『日本国記』  「出雲大社」と「厳島神社」   三種の神器と社紋     限りなく真実に近いアナザーストーリー  【58A】    ひじかたすいげつ 
 

 

 つづく

 

 「八咫鏡」は大倭の「布刀玉命(フトダマノミコト)」である忌部氏が祀っていたらしい。鏡自体を実際に造ったのは「伊斯許理度売命(イシコリドメノミコト)」であるといわれる。そして「八尺瓊勾玉」は「天児屋根命(アメノコヤネノミコト)」である中臣氏が祀っていたらしい。これも実際に造ったのは「玉祖神(タマノオヤノカミ)」であった。これらの神と天宇受売(アメノウズメノミコト)はニニギの降臨のときに従った五伴緒の神であった。

 

 忌部氏は本来主たる祭祀担当氏族であったが、中臣氏は忌部氏に代わって祭祀を主導する立ち場になっていったといわれる。剣璽等継承の儀は剣や鏡よりも勾玉が主となってしまっているのかもしれないが、剣が出雲で鏡が倭(ヤマト・物部)であったものが、剣が出雲・物部になり、鏡が倭(ヤマト・大和)になった。しかしその倭(ヤマト・大和)も倭(ホアカリ・ニギハヤヒ)にされてしまい、宮殿から出された。そして、勾玉が倭(ニニギ)となったらしい。それを支えたのは中臣であった。そうして古事記はつくられた。

 

 天岩戸に隠れた天照大神を岩戸の外に出すための知恵を授けたのが「思金命(オモイカネノミコト)」であり、天宇受売(アメノウズメノミコト)が踊ったことにより外がにぎやかになり、外を見ようとすこし外を覗いた時にこの八咫鏡を見せたことにより、「天手力男命(アメノタジカラオノミコト)」が岩戸をあけることができたという古事記のシーンは有名である。

 

 そして、その時にいた「天手力男命(アメノタジカラオノミコト)」が「天石門別神(アメノイワトワケノカミ)」である。「櫛磐窓神」は「天石門別神(アメノイワトワケノカミ)」であり、「豊磐窓神」は「天太刀辛雄命(アメノタジカラオノミコト)」であるともいわれる。

 

 そして、「櫛」は「奇し」であり、「豊」は「台与」であった。つまり、左門が「豊」であり、右門が「物部」であった。「豊」と「物部」は天照大神の門番にされたのであった。「豊」は「トヨタマヒメの鏡」であり、「物部」は「十束剣」なのかもしれない。

 

 出雲大社(杵築大社)」の社紋は「竜鱗枠に剣花菱」である。

 

 

 「出雲」は龍と象であった。サイノカミの主神である大山(大神山)太陽神クナトノ神を祀るとともに、三瓶山(幸姫山)であるサイヒメノ神を祀る。そして、鼻高彦(象神)でもあるガネーシャと龍神(蛇神)も祀る。先祖のいたクナト国では象もワニもコブラもいたという。出雲の神社には象と龍が必ずいる。しかし、「竜鱗枠紋」は「亀甲紋」とも呼ばれる。龍が亀にされてしまった。

 

 そして、「剣花菱(けんはなびし)」は「剣」と「唐花(からはな)」とも呼ばれる。「唐花」は大陸伝来の文様で実在の花ではないといわれる。そして、4弁の物を「花菱・花角」ともいう。

 

 「唐花」は藤原北家公季流閑院家三条氏をはじめ、一族12家すべてが使用するという。武家では萱生氏、東條氏、松田氏、種村氏、安芸氏などが使用し、四国九州奈良で多く見られるという。また「花菱」は武田氏、花角紋と区別がつかないが、東條氏、松田氏、種村氏、安芸氏、南部氏などが、五島氏や松前氏が丸に花菱を使用する。山梨、東京、山口、徳島九州でよく見ることができるという。

 

 宗像家は出雲の神門臣家の分家ではあるが、出雲大社の家紋も厳島神社の家紋も、宗像三女神とは直接の関係のない、そして三種の神器とも関係のない、出雲と九州の合体した家紋であった。出雲亀甲紋と九州倭唐花紋の婚姻を示す家紋であった。あえて言えば、出雲の「アメノムラクモノツルギ」と九州ヤマトの「八咫鏡」との合体でもあった。しかしこの倭ヤマトは物部ニギハヤヒであり、物部剣花菱の「トツカノツルギ」も含まれるのかもしれない。そしてその後は、「出雲」と「藤原」の合体と言ってもよいかもしれない。出雲大社も社家はヤマト。厳島神社も。

 

 つづく

 

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