日本の歴史(History of japan)  ほんとうの・この国のかたち   中国語と日本語 その4 奴国より後

 

ひじかたすいげつ

 

 

 「奴(ナ)」は「那珂(ナカ川)」で「福岡県那珂川町」であると。また「奴(ノ)」の場合は博多湾の能古島の「能古(ノコ)」であるという説もとある。さらには、日本書紀斉明天皇の話の「娜大津(なのおおつ)」を持ってきて「福岡県南区の那珂川沿線で対岸の春日市も含む」ともいう。これらは書道家井上悦文氏の著「草書体で解く邪馬台国の謎」による。

 

 それらの説のうちでは、「那の津」が一般的に定説と言われているようであるが、これを今の「那の津」とする人が多いが、そこは「好古都(ハォコト)」つまり「ハカタ」であって「那の津」ではない。「好古都(ハカタ)」も今の博多区のもっと南であった。

 

 今の「那の津」は後に、たぶん明治政府によって記紀に沿うように造られた「那の津」であるように思う。

 つまり、魏志倭人伝に書かれた「那の津」は「那珂川」の上流の「那の津」であるというのが正しいことになる。今の春日市付近から西である。

 

 しかし、本当は「能古島」。

 「能古島」に行くための津であり、「能古島」ではない。

 「唐津」が「唐」ではないのと同じ。

 

 古代は平野がもっと少なかった。

 当時は博多(好古都)から有明海に船で行けた。御笠川と宝満川を通って。

 昔の船は平底であった。そのため川は良かったが、海ではよく転覆した。遣唐使船は4隻で出発し2隻がたどり着くと良い方であった。

 

 「能古島」の「能古のこ」は「ノコク」であり、「志賀島」のとなり。

 「奴国」は「野国」。金印の出た「委奴国(イノコク)」つまり「伊野国(イノコク)」であった。

 

今の地名は「大名持オオナモチ」が「オオナムジ」になったり、「少名彦スクナヒコ」が「少彦名スクナヒコナ」になったりと同じで、今ではわからないようにされているところも多いし、大和に政権が移ってからは「地名」も九州から近畿に移っている。

 

 同じ名の場所は近畿にもある。

 しかし、それは後に付けられたもの。

 

 場所の比定はともかく、読みはこうである。

 変な読みは邪馬氐もらいたい。

 

 「不彌(フミ)」は「宇美(ウミ)」。

 「斯馬(シマ)」は「志摩(シマ)」。

 「巳百支(イオキ)」は「五百木(イオキ)」。

 「伊邪(イヤ)」は「壱与(イヨ)」。

 「都支(トキ)」は「タキ」「ツキ」。

 「彌奴(ミナ)」は「三野(ミノ)」。

 「好古都(ハオコト)」は「筥津(ハコツ)」「博多(ハカタ)」。

 「不呼(フハ)」は「フワ」。

 「姐奴(ソナ)」は「ソノ」。(井上悦文氏は「姐」は「女」へんに「旦」で「タノ」と。) 

 「対蘇(ツイソ)」は「鳥栖(トソ)」。

 「蘇奴(ソナ)」は「蘇野(ソノ)」である。

 

 「呼邑(ハイフ)」は「ハユフ」「由布ユフ」。

 「華奴蘇奴(カナソナ)」は「カノソノ」ではなく「神崎(カンソキ)」。

 「鬼(キ)」は「キ」。(井上悦文氏は「鬼」は「キ」ではなく、「卑」で「ヒ」と。) 

 「爲吾(イゴ)」は「イゴ」「イガ」。

 「鬼奴(キナ)」は「キノ」。(井上悦文氏は「鬼」は「キ」ではなく、「卑奴」で「ヒノ」と。) 

 「邪馬(ヤマ)」は「八女(ヤメ)」。

 「躬臣(クシ)」は「カシ」「コシ」。

 「巴利(パリ)」は「ハリ」、つまり「原(ハラ)」。

 「支惟(キイ)」は「キイ」。

 「烏奴(ウナ)」は「宇野(ウノ)」。

 「奴(ナ)」は「野ノ」。

 

 

 そして、「難升米」は「イクメ」。

 遣わされたのが「イクメ」なら、女王はおのずとわかる。

 「豊玉姫(台与)」である。

 

 ということは「卑弥(ヒメ)」は「何姫」か?

 

 

 つづく

 

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