。人里離れた山奥で味わう自然の中の、どこか油断できない静かさとも違う。石垣の上に寝転がって空を見上げてみてもいいのだ。観光客はほとんどいないから、他人の目も気にならない。

 そこが肝である。後にも一部を紹介するが、津和野には立派な観光資源がある。それにも関わらず、立地のためかコロナのためか、観光客が少ない。結果として、津和野に訪れた者はその荘厳さを独り占めできるのである。

 

 今回も前回も、昼下りに永明寺に行った。永明寺はJRの線路を渡った先の、町と山の境のあたりにある。1420年創建の古刹で、森鴎外の墓がある。閑静な墓所には苔むした墓石が立ち並び、ちょっとした考え事をしながら散歩をするには丁度良い場所である。

 ふと一つの墓石の戒名を見ると『珠峯幻影童女』とあった。不躾ながら中二病のような名前だなと思い、脇の没年を確認すると、年号が正徳(1711年~1716年)とあり、ありきたりな話だが時間のスケールに呆然とした。300年前の墓が今でも残っている。しかも、隅の方にそっと置かれているのではなく、正面に近い場所に堂々たるものであった。風雨の影響か石の後ろ半分ほどは大きくえぐられており、時の流れを体現している。音が苔に吸い込まれ、静寂が湧き上がってくるような場所であった。

 段差に腰を下ろして、誰もいない深々とした境内の中で紅葉を見上げながら物思いに耽る。集中力が切れたころに、まるで「そうだ 京都、行こう。」のCMみたいな場所だなと思った。

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永明寺にて

 後から知ったが、ある意味でそれは正しく、津和野の町並みは小京都と呼ばれている。実際、町の中には小京都の名にふさわしい見どころが沢山ある。しかし残念ながら、この記事ではそれらの紹介は割愛させてもらおうと思う。というのも、私が書きたいのは静かさであり、人の生活がありありと溢れるいささか騒がしい町中の様相とは趣きが異なるからである。

 代わりに、市街地とは別にもう一つ、京都のような場所がある。それが神社だ。

 

 夜は太皷谷稲成神社に行くべきだ。1773年創建で島根県内では出雲大社に次ぐ参拝客数を誇るそうで、立派なたたずまいである。「いなり」を「稲成」と表記する珍しい名前なのだが、おいなりさんであることに違いはなく、伏見稲荷などと並んで日本五大稲荷と称することもある。本殿は山の中腹にあり、そこまでのつづら折りになった参道は鳥居でコーティングされている。五代稲荷と呼ばれるだけあって、この神社の千本鳥居が伏見稲荷を彷彿とさせた。

 なぜ夜に行くべきかというと、ライトアップされているのだ。派手さはなく、丁寧に参道から本殿まで灯がともされる。そのわざとらしくないところが、幻想的な雰囲気を醸し出す。夜は参拝客もいないから、一段と妖しさを増す。

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つづら折りの千本鳥居

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本殿

 伏見稲荷では、ここまでの妖しさを見つけることは難しいだろう。京都はあまりに観光地として整備され過ぎていて、ナマの感じが失われているように思う。津和野は、城跡も永明寺も太皷谷稲成神社も、観光に値するスポットであるが、観光地という体裁は強くなく、永い時の中にありのままの姿を保っている。この点が、私に静かさを感じさせてくれるのだ。

 

 もし津和野が観光地として今も名を轟かせていたら、このありのままの姿は保たれなかっただろう。あるいは、今後、津和野の魅力が発見されて有名になれば、今の様子は失われてしまうのかもしれない。一方で、あまりに廃れてしまえば、それはそれで「ありのまま」なのかもしれないが、どうしても観光としての魅力は損なわれてしまう。おそらく、絶妙なバランスの上で成り立っているのが今の姿なのだ。きっとこのバランスはそう遠くない未来に崩れてしまう。だから、別にみんなに津和野に行ってほしいとは私は思わない。行きたいと思った人だけが行けばいいし、私としては、もう少しあの静かさを独り占めしていたい。

 

 

 最後に、静かさとは関係ないが、津和野の推しポイントを2つ紹介する。

 1つは、ローソン・ポプラのポプ弁である。津和野の町内に唯一のコンビニが、ローソン・ポプラだ。ポプラは広島に本社を構え、中国地方や関東、九州の一部に展開するコンビニの中堅チェーン店である。その場で白米をよそってくれる弁当に特徴があり、ポプ弁の愛称で知られている。その魅力や、山陰地方での存在感、ローソンとの資本業務提携の歴史など、ポプラについて語り出すとそれだけで別の記事が出来上がってしまいそうだが、私はポプラのプロではないのでその役目は別の人に任せる。なんにせよ、私はポプラのファンなのだ。津和野を、いや、山陰を訪れる度に、一度はポプ弁を食べると決めている。別に特別美味しいというわけでもないが、なぜか私の心をとらえて離さない。皆さんも、もしポプラを見かけたら是非食べてみてほしい。

 もう1つは、町の南の方にある道の駅なごみの里に併設された、あさぎりの湯という入浴施設である。あさぎりの湯には何か特別な部分があるわけではないのだが、サウナと水風呂、そしてサウナから出た後の休憩スペースがきちんと作られているのが魅力的であった。近年サウナのブームがきているのだが、知らない人からすれば何のこっちゃという感じだろう。しかし、サウナで重要なのはサウナ本体だけでなく、いかにサウナから出た後に整うことができるのかという点である。もしサウナ好きの方が津和野に行くのであれば、一度立ち寄ってみると良いかもしれない。