小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

ウィル・アイズナー『コミックス・アンド・シーケンシャルアート』を読む④

 前回に引き続き、ウィル・アイズナー『コミックス・アンド・シーケンシャルアート(Comics & Sequential Art) 』を読む。今回は5章 "Expressive Anatomy" と6章 "Writing & Sequential Art"だ。

 

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 前回の"Flame"では、コマ割りからシーケンシャルアートとしてのコミックの作成手法が検討していた。そこではコマによって操作されるものがアングルと、アングルによって構築される読者の視点、および視点をとおして操作される感覚へ言及されていた。また、コマの概念と単位を拡張し、ページ全体をコマのように捉える「スプラッシュページ」という発想もアイズナーは唱えている。

 5章では絵のスキームから絵そのものへと焦点を移し、主に人間の所作をどのように描写するのか、というポイントを論じている。動作のすべてを落としこめないマンガにとって、描く瞬間を選びとる作業は、読書体験をより良質するために必須の工程となる。6章はマンガ作成という行為の実行過程を主題とする。具体的にはストーリーと作画というふたつの役割の関係である。言葉と絵という二大要素が、マンガをつくる際にどのような相互行為を営むのか、アイズナーなりの考えが示されている。

 

 

5章 Expressive Anatomy

 人間を描くということ

 マンガを描く際、人間の形は避けてとおれないイメージとして作者の前に立ちはだかる。人間の形――この場合は四肢、あるいは各部位――は、普遍的なものであり、膨大なパターンがあるとはいえ、ノンバーバルなコミュニケーションを行うために、肉体を用いた定型化された「語彙」が蓄積されてきた。

 そのような「語彙」が実際の言語へと転じていく過程を、アイズナーは洞窟壁画やエジプトのヒエログリフをもって例示している。理念化された動作ともいえる象形文字から、人々は社会生活で日々みずから実践し、他者も実践する所作を後天的に会得してきた。

 文字体系の多様化につれて、動作と文字と読解の結びつきは絶対的ではなくなっていったが、マンガはその限りではない。すでに何度かアイズナーは述べているように、マンガをマンガたらしめるのは、イラストとセリフ、コマ割りによって表出した作者の企図が、読者へと正確に伝わるひとつづきの行為である。そのため、マンガの作者は理解に齟齬を生じさせないよう、動作の「辞書」('dictionary' of human gestures)(p.101)を参照しなければならない。

 人々の佇まいや動作を細かく観察し、フィルムのなかのどのひとコマを選べばよいか吟味する作業は、(たとえ虚栄に依るものにせよ)ある種の科学的な試みである。選ばれる一瞬によって、マンガという相互行為の成功の可否がかかっているのだ。

 身体

 "Actions speak louder than words"という金言はマンガにもあてはまる。テクストよりも、描出されたイラストのほうが伝えたいイメージを読者へ届ける際には優位となる。

 重要なのはポーズの最後の動作であるとアイズナーは語る。選ばれたポーズはコマのなかで固定されて、前後のイラストと有機的な連関を持つ。より厳密にいえば、持つように描かれ、読者が連関を読みとっていく。読者が出来事のシークエンスを補完する時、作者の選択がもっとも妥当であると納得されれば、逐一動作を描く必要はない。

 代替となる佇まいの選択

 長時間持続する動作をいくつかのコマによって描くとき、キーとなるポーズを上手く選べれば、時間と同時に感情も伝達できる。より高度になると、ポーズとジェスチャーをページの各コマに配置し、そのキャラのライフスタイルまでが観察できる、そんな描き方ができるようになる。 

 

 コミックにおける解剖学においては、この部分が最も注目と関与を誘う。

 顔においてポーズとジェスチャーの区別は付けづらい。目や口や頬は常に感情を反映して動いているからだ。顔をつければ、身体の動きが伝えるメッセージをより詳しく伝えることができる。

 顔を読むことはみんなが日々していることなので、読者にとっても親和的なものである。"a window to the mind"と表したように、表情は感情を他者へ開示する窓口となる。顔が、表情があるおかげで、人々は話す言葉へ豊かな意味づけを行えるし、経済的な活動においても数値化できない領域、すなわち信頼を根拠とすることができる。

 

6章 Writing & Sequential Art

 6章はコミックにおける執筆の話となる。これは日本でいう「原作/大場つぐみ 作画/小畑健」のうちの原作の方の話だ。アメコミは日本と異なり分業制なので、原作は原作、作画は作画で担当する人が違う。アイズナーの議論には、他人である原作担当と上手くやっていくことが念頭にある。

The Writer(原作担当)と The Artist(作画担当)

 アイズナーによると原作の範囲は、アイデアの構想、話の順番づくり、イメージの配置、ナレーションと会話の構成である。これら各要素が全体を支えているので、原作担当は作画担当が自分のストーリーをどう解釈したかに関心を持つ必要があり、一方作画担当は自分をストーリーに魅了されるようにしておかなければならない。

 現代のコミックは原作、作画、カラー、背景など分業が進んでおり、誰の立場が一番上とは言いづらい。だが、コミックという形式は視覚的な媒体だ。なので、作画担当はグラフィックの技術に注力し、また読者の関心と評価もそちらに向かう。その結果、ストーリーの薄っぺらいページを描く芸術的アスリートが激増し、原作と作画のコンビネーションが弱くなってしまう、とアイズナーは警鐘を鳴らしている。必要なのは互いの信用だ。

 アイズナーは、原作と作画は同じ人がやるべきだが、それができないなら主導権は作画担当にあると考えている。かといって、アーティストを自由にさせたいのではなく、むしろ彼/彼女が大いに挑戦して、文字だけの原作に寄与してほしいと思っている。

言葉と絵の関係

 コミックにおいて言葉と画は不可分であるとアイズナーはいう。絵によってセリフが強調されることもあるし、文字を太くすることで読者に音を聞こえさせることもできるからだ。だが完成品であるコミックは視覚的に読まれるので、やっぱりグラフィックの要素が優勢になる。シーケンシャルアートの成否を握るのは言葉と絵のミックス如何なのである。

 ならどうミックスすればいいのかが疑問になるが、言葉と絵のミックスに絶対的な比率はないとアイズナーはいう。ただし、シーケンシャルアートの絵にはイラストとビジュアルの2種類が存在し、後者を描けたほうがよいとアイズナーは勧めている。なぜなら、イラストがテキストの繰り返しでしかないのに対し、ビジュアルはテキストを絵に置き換えたものであるからだ。

 アイズナーは、作画担当は原作を見て、視覚的に描写できる会話やナラティブがあればそこを省略してビジュアルで描くべきという。ただしそれには原作担当に長い経験と献身が必要ともいっている。

 

アペンディクス

ぽわとりぃぬ

 第5章はコミックにおける顔と身体の描き方についてだった。コミックの中で語ることができるのは、セリフやナレーションのみではなかった。表情や身振り手振りでも感情やメッセージを伝えることはできる。また、セリフと身体の動きを合わせることで、セリフにセリフ自体が持つのとは別の意味を追加できる(I'm sorryに不真面目な態度のジェスチャーを合わせることで「反省していない」という正反対のメッセージが生まれる)。

 表情や動きで語ることは映画やドラマでもお馴染みなので、それがコミックでも使われていることに驚きはない。その分、なんとなくでわかった気になっている領域でもあるので、それを体系的にまとめてくれたことは本章の意義だ。

 第6章は、コミックの執筆にまつわる領域についてだった。コミックにおいて言葉と絵は不可分であるが、原作と作画は別人であるため、原作から作画へのコミュニケーションが課題となる。テキストはビジュアルに置き換えていいしコミックはグラフィックな媒体だというものの、しかしながら構造的な部分は原作が握っているという複雑な関係がここにはあった。結局どちらが強いのかというと、アイズナーは作画の方に優位性を認めている。確かに実際のページの上ではそうかもしれないが、日本のマンガを見る限り、絵が下手でも売れたマンガはあるが、絵がうまいだけで売れたマンガは管見の限り知らないので、作品全体で考えると原作のほうが重要ではないかと思う。

10nies

 原作と作画を分けて考えたうえで作画のほうにウェイトを置いた論調は、みずから筆を執ったアイズナーらしい。どちらに成否の優劣――と表現してよいなら――を置くか、これは非常に主観がはたらく選択で、私もその前提に従うと、原作すなわちストーリーを重視したくなる。

 あらかじめ付け加えておきたいのは、仮にストーリーのクオリティが同程度だった場合、成否を握るのは作画であるとみなすのは、まったく同意する。ただし、これは一方の条件を統制しているので、わざわざ断りを入れるまでもないかもしれない。ストーリーに重きを置く理由としては、ぽわとりぃぬさんが述べているように、たとえ絵がよかったとしてもストーリーが微妙ではヒットするのは難しい、とみなすのも要因として挙げられる。ここでは、もうひとつ考えてみたい。

 結論を先にいっておくと、ストーリーはイラストに先立つものだからだ。ここでいうストーリーとは、文字により伝えられる出来事の集合体というより、出来事そのものを指す。クラスメイトの少年と少女が商店街で出会い、再来週のテストの話をして、アーケードが途切れる十字路で別れる、という一連の流れを考えてみよう。私たちが二人の経験を認識するためには、なにがしかの様式を要する。

 様式は、マンガでも、小説でも音楽でもよい。重要なのはイラストで認識しているのではなく、マンガでどこかの誰かが経験した出来事を追跡している点である。「どこか」は実在する場所でなくてもよいし、「誰か」は実在の人物ではなくてもよく、ヒトである必要もない。ともかく、それらはストーリーの前に現象として先行している。仮にそれらが虚構だとしても、その前提に変わりはない。

 対象の出来事を表出するにあたり、マンガが特有の効果を有するのはイラストに起因するものではなく、マンガを構成するすべて――イラスト、セリフ、セリフのフォント、フキダシ、コマ割り、コマの形、コマの大きさ等々であり、ストーリーとイラストの二項から選ぶのは、実務においては理に適っているにせよ、第三者の視点に立つ分析においては恣意的な二元論である。

 出来事-小説を選ぶか、出来事-マンガを選ぶか。もしくは出来事-その他か。ここでマンガを選ぶことにより、出来事はどのように表現されるのかについて分析すると、マンガについての思索はより俯瞰的かつ実践的になるだろう。