『日本国記』 限りなく真実に近いアナザーストーリー44C  アジスキタカヒコネの伯父たち(八王子)とその子供たち 24  オオドシとタケツノミとイワレヒコ 15  倭(ヤマト)の天照 9     ひじかたすいげつ 

 

 

 つづき

 

 出雲では長男の相続で、大名持=王、第6代少名彦の長男第7代大名持=天冬衣=スサノヲを、古事記は末子相続にして、末子=事代主=第6代大名持臣津野の末子=スサノヲ=天冬衣にした。また、第8代大名持=大国主=八千矛を、末子相続にして、末子=事代主=スサノヲの末子スセリヒメとし、その夫とした。

 

 しかし、そもそもスサノヲは天冬衣ではない。

 

 武内宿禰はこういう。「古事記は偽書です。あんなもの。あれは影の編集者藤原史(稗田阿礼)の創作です。」 斎木雲州はこういう。「史実でない記述が大半を占める史書を、偽書とするならば、古事記は偽書と言うことができる。日本書紀は、古事記よりも後の時代も書かれていて、後半に偽りがないので、詐為が過半数とはならない(ので偽書とはならない)」という。

 

 つまり、古事記が偽書でないとすれば、古事記は史書ではないことに。

 そして、日本書記は偽書ではないが、前半は信ぴょう性がない史書ということに。

 

 古事記のスサノヲはスサノヲであるが、天冬衣を描いてはいない。

 古事記に描かれたスサノヲは天火明であった。

 

 倭族は天火明をスサノヲ天冬衣の子とした。そして、大国主を渡来人ナムジとした。

 しかし、出雲族のスサノヲは渡来人天火明であり、時の出雲の大名持が大国主であった。

 

 そして、後に有明海に“再渡来”し、吉野ケ里をつくった饒速日が、天火明と同一人物であり、古事記では渡来人ニニギとされた。

 

 古事記は饒速日と邇邇芸とし、天火明を饒速日にしている。

 

 ほんとうの邇邇芸は存在しない。

 

 天火明はオオドシではなかった。オオドシは「天照国照彦ホアカリ櫛玉饒速日」ではなかった。

 「天照国照彦ホアカリ櫛玉饒速日」はほんとうのスサノヲであり、荒ぶる神であった。

 

 しかし、古事記を信じる者たちは、スサノヲを天火明ではなく、天冬衣とし、その子天火明を出雲の王子とした。そして、後に関東に追われた出雲族の大彦一族を荒ぶる神スサノヲの末裔とした。

 

 氷川神社に祀られるスサノヲは牛頭天王・須佐之男ではなく、出雲族天冬衣の末裔であった。

 そしてほんとうのスサノヲは出雲族ではない。ほんとうのスサノヲは素戔嗚ではなく須佐之男であった。

 

 「須佐の男」であった出雲に渡来した天火明であった。

 

 豊(台与)の国、豊は今の大分(王居た)県である。宇佐神宮の宇佐家の宇佐公康は「古伝が語る古代史」のなかで、「物宇佐家の伝承によると、部氏の元住地は筑後平野である。」とある。

 

 筑後平野に渡来した饒速日は物部と呼ばれた。そして、出雲の渡来人天火明と同一人物であったといわれる。その名は「天照国照彦火明櫛玉饒速日であった。アマテラスであった。そして物部の祖であった。そして出雲族ではなかった。そしてオオドシではなかった。

 

 そして、彼は邇邇芸でもあった。

 

 アマテラスが出雲族のはずはなかった。

 

 つづく

 

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