『日本国記』   「ヤマト」は「大倭」から「大和」に   その3   限りなく真実に近いアナザーストーリー  【69A】    ひじかたすいげつ 
 

 

 

 つづき

 

 「纏向」の時代、道路はなかった。ヤマトに道路ができたのは八世紀からといわれる。それまでは人が通ることによってできる獣道のような山道だけであったといわれる。そして、河内には津(港湾)はなかったという。

 

 このころ河内湖は小さくなり、洪水を頻繁に起こしたという。そのため「難波津の堀江」が必要となったといわれる。「難波の堀江」は河内平野の水を円滑に排水する仕組みであり、港湾の施設でもあったという。

 

 そして瀬戸内の島には水が少ない。瀬も早く、瀬戸であった。大畠瀬戸、備讃瀬戸などの大きな瀬もあるが、音戸の瀬戸など小さい瀬はいくらでもある。そのため島伝いに航行するのではなく、本州沿岸の津や浦や泊を経由して進む。

 

 西から佐波津、熊毛浦、麻里布浦、風早浦、永井浦、鞆浦、牛窓、檉生泊、韓泊、魚住泊、明石浦、大和田泊、武庫浦、河尻泊、難波津と渡るルートが後にはできたが、この時代においてこれらの浦津泊がどの程度できていたのかははなはだ疑問で、国そのものがまだ統一できていない時代であるし、中世でさえ海賊がいたこのルートは簡単に通れるルートではなかった。

 

 一般には手漕ぎで一日20km、交代で漕いでも50kmであったという。しかし、瀬戸内は早瀬がある。手漕ぎ20kmとはいっても潮の流れに乗ればより進みも早いが、潮に向かえば全く進まない。源平の壇ノ浦の海戦でも平家は潮の流れの変化によって敗れたともいわれる。

 

 当時は、大阪市のみならず、岡山市も広島市もほとんどが海であり、陸地はずっと北にあった。平安時代の菅原道真の大宰府までのルートを見ても分かる。

 

 大きな川があるところは利根川にしろ淀川にしろどんどん土砂が堆積し、洲が大きくなっていく。関東平野も大阪平野もそうであったし、岡山も広島もそうであった。

 

 そのため、難波津ができ652年難波京に遷都したが、土砂の堆積によりすぐに港湾としての機能を失っていったという。762年安芸の国から廻送された遣唐使船が難波津で動けなくなり、以後大型船の停泊が困難になったという。大阪は豊臣の時代に道頓堀などの掘割を造るまで人が住める街ではなかったらしい。その後発展したのが住吉津である。そうして住吉津からの瀬戸内海ルートができていくが、785年には淀川と三国川を結び付ける工事が行われ、長岡京への遷都となり、都は大和・摂津河内から山背にうつっていく。。

 

 つづく

 

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