エロマンガレビュー 新堂エル『変身』-その魔力の根源と暴走―
「変わりたいと思う気持ちは、自殺だよね」
いくつかのエロマンガには魔力がある。
名作と呼ばれるそれらは、読者の心に何か残るものを突き刺し、彼らをして友達に勧めさせたり感想をブログや商品レビューに書かせたりする不思議な力をもつ。
今回レビューする『変身』もその一つだ。魔力の効果とは人から人へ語り継がれることで、Dr.ヒルルク風に言うと「人に忘れられない、死なないこと」だといえる。
では一体、新堂エル氏の『変身』の魔力はどこに由来するのだろうか。本レビューはそれを考える。
ただし魔法という言葉に引っ張られて、作者や作品の描写に内旋していく旅に出かけはしない。それは出口のない迷宮で、堂々巡りを繰り返してしまう。
そうではなくてもっと具体的な、作品に込められた意図というか設計を探るべきなのだ。摩訶不思議なマジックもタネはちょっとした仕掛けである。
(以下、敬称略)
2016年に発行された本作は、様々なエロマンガ評論家によってレビューされてきた。
あらかじめ明示しておくと、私のレビューは以下の5つを下敷きにしており、彼らがすでに述べたことを繰り返さず、むしろ新しい何かを発見しようという試みである。
あと新野安とひかけんのラジオも聞いた。このラジオは新野のレビューのたたき台として位置付けられるのかな。ブログには書かれなかった、本レビューにも重なる指摘がいくつかあった。
なのであらすじもかいつまんで説明する。
ごく普通のイケてない女子である咲は、そんなつまらない自分から脱却しようと高校デビューし、リア充グループに入る。だが偶然悪い男に捕まりレイプ気味のセックスでクスリを覚えさせられてしまう。そこからが転落の始まりで、悪い男に無垢な恋心を利用され、売春、堕胎、薬物中毒と破滅の道を突き進む。その過程では、援助交際や父親から犯され家を追い出されるというおまけつき。最終話では父親のわからない子を孕んだ薬物中毒の浮浪者にまで身を落とす。路上売春しながら街をうろつき、最後にはホームレス狩りから理不尽な暴行を受け半死半生。お腹の子も流産し、心身ともに限界を迎えた咲は駅のトイレでオーバードーズにより自殺する。
なんとも救いようのない悲劇で、読んだ後は心がしんどい。本当にしんどい。読んでていてどんどん気分が落ちる。『火垂るの墓』と同じ気持ちになった。それは私個人に限った話ではなく、上記の批評家やAmazonレビューなどにもみられる一般的な反応である。
この『変身』の鬱展開が持つ効用については、飯田一史によるWEB小説のデスゲームものの分析が適用できる。彼によれば、読者はデスゲームのグロテスク・理不尽な描写によって感じた負の感情を誰かと共有したくなるのであり、WEB小説はそうした毒を持っていたほうがより売れやすくなるのだという(2016 : 106-108)。
『変身』の魔力とは読んだ後の不快さであり、読者はこの気持ちを誰かと共有したくなるのだ。
だがこんなのは前置き代わりの、魔力についての最も浅い説明でしかない。
私がレビューしたいのはこの負の感情がどこに由来するのかである。
とっとと結論を書く。
『変身』の負の感情が由来するのは
・画面がずっと暗い
・セックスする場所が狭くて汚い
この2つ(3要素)である。「冷たい(寒そう)」をプラスαしてもいい。
すごくシンプルで、ある種拍子抜けなこの「暗い・狭い・汚い」という生理的な不快さが『変身』を読んだ後に残る負の感情の最も大きな根源である。
※この3要素を先行レビュワーたちが無視したわけではない。というか、彼らはこれらに魅了され前提としたうえで個々の描写を論じている。それは彼らの「陰鬱」、「悲壮感」、あるいは「映画のような」という雰囲気を語る際の語彙から察せられる。なので、本レビューはこの主従関係の相対化を目指してみた。一通り書き終えたところで『エロマンガ夜話』を聞き直したら、暗いと汚いはすでに新野たちによって指摘されていた。けれど、「画面ずっと暗いとかもあるね」とか「またこれが汚いおっさんでさぁ~」みたいな程度に留まり、議論されなかった。特に暗さの方は終わり際に上記のセリフが新野の口からぽろっと出ただけだった。詳しく聞いてみたかったけど、とにかくセーフ。耳に入った瞬間、心臓が跳ねた。
さて。
本レビューは先行レビューが読み解いた魔力を否定しない。それらを単純にまとめると以下の4つとなる。
1.執拗な描写による作品のリアリズム
2.悲劇が過剰・過激で諸悪の根源が存在しない
3.ヒロイン咲の善良で無垢な変身願望
4.咲がセックスに乗り気じゃなく、キメセクも相まって快楽が破滅的
それ以外の、諸々のショッキングなシーンやヒロインの歯が欠けているなどの細かい描写、要所要所の効果的な演出などに魔力がないというつもりもない。
むしろ「暗い・狭い・汚い」は、それらを統括し悲劇へと方向付ける通奏低音なのである。ストーリーやキャラ、描写といったまず目につく要素が「メロディ」だとするなら、「暗い・狭い・汚い」は「コード」である。
「メロディ」のどれにも帰属するようでどれにも帰属しない『変身』のあの捉えどころのない不快さは、実はこの「暗い・狭い・汚い」という「マイナーコード」がずーーーっと背後で奏でられていることにこそまず由来すると、私は考える。
どうしてこれをそんなにも強調するのかというと、私は最初本作を流し読みしたからである。読んだうちに入らないほどだったが、にもかかわらず不快さを感じた。これが「暗い・狭い・汚い」を主張する何よりの理由である。
『変身』がエロマンガ史に残る名作であるとは前から知っていたので、いつか読むつもりではあった。けれどバッドエンドらしいとも聞いていたのでどうしても読む気になれず、うだうだと月日が流れた。ようやく重い腰を上げたものの、レビューを書くつもりなどなく、結局「ヌけそうなエロシーンだけ見る」というエロを使うときの「普通の」読み方をした。
一回目の読みはそれはもう粗かった。最後のオチには目を通したが、その手前のホームレス狩りのシーンはいかにもキツそうだったので読み終えるより先にページをめくっていった。冒頭の咲が地味子からイケてる女子に変わるシーン(堕ちるために必要な上昇のシーン)も拾い読みだったせいで、たい焼きのシーン[1]を見逃した。各話の導入パートもそんな調子。堕胎シーンやドラッグ接種シーンは「なんかそんなことやってんな」と認識した程度。咲を転落に引きずりこんだ彼氏の名前も覚えてなかったし、そいつの借金を咲が肩代わりしてたのも読み直してはじめて知った。父親に犯されるシーンは丸ごと読み飛ばした。種々の細かい演出やセリフなど言わずもがな。
引用したレビューの解説では、こんな読み方をした私が不快になった理由を説明できないのだ。
ここからこの読書体験をもとに先行レビューが発見した魔力を検討していくが、その前に彼らも指摘してはいる重要な事実を詳述する。
本作が属する「快楽堕ち」ジャンルにおいて腹ボテ、黒ギャルビッチ化といった展開は珍しいものではないどころか、定番である。薬物も、そのままズバリドラッグを描くのは珍しいが、媚薬で調教・淫乱化というパターンなんて飽きるほど読んできた。
「三つ編みメガネの地味な女の子が、チャラい男にナンパされてクスリで調教。黒ギャルビッチ化して、腹ボテしながらホームレスともヤっちゃう薬中にまで堕ちる話」
これは『変身』の説明として大切な何かが足りないが、あらすじとしては充分なはずだ。ただこう書いた途端、『変身』はまさしく「快楽堕ち」の王道を押さえた、ともすればありきたりな作品のように思える。この思考回路ができると、合間合間に挟まれたいじめ描写や彼氏の借金肩代わりなんて展開さえも陳腐に見えてくるから不思議だ。とはいえ、テンプレを過不足なく用意しそれらを滞りなく配置することがまずもって至難の業なのは言うまでもない。
定型を当てはめてみれば、彼氏の言いなりになった咲が売春を重ね髪を染め肌を焼く第4話終盤なんて、まさにヒロイン調教のS心が満たされるエピソードである。もっとも咲に感情移入させる人称視点・仕掛けによって今更そんな読み方はできないのだが。
それより重要なのは、定型によって『変身』の謎が明らかになることだ。それは最後のホームレス狩りである。咲が彼女と同い年くらいの高校生集団から流産するほどの暴行を受ける悲惨なシーンである。これだけなら理不尽な悲劇として理解できるのだが、咲が腹を蹴られながらアクメするので正直意味がわからない。「エロいのか、これ?」と思ってしまうあのシーンは、つまり出産アクメの変型だ。エロマンガで受精シーンをオチにしなかった以上、出産シーンまで描かざるをえない。もはや原型がないような気もするけど、いわばあれは「流産アクメ」なのだ。
この点、執筆時の新堂エルの意識が気になる。「この後の展開には出産アクメが来るべきだが、子供が生まれると悲劇性が薄まるから流産させよう」という冷静な計算だったのか、「せっかく産むって決心したのに流産するなんて可哀想♡可愛いね♡」とリビドーに従っただけなのか、あるいは「なんとなくこう描こうと思った」という暗黙知なのか。
それら全部か、それ以外か。じゃあ、母乳という定型が無いのは?画面が白くなるのは空気を壊すから?それとも単に新堂エルの性癖じゃないから?彼の例えば『four leaf lover 2』のあとがきなんかを読むとリビドーと〆切しか頭に無さそうだけど、果たして。
話を戻して。
咲の愚かさ(端的に言って他者に依存する断り切れない性格)も同様で、これもエロマンガにおける三つ編みメガネの地味な女の子の定型の1つだ。彼女たちは、例えば学級委員長だからクラスの男子の性処理をしなければならないという超次元の理屈にいとも容易く押し切られ、しかも都合のいいことに実は男に興味津々である。咲のセックスへのスタンスが、彼氏に貢ぐためであったりクスリ欲しさで仕方なくといった嫌々なものであることも、とどのつまりは「くやしい。でも感じちゃう」というお馴染みのフリとオチに還元できる。
であるならば、要約が取りこぼした要素であるヒロインである咲が死ぬというバッドエンド[2]がこの作品の類稀さなのか。確かに快楽堕ちのオチといえば、肉便器になる程度が大抵だ。それは社会的な(精神的な)死で、文字通り死ぬことはない。
先行レビューもこの点に触れているが、しかしながら、ヒロインが死んでバッドエンドなんて一昔前のセカイ系とやらではありふれた展開であった。エロマンガにおいても、クジラックスの『ろりともだち』は主人公2人の死によって終わるし、リョナ系の凌辱作品においてヒロインが死んで終わることはしばしばある。それらが『変身』と同じくらい鬱展開かといわれるとそうではない。「『変身』はヒロインが死ぬから悲劇なのだ」という説明は正しいが、だから特異であるとはいえない。
それでは、執拗なリアリズムについてはどうか。確かに本作におけるドラッグ描写は接種の手順や接種後の反応が丁寧に描かれ、なにより咲が薬物依存から抜け出せずどんどん泥沼に嵌まっていく過程こそ本作の醍醐味である。他方、堕胎についてもその手術シーンまでもが描かれ、さらにカチャカチャという器具の無機質な音によってその冷酷さが強調されている。
ドラッグ接種は注射器をぷすっと刺す一コマで終わることが多いし、堕胎も「堕胎した」とセリフで言及するのにとどめることが大抵だ。ヤク漬け肉便器になった後のこととか乱交の性病リスクなんて想像しないほうが幸せである。新野の言葉を借りれば、「そんなものは見たくない」。したがって、本作は他作品が避けたグロテスクな部分をあえて描くことで強烈なインパクトを残す作品であるといえる。
また、すべての発端となった咲の「イケてる女の子になりたい。友達が欲しい」という変身願望は誰しもがもつ欲求である。これにより咲に親近感が生まれ、あたかも「実話ルポ 日本の暗部」的なノンフィクション系ドキュメンタリーを見ているかのような生々しさを感じる。他方、新堂エルの意図に沿って言うと『変身』は、この変身願望が叶わずそれどころか都合のいい女として使われるばかりで、しかしその束の間の触れ合い・必要とされることに依存してしまい脱け出せず、最後には誰からも拒絶される咲の不幸さを可愛く思う作品である。この欲求不満の構造も不快さに大きく寄与している。
これらの指摘については全面的に賛成で、執拗なリアリズム(とりわけ雑誌掲載時には修正されていた薬物シーン)は、「メロディ」の中で最強の威力を持っているといっても過言ではない。
だだ一方で、作品全体にリアリズムが貫かれているかというと疑問である。例えば咲の母は、咲が父親にレイプされたことについて、父親の言い分のみを信用しひたすら咲を罵倒する。1話の時には高校デビューしてきれいになった咲を見て喜び、2話では遅く帰ってきた咲を心配し「何があってもお母さんは咲の味方だからね」と抱きしめた母親がこのシーンになるや豹変、咲を殴りつけ「売女」などと罵る。殴られた直後の咲のセリフによって読者に優しかった母親をしっかり思い出させていることから、1~2話のそれは転落というオチのためのフリだったと察せられる。同様に、父親のわからない子どもの妊娠が発覚した5話冒頭のシーンの咲についても、初めての妊娠がそんなかたちなら普通もっと狼狽するだろうと思うが、堕胎シーンへと早く展開を進めたかったという都合があるのだろう。
そもそも論でいうと、新堂エルの作品はかなりの強度レイプファンタジーである。というか凌辱ものである以上、その基本構造は「処女がレイプで興奮(永山 2014 : 219)」にならざるをえない。リアルかどうかを検討する読み方にたいして、私は一定の意義を認めている。けれどこの読み方は、作品のある部分をリアルだと評価すればするほどかえってそこ以外のアンリアルな部分も強調され、最終的に「吉田咲なんて実在しない」という事実の前に行き詰まる困難を抱えている。
であるならば議論すべきは個別の具体的描写にリアリティがあるかよりも、全体的な説得力のほうではないか。それは理性を了解させるよりもむしろ感性を納得させる力といえる。「そこまでいうならそうなのかな」と頭に疑問を思い浮かばせない、身体に働きかける作用なのである(cf. 佐々木重洋著『仮面パフォーマンスの人類学』)。
『変身』はフィクションであることを読者に思い出させない。上記の母親の豹変もその一例で、『変身』は「マジレス」を許さない。つまり、フィクションをフィクションだと思い出す隙間がない。他のエロマンガひいてはエンタメ一般と異なり、「咲ちゃんなんだかんだメンタルとフィジカル強いよね」とか「ホームレスのアメリカ感すごいな」とか「おなかの赤ちゃんに精子かかっちゃうってそんなわけないだろ笑」などとツッコミを入れ冷静になれる時間が存在しないのである。それは作品全体を覆う空気がそうさせているのであって、執拗なリアリズムの強い現実感もこれに支えられている。
諸々の細かな演出は気づく人だけが気付くものだし、ショッキングなシーンも読まなきゃそれまで。それらも不快さに寄与してはいるがクリティカルではない。咲のセックスに対するスタンスも流し読みではわからない。
あと、『変身』の悲劇に諸悪の根源がいないことについて。誰が悪かったのかなんてまさに新堂エルがしてほしくなかった「説教的なとらえ方」だけど、私的にはやはり咲で確定している。悪い彼氏のセフレになったことを「大人の世界に入ってるんだ」と勘違いしたり、「風俗説教おじさん」の「説教」にはムキになって反論したり、各段階で選択肢を間違えたのは彼女自身の馬鹿さによる。中学時代一言も喋ることがなかったせいかそれとも親の育て方がよくなかったのか、異性(父性?)との温かい触れ合いに飢えていたっぽくてその辺には同情の余地があるけど、心の内なんて外から見えないし、「キメて気持ちよくなりたいだけの糞ジャンキー」という悪い彼氏の指摘は的を得ている。
論理を誤謬してはいけない。「死で終わるバッドエンドのエロマンガが他にもある」ことと「『変身』がすごい悲劇である」ことは矛盾なく両立する。それにリアルであればあるほど面白い作品になるわけでもない。何より誤解しないでほしいのは、私に『変身』の価値を下げるつもりは全くないのである。
そうではなくて、私は『変身』の魔力を解き明かしたいだけなのである。
『変身』は流し読みした私をも打ちのめした。であるならば、『変身』の不快さは個々の具体的な描写やストーリー構成よりもむしろ作品全体を貫く空気にこそ宿っているのではないか。たとえ前情報を何も知らなかったとしても表紙を見た時点でなんだか不穏さを感じハッピーエンドではなさそうだと察知できることも、その証左となろう。
そうして発見したのが「暗い・狭い・汚い」であった。
ここから「暗い・狭い・汚い」についてそれぞれみていくのだが、これら各要素は「現実にそうである」と「演出」の2つに便宜的に区分できる。「現実にそうである」というのは、夜や地下室、あるいは黒ギャルとかホームレスとか、描かれる対象がすでに各要素を内包している場合である。黒ギャルが夜の街を歩けば、そりゃ当然画面に黒色が多く使われるので、暗い印象を与えることになる。一方「演出」とは、部屋が散らかっているとかキャラの顔に影が差しているとかおっさんが毛むくじゃらとか、つまり照明や構図、小物などによって各要素を強調する技法である。作者の作為がある=「演出」/ない=「現実にそうである」と対応させることもでき、「演出」のいくつかは先行レビュワーによって指摘されている。
しかしながら、写真やドキュメンタリーとは異なり漫画において、その全ては作者の意図の産物である。もちろんその意図が形成される過程では、編集の指示や雑誌の都合、アシスタントとの共同作業などの干渉を受けているけれど、こう言って差し支えない。「現実にそうである」オブジェクトを選びそこに配置したという側面からみれば、それらもまた新堂エルの作為となる。なにより、作為があろうとなかろうと「暗いなあ」という物理的な認知は変わらない。例えば『変身』に登場する竿役はほとんどがキモいおっさんである。この汚さが、現実のおっさんが大概キモいからなのか、それとも無垢な咲が汚されていく過程を表現する演出なのかをはっきりさせることは本レビューにおいて役立たない。堕胎シーンの病院や彼氏に捨てられた咲がアパートの階段で途方に暮れているシーンの暗さも同様だ。演出かそうでないかの分類は、本レビューにおいて整理整頓の意味しかない。
画面の暗さについて
演出を学んでいなくても、例えば喧嘩シーンでは天気を悪くすることくらい知っている。シリアスなシーンや恐怖シーンでは画面を暗くするもので、暗さは不安や恐怖、背徳感を演出するのである。ただしこの効果は他の諸要素に影響され変質しうるので、イチャラブとかオネショタなんかで暗いと「イケナイコト♡感」が前面に出てくる。
『変身』を目から遠ざけぱらぱら捲るとわかりやすんだが、この作品は黒色が多く使われている。
新堂エル本人の線の太い塗りの濃い絵柄によるのではない。例えば『新堂エルの文化人類学』を同じようにパラパラしてみると白い印象を受け、違いがよくわかる。当作より、簡単にではあるが3話後半のヒロインたちが凌辱を受けるシーンを具体的に見てみよう。家畜以下・オナホ以下の扱いを受け、ヒロインが「人生…終わっちゃったかも…」「私がバカだったから…終わった…何もかも…おわった」とモノローグする前後当たりである。作品全体を貫くコメディタッチを差し引いても、このシーンからは悲劇的な印象を受けない。言ってることは絶望的でヤられていることは理不尽な暴力なのに、不快ではない。シチュエーションが身近ではないとか諸々の要素も関係しているだろうが、何よりずっと晴天の下だからというのが大きい。それが影響して、サブヒロインの褐色美女も健康的な小麦色に見える。
一方、『変身』は明るい色の服を着ているキャラが援助交際に行くときの咲と学校のモブキャラぐらいしかおらず、舞台となるのも専ら暗い場所で時刻も夜(現実)。それに目まで垂れた前髪のせいで咲の顔にはいつも影が差している(演出)。彼女が白い頃はまだ朝のシーンや明るい場面もある(現実)が、黒ギャルになってからは本当に暗い(現実)。あとなんかいい笑顔がない。クスリキメた咲以外だと、悪だくみするときくらいしかキャラが笑わない(演出)。
唯一明るい服を着て昼間の広い場所を舞台にするシーンが死ぬ直前の咲が見た幻想であることも踏まえると、作者である新堂エルはおそらく意図的にやっている。
改めて作品を読んでいると少し引っかかるシーンが存在する。それは咲がクラスの男子に輪姦されているシーンなのだが、その場所が学校の階段の陰なのだ。
それも外階段ではなく校舎の中の階段である。
こういった場合、一話前のフェラ抜きシーンと同じく空き教室を使うか、もしくはトイレがパターンではないだろうか。仮に私が美人の同級生を犯せるぜうっひょーとなったとしても、階段のそばでするのは絶対いやだ。
おそらく学校のトイレでは明るすぎたのだ。公衆トイレならまだしも、電灯と窓のある一般的な昼の学校のトイレでは暗さを演出することが難しかったと推測する。電灯を壊すなりしてボロくすれば暗くすることもできただろうが、そうしてしまえば「地味な優等生である咲ちゃんが通っているにしてはやけに治安の悪い学校だな」とノイズが生じてしまう。わざわざ旧校舎なんて新たな舞台を作るのも面倒だ。転落劇である都合上咲は学校からも追放されることが必要で、そのためにうってつけなのはイジメである。咲が「ビッチ、雌豚」と他生徒からまるで予言みたいに罵られるために、この輪姦はバレる必要があった。こうした理由により、階段の陰が選ばれたのだろう。
セックスする場所がずっと狭く汚いについて
咲がセックスする場所はずっと狭いし汚い。密室が多い。悪い男とするときはカラオケボックスや地下のバーの机の上(現実)。彼氏の家もごみが散乱している(現実か演出かどっちつかず)。浮浪者となってからは段ボールハウスの中(現実)で、しかも相手は性病持ちのおっさん(現実か演出かどっちつかず)。ヤリ捨てられるときはビル裏のゴミ捨て場(現実)。唯一広かったのはホームレスと3Pした際の公園なのだが、巧妙なことに時刻が深夜(現実)。おかげで画面全体がひたすら暗く、広さや距離感が全然つかめないという不安をあおる設計となっている(それはバーや売春時のホテルも同様)。キモいおっさんとセックスするたびに咲は彼らの口臭や体臭に心の中で毒づくし(現実)、また彼らにプレスされる体位も窮屈さを演出するのに一役買っている(演出)。咲が悪阻でゲロ吐くシーンはいうまでもない(現実)。
そういえば、薬物中毒末期の咲は禁断症状で臭かった(現実)。臭いヒロインなんて『あそびあそばせ』のオリビアくらいなもので、新堂エルがあとがきで述べた制作スタンスである「中途半端にしちゃいけない気持ち」が垣間見えた。
「暗い・狭い・汚い」の不快さについては他作品と比較してみるとわかりやすい。
主人公(読者が感情移入するキャラ)が細かく段階を踏んで破滅に突き進み最後には死ぬというストーリー構造やイケてない主人公というキャラ造形の点において、『変身』はクジラックスの「ろりともだち」に類似する。
「ろりともだち」においてセックスの場となるのは軽の車内なのだが、それにしては広い。成人男性2人とロリ1人がいろいろな体位でセックスしているというのに窮屈さを感じさせない。それに、行為中はいつも昼間のように明るい。
「ろりともだち」がロリレイプ全国行脚という犯罪をテーマに、ロリの女性器に酒を入れる疑似的なキメセクまで描きながらも、嫌な印象をそこまで与えず、それどころか『変身』とは対照的な青春もののような爽快感さえ読後に残すのは、一つには作品が開放的であるからではないか。そしてそれには季節が夏であることを明示し、ロリや主人公に明るい服を着せ明るいところでセックスをさせたことも寄与している。
もう一つの比較対象として、可哀想がぷっぷくぷー名義で描いた同人誌『極上クソザコブスメスマ〇コ』を扱いたい。これはクラスの地味な優等生明美がチャラ男のチンポの虜となり、タトゥーを入れ腹ボテ化。チャラ男たちの肉便器になり、大学の合格も取り消し。最期は孕んだ子をトイレで出産・遺棄し、逮捕されるという話。一見すると『変身』にそっくりだがその雰囲気というか空気感は全然似ておらず、不快ではない。片や単行本で片や18ページの同人誌なのだから描写の深さに差が出るのは当然だ。最期の顛末も文章でのモノローグのかたちで提示される。それ以外にも、明美が進んで肉便器に変身したがっている点やドラッグをキメない点も異なる。だが何よりも、暗くもないし狭くもないのだ。チャラ男たちのたまり場となる部屋は、たばこの臭いこそ充満しているけれど暖房が効いていてごみも落ちていない。何よりベッドが広い。1Kくらいの部屋なのにダブルサイズくらいある。それに映画館での露出セックスのシーンでは、上映中とは思えないほど明るい。背景のモブの顔には軽蔑ではなく興奮が浮かんでおり、悲惨さを弱めている。
同じく。快楽堕ちというジャンルを共有し、ヒロインの変身願望を主軸にストーリーが展開し、精液が媚薬として使われていながらも、『変身』ほど不快ではないのが、えいとまん『雌吹』の『キンギョバチ』である。
『キンギョバチ』は「薄暗い・広い・きれい」である。和佐見村というど田舎の閉じたコミュニティが舞台ではあるものの、空間的な広がりはある。セックスの場は布団なので狭いけれど、敷かれた和室は広くて清潔である。ヒロインの「東京でキラキラした女の子になりたい」という変身願望は村の掟によって理不尽に否定され、ヒロインは快楽によって屈する。「薄暗い」のおかげで読後感は気分が落ちるが、『変身』ほどではない。『キンギョバチ』の暗さは時折り影が差す程度で、部屋は明るいし、ヒロインの肌は白く輝いている。「精液を長年にわたり少しずつ飲ませて調教ってなんだよ笑」とツッコむ余裕もある。
ちなみに新堂エルは『Four Leaf Lover』をはじめとする様々な同人誌においてコマとコマの間、ページの余白を全部黒く塗りつぶすという演出を使う[3]。『Four Leaf Lover』はよつばと!のヒロインたちが不良外国人にキメセクを教え込まれ腹ボテ肉便器化、最後は彼氏に捨てられトイレで出産という『変身』のプロトタイプとも位置付けられる後味の悪い作品である。おそらく、少ないページで悲劇性を強調するにはこの方法がコスパよかったのだろう。
魔力の暴走
新堂エルは『変身』の不快さが商業エロマンガとしては過剰であることを自覚している。あとがきにおいて、不本意ながら内容が少々人を選ぶものになったと語り、ヒロインが死ぬラストは担当編集も苦笑するものであったと回顧している。それらをふまえた上で、「悲劇的なとらえ方や説教的なとらえ方もできそうではありますが、まずは純粋に不幸な娘をかわいく思ってほしい話、『変身』でした」と読み方を示す。さらには、カバーを外した表紙に「変身撮影風景?」というアシスタントが描いたマンガを掲載している(サムネイル画像)。
あたかも負けヒロインに萌えるかのような感情を持ってほしいと読者に要求したり、作品がフィクションであることを強調するようなおまけマンガを付け足すというのは、つまり魔力を脱こうとしているのである(こんな程度じゃ脱けないんだけど)。
せっかく「中途半端にしちゃいけない気持ち」で徹底して負の感情を込めたのに、それを抑えて何がしたかったのか。
おそらく(私のような)読者が作品を誤読するのを防ぎたかったのだろう。その強力な魔力で脳を破壊され、咲ちゃんの悲劇に感情移入しすぎてしまい肝心の右手を動かすどころか、「救いはないんですか!」とジョジョの東方仗助がクレイジーダイヤモンドで咲を救う謎のコラマンガを作る[4]。そこまでじゃないにしろ「かわいそうなのは抜けない」と冷めてほしくはなかった。もっというと、「新堂エル路線変えるのか。じゃあもういいや」と愛想を尽かす固定客を減らさなくてはならなかった。それは新堂エル本人が「次回作はガラッと変わります」と宣言してあとがきを閉じていることからも明らかである。
忘れてはならない。本作は商業エロマンガである。『Four Leaf Lover』のようなエロ同人でもなければ、『闇金ウシジマくん』のような反面教師にすべき一般コミックでもない。
悲劇のためにセックスがあるのではなく、セックスのために悲劇があるのだ。
「メロディ」と「コード」ばかりが目立ち肝心の歌が聞こえなくなっては本末転倒である。
『変身』は、凌辱や乱交、快楽堕ちを得意とする「作詞作曲家兼プロデューサー」新堂エルによって作られた「楽曲」である。行為中の咲のモノローグや喘ぎ声、竿役の言葉攻めや導入といった「ヴァース」とそれによって彩られたセックスという「サビ」を楽しむものである。「リードボーカル」にして「フロントマン」を務める咲はルックス抜群。おっぱいは白いときも黒いときもやわらかく、お腹はぷにぷにすべすべしていて触りたくなる。「歌唱中」のアヘ顔や体位という「パフォーマンス」も最高、「衣装」も制服とビッチギャルの2種類が楽しめる。また黒ギャルとなった後のお尻をアップで写した淫靡な大ゴマは格別である。
「バックコーラス」である竿役の層も厚い。本当に多種多様で、きもいおっさんってこんなバリエーションあるんだと感心した。プレイやシチュエーションも豊富で潮吹きもある。「断面図(稀見 2017 : 第4章)」や「男捨離(ibid : 354-355)」など表現の幅も広い。ガニ股フェラや、ドラッグを使った即落ち二コマなんて変わり種もある。「Aメロ」も「Bメロ」も聞きごたえがあり、飽きることがない。
他のレビューの形式に倣って『変身』のエロい側面を強調した。けれど私的には、やっぱり「コード」と「メロディ」がうるさく感じ、「不協和音さ」はぬぐえない。新堂エルの「プロデュース」どおりに聞くことは、正直言って最初の方はできなかった。だが最近右手に幻想殺しでも宿ってきたのか、徐々にできるようになってきた。マジな話、魔力は時間の経過によって減衰していく。受け手の立場から言い換えると、体験を反復することによって、魔力に対しての感度が鈍感になっていくのだ。私にとってヌくためだけの退屈な道具になったとき、『変身』は私との関係において一生を終えたといえる。
ところで、ロックにおいても、きれいにまとまったポップな曲よりもノイズが混じった曲のほうが名曲と評価される。そりゃ型を踏襲することではなく文字通りリスナーを揺さぶる(Rock)ことが目的なんだから当然といえば当然だ。この感情のプロセスはおそらく脳の処理が混乱することで記憶に強く残り、さらに受ける感情が多重になるからではないか。『変身』もそして「ろりともだち」も、ヌけばいいのか泣けばいいのかわからない。エロいだけではない様々な感情の「ハーモニー」こそ読者の心につき刺さる何かなのかもしれない。そしてこの「ハーモニー」が頭の中に響く限り、我々は「あの時ああすれば咲は助かったのではないか」という「鼻歌」をふとした時に口ずさんでしまう。
おわりに
これは余談なのだが、『変身』の潮吹きシーンから思ったことを一つ。女キャラに感情移入して読むタイプのエロマンガって、潮吹きが射精の代わりを果たす。『キンギョバチ』や朝凪もそうだったし、武田弘光の『紫陽花の散ル頃に』を読んだ時もそう思った。こういうタイプのエロマンガって竿役よりも女キャラの快楽が前面に出ていて[5]、クライマックスは彼女の絶頂シーン(というか堕ちきったシーン)となり、その目印として潮吹きが使われる。射精シーンもあるけどおまけのようで目立たず、それどころかセックスシーンさえ女の変貌を描くための背景に退いている。個人的にこういう系ってエロいんだけどどこでヌいていいかわかんないんだよな。このエロマンガ表現って誰も言ってなかった気がするのでメモとして残しておく。
もう一つ余談。『変身』をジェンダーの側面から議論するとして、私だったら咲を「受動型アスペの女性」として見立てて、彼女たちが男に搾取される事例と結びつけるかな。
率直に私が『変身』をどう思うのかというと、そこは参考にしたレビュワーさんたちと変わらない。
「読む人を選ぶが、間違いなく名作」
ただし私はエロマンガの商品の側面を重視しているので、「コミックゼロスに連載する作品が読む人を選んじゃ少なくとも商品としてはダメだろ」とは思う。もちろん型通りなんて単純につまらないし、それにそんな商品ばかりになったジャンルなんて滅びるだけなんだけど。ただ新堂エルとDA HOOTCHの境界が曖昧になったせいで他の作品読むのが躊躇われるんだよなあ。
本レビューが語り切れなかった側面の一つは、このコミックゼロスを中心とした関係論である。どういうことかというと、例えば氏賀Y太のあのコンクリート詰め殺人のマンガや、知るかバカうどんやオイスターやHAL、蛸壺屋といった鬼畜系の作家ばかりが軒を連ねる雑誌が仮にあったとして、そこに『変身』が連載されていたら作品の持つ魔力も変化しただろうなと想像したからである。
これに関連して、比較作品と例示する画像が恣意的だという欠点も挙げられる。前者については素直に、調教ものとか妊婦もの、キメセクものに関心が薄い私の不勉強である。後者についてはどうすればよかったのか。作品全体を全体のまま語りたくて筆を執ったんだけど、できることなら全ページを一覧できるような見せ方をしたかった。
もう一つ。楽曲になぞらえておきながら、「ビート」についての言及がない。楽曲のテンポを司るそれはマンガのコマ割りやセリフ回しに相当すると考えられる。ここまで踏み込めればもっと新規性、独自性のあるレビューができた。なにより、空気感よりもさらに根幹を成すマンガのリーダビリティにこそ魔力の根源が眠っていそうである。
また新堂エルの技術的上達の側面も語れていない。『新堂エルの文化人類学』と比べて『変身』は明らかに画力が上がっており、技術こそ魔術だよ的なことを人類学者アルフレッド・ジェルが言っていたような気がするので、ここも議論したかった。
さらにいえば、受け手の感情を不快の一言でまとめてしまったのも雑だ。『変身』が不快であること、鬱展開であること自体はみんなも賛同してくれるだろうけど、例えば『エロマンガ夜話』に出演した3人の中でも、その不快さの感じ方は異なっている。私と彼らの感じ方も異なるだろう。哲学でいうとクオリア問題になるのかな、これ。
なのでこのレビューで魔力のすべてを解き明かせたとも思っていません。それどころか魔力は、『変身』の全要素が足し合わさったことで生まれた創発性であるとも考えられる。なので、任意の要素とその周辺を抜き出したりとか込められた設計・意図を分析するアプローチではいつまで経っても解き明かせないとさえ思う。突破する方途は、現象学かなあ……。
『変身』はドラッグを丁寧に描き、徹底的な悲劇を描いた他に類を見ない作品であり、エロマンガの限界を押し広げた作品である。エロマンガ史に残るマスターピースなので読んだことない方は是非一読してほしいが、その際は「明るく・広く・きれい」でそして温かい場所で読むことをお勧めする。
[1] 独りでたい焼きを買い食いしていた咲が、近くをわいわい騒いで通りすぎたリア充グループを見て涙を流すシーン。読者を咲に感情移入させる仕掛けの一つ。
[2] へどばんとコング二等兵曰く、死んでいないとも解釈できるそうな。作者は死なせたつもりだし各レビュワーも死んでる方を選んでいるけど、私は死んでないに一票。トラファルガー・ローの「弱ェ奴は死に方も選べねェ」じゃないけど、咲に自分を殺す根性なんかないと思う。理不尽に耐える力はあるんだけど、主体的に行動する力はない。何回か未遂した友達見て思ったけど、自殺ってむずいぞ。咲のあれも実はオーバードーズぎりぎりを接種してたりなんかして結局死ぬという変身さえ失敗してそう。だからあの幻想は幻想。いろんな人や薬に依存して利用されながら低いところをウダウダ生きるんじゃないかな。
[3] 朝凪もよく使う手法。「過去編」を示す印だと個人的に思ってたのだけれど、違うのかな。ワンピースのあれは悲劇であることを示していたのかな。