作曲家紹介⑬グリーグ!ノルウェーを代表する作曲家グリーグの生涯と魅力を解説

みなさん、こんにちは!車田和寿です。

今日は、作曲家紹介第13回目と言う事で、ノルウェーの作曲家。エドゥアルド・グリーグを紹介します!

グリーグと言えば、劇音楽「ペール・ギュント」やピアノ協奏曲などという傑作を残しましたが、民族ロマン主義時代における、最も重要なノルウェーの作曲家として知られています。

今回はそんなグリーグの生涯や名曲を紹介しながら、彼の魅力を紹介をしていきたいと思います!

少年時代

グリーグ

エドゥアルド・グリーグは1843年に父アレクサンダー・グリーグ、そして母ゲシネ・ユディト・グリーグの間に生まれました。

父アレクサンダーはイギリス領事を務めていましたが、アマチュア音楽家としてベルゲンの管弦楽団で演奏するなど音楽界に関わり、さらに県知事の娘として生まれた母ゲシネはハンブルクで優れた音楽教育を受けたピアニストでした。

こうした音楽に深いかかわりを持つ夫婦の間に5人兄弟の4番目として誕生したのがエドゥアルドです。

彼は6歳の時からピアノの手ほどきを受け、グリーグ家で定期的に開催されるサロン的音楽界に参加するようになります。そこで彼はモーツァルトやヴェーバー、それからショパンの作品に愛着を覚えるようになります。

彼が作曲した現存する最初の作品は14歳になる1857年頃だとされています。

こうした音楽が身近な環境で育ったグリーグに最初の転機が訪れたのが1858年の夏になります。グリーグ家を訪れていた、ヴァイオリニストで作曲家のオーレ・ブルが、エドゥアルトの演奏を聴いて、ライプツィヒの音楽院に留学させるように両親を説得します。

オーレ・ブル

その結果グリーグはライプツィヒ音楽院に入学します。ライプツィヒと言えば、かつてバッハがトーマス教会のカントルを務めた他、シューマンヴァーグナーが大学生時代を過ごした街としても知られています。またこのライプツィヒ音楽院というのは、あの作曲家メンデルスゾーンによって作られた学校で、シューマンやその妻のクララ・シューマン達一流の音楽家が教師を務めていた事もありました。

15歳でライプツィヒ音楽院に入学したグリーグは、最初はルイ・プレディの下でピアノを学びますが、チェルニーやクレメンティばかりをやらせる指導法がグリーグにとってはあまりにも退屈だったために、彼は別な教師につく事を申し出ます。

ちなみに僕もドイツの音大で勉強しましたが、演奏家にとって一番大事なのは先生との相性です。なので、先生との相性が悪ければ、学生生活の途中で先生が変わる事は決して珍しい事ではありません。日本人的な感覚からするとこれは結構勇気がいる行動のように思うかもしれませんので、一言付け加えておきます。ちなみに僕は歌の先生は変えませんでしたが、コレペティといってピアノ伴奏の先生を変えてもらったことはあります。

さて、話を戻しましょう。先生を変えてもらった結果グリーグはシューマンの親友だったE.F.ヴェンツェルに師事します。ヴェンツェルはシューマンの親友だったために、シューマンへの情熱をグリーグにも植え付けました。

こうした留学時代にグリーグにとって有益だったのは、ゲヴァントハウスでクララ・シューマンが夫のピアノ協奏曲を演奏を実際に聴いた事、それからヴァーグナーのタンホイザーの公演を見た事などが挙げられます。

クララ・シューマン

卒業からデンマークへ

その約2年後の1860年にグリーグは胸膜炎にかかり、これがもととなった呼吸器の病気で彼は生涯苦しむことになりますが、一時ノルウェーで療養した後で、62年にライプツィヒ音楽院を卒業する事になります。

この時に作曲されたピアノ曲「4つの小品」は教師のヴェンツェルに捧げられました。

その後、彼は故郷に戻り、自作のピアノ小品を演奏したり、またはピアニストとしてベートーベンのピアノ協奏曲ハ短調を演奏して成功をおさめます。

しかし当時のノルウェーはやはり文化的に進んでいるとは決して言えませんでした。そのため、彼は刺激と経験を求めてデンマークのコペンハーゲンに行きます。当時のコペンハーゲンはデンマーク人のみならずノルウェー人にとっても文化的な中心地だったのです。

そこで彼はロマン派のリーダー的存在だった、ニルス・ゲーゼに出会い、励ましを受けます。このデンマーク人の作曲家はシューマンやメンデルスゾーンと仲が良かった事で知られています。ちなみにグリーグがライプツィヒに留学した時には、シューマンもメンデルスゾーンもすでに亡くなった後でした。

ニルス・ゲーゼ

ニルス・ゲーゼはグリーグに交響曲の作曲の課題を課しますが、グリーグは交響曲は自分に適していないのではないかと感じるようになります。この頃彼は交響曲を完成させるのですが、その出来は未熟で、数年後にはその演奏を禁ずるようになります

結婚、そして民族音楽との出会い

そんなグリーグの人生にとって重要な出来事が1863年に起こります。彼は、従妹で声楽家であるニーナ・ハーゲルブと出会うのです。そして1864年にニーナと婚約する事になります。このことは後でもう少し詳しく話しますが、歌手のニーナと出会った事でグリーグは素晴らしい歌曲を沢山作曲するようになります。この出会いは作曲家としての彼にとっても非常に重要な出会いだったというわけです。

妻ニーナ

実はデンマークにいる頃のグリーグというのはノルウェー人でありながら、ノルウェーの民族音楽というのはあまり聞いた事がありませんでした。ニーナと婚約したこの年、グリーグは自分をライプツィヒ留学を勧めてくれたヴァイオリニストのオーレ・ブルの家に滞在しますが、そこで色々な作品を演奏して、このヴァイオリニストからノルウェーの農民文化にそそぐ情熱というものを理解するようになります。

このころから彼の音楽の中にノルウェーの民族音楽への芽が出てくる事になります

そしてそれを決定的とする出会いが起こります。グリーグは64年から65年にかけて、ノルウェーの民族主義者たちが、国民学派の期待の星と仰ぐ、リカルド・ノルドロークと出会うのです。

ノルドローク

当時22歳だったノルドロークは同年代のグリーグを連れまわし、この二人は交流を深めていきます。そうした交流からグリーグは自分の進む道が、民族主義に身を捧げる音楽家である事を悟るようになります。

そこで彼はノルウェーの民族的語法の影響を示す最初の作品フモレスケ作品6を作ります。グリーグはこれがノルドロークの影響であることを自分でも認めています。またこの頃から他にもピアノソナタ作品7やヴァイオリンソナタ作品8を作曲します。

抒情小曲集

65年の彼は作家のイプセンと出会う事になりますが、その頃彼はノルウェーに戻って自国で生計を立てようとします。まずは教会関係や劇場関係の職につこうとしますが、これが失敗してしまいます。しかし66年にノルウェーで音楽会を開催した事で、グリーグは代表的な若手音楽家として認められるようになります。その結果は彼はハルモニスケ協会の指揮者に任命される事になり、同時に彼の下に弟子も集まるようになります。

イプセン

この頃に彼が作曲したのがヴァイオリンソナタ第2番です。この頃、作曲家のヨハン・ズヴェンセンがライプツィヒからやってきて自作の交響曲を指揮する演奏会をグリーグは聴くことになりますが、それがきっかけで、彼はもともと自分には向いていないと思っていた交響曲を書く事を断念する事になります。

そして67年には彼の代表作である「抒情小曲集」第1集を完成させます。この抒情小曲集というのは、彼のピアノ作品になりますが、それぞれ1分から2分ぐらいの非常に短い作品でできた曲集となっています。

第1集は全部で8曲からなる作品ですが、その中では5番に民謡、それから6番にノルウェーの旋律、8番に祖国の歌といったタイトルがついていて、ノルウェーの民族音楽への取り組みがすでにタイトルにも現れています。

ちなみにこの抒情小曲集というのは、グリーグが生涯に渡って作曲し続けたものとなっており、全部で第10集まであります。第1集を作ったのが1867年、そして第10集を作ったのが1901年になるので、順番に聴いていくとグリーグの全時代を万遍なく聞くこともできます。

グリーグはライプツィヒ音楽院でシューマンの情熱を教わりましたが、彼のピアノ曲にもシューマンのピアノ曲に似たような印象を受ける部分が結構たくさんあります。それにノルウェーの民族要素が加わって独自の領域に達したのがこのグリーグのピアノ曲です。

僕の個人的なおすすめは、その中でも第5集で、この中の最初の4曲は後に「抒情組曲」としてオーケストラ用にも編曲されました。中でも「小人の行進」という曲は有名になっていますね。ピアノバージョンとオーケストラバージョンを聴き比べるのも楽しいです。

とにかく短くて聞きやすいですから、ぜひ聴いてみてください。

ピアノ協奏曲の誕生

さて、そんな69年にグリーグは奨学金を得てイタリアに旅行しますが、その頃の重要な作品が、あの有名なピアノ協奏曲です。これはピアニストだったグリーグが作った唯一のピアノ協奏曲になります。

この冒頭の始まりは、数多くあるクラシック音楽の中でもかなりインパクトの強い始まりとなっていて、そのインパクト度合いではベートーベンの「運命」にも匹敵するといって良いぐらいでしょう。

そのためこの出だしだけがコマーシャルやBGMとして使われる事が結構沢山あります。

ちなみにこの冒頭の下降の音型、最初が2度で、その後に3度の下降が続きますが、これはノルウェーの民族音楽に独特の物となっていて、グリーグの弦楽4重奏曲にも見られます。こうした始まりが、まさしく、グリーグの音楽に民族音楽が深く関係していることを象徴的に表しているというわけです。

このピアノ協奏曲も素晴らしい作品ですのでぜひお聴きください。

さて、ローマに行ったグリーグは作曲家のフランツ・リストと出会います。グリーグはリストの前でヴァイオリン・ソナタやピアノ・ソナタを演奏したとされていますが、その次にリストと会った彼はこのピアノ協奏曲の楽譜を見せる事になります。するとリストはそれを初見で全曲とおして演奏し、その後でグリーグに温かい激励の言葉を与えています。

70年代

70年代に入ってからは、彼はノーベル賞作家のビョルンソンと協力する事になります。この二人の代表作には、劇音楽『十字軍の王シーグル』が挙げられますが、これに続いて、今度は74年にイプセンから《ペール・ギュント》のための劇付随音楽の作曲の依頼を受けます。

ビョルンソン

イプセンは自分が書いた「ペール・ギュント」を最初は上演する事を前提としない作品として書いたとされていますが、それを舞台で上演する事になります。その舞台での上演に際して、イプセンはその劇音楽の作曲を当時勢いのあったグリーグに依頼したというわけです。

この頃はグリーグとビョルンソンはオペラの作曲を計画していましたが、グリーグはいつのまにかオペラへの興味を失いこのペール・ギュントの作曲に没頭する事になります。しかし作曲は思ったよりも簡単にはいかず、結局完成したのは次の年になってからでした。

舞台上演は1876年になります。グリーグはこの曲を、劇が再演されるたびに何度も改訂しており、その最終バージョンは1902年の物になります。

この曲はとにかくすばらしくて「」や「山の魔王の宮殿にて」、それから「ソルヴェイグの歌」などとにかく名曲揃いです。

僕はこの曲を小学校の音楽の授業で聴いたのが初めてだったと思いますが、6年生の時にCDラジカセを買ってもらってから、このCDを買いました。ネビル・マリナーの指揮による演奏で、2000円以上も出して買った事を覚えています。僕は中でもこの「山の魔王の宮殿にて」が好きで、それを家でも聴きたかったのですが、CDを聴いてがっかりした事を覚えています。なんとそのCDの演奏には、最後の部分で合唱が入っていたのです。当時の僕は、まだ声楽曲の魅力がわからずに、歌がそんなに好きではなかったのです。

僕が授業で聴いた演奏には合唱なんて入っていなかったので、2000円も出して買った僕は本当にがっかりしたのです。でも実はこれには理由があります。

グリーグはこの劇音楽を作った後で、その中から抜粋して演奏会で演奏しやすいように第1組曲作品46、それから第2組曲作品55に編曲しているのですそこでは声楽のパートが省かれています。僕が授業で聴いていたのはこの組曲の方だったわけです。だけど、そんな事は音楽の授業ではいちいち教わりません。

僕が買ったのは、組曲ではなく完全フルバージョンの方だったわけです。でもそんなに歌が好きではなかった僕でも、このCDに入っているソルヴェイグの歌という曲だけは気に入りました。それを歌っていたのがルチア・ポップというソプラノ歌手だったんですが、これが本当に美しいです。

とにかくおすすめですからこの曲も聴いてみてください。短くて聞きやすいのは組曲の方ですが、歌の魅力も楽しみたい人はぜひ、オリジナルの作品23番の方を聴いてみましょう!

安定の20年

さて、このようにしてグリーグの作曲家、演奏家としての名声は国内外に広まっていきますが、80年代以降のグリーグは毎年同じような生活スタイルを繰り返す、ある意味安定した人生を送るようになります。

彼は85年にトロルハウゲンという所に余生を送るための家を建て、そこに引っ越すのですが、そこから20年間、彼の生活にはほとんど変化というものがありませんでした。

彼は春から夏の初めにかけて、作曲、もしくは過去の作品の改訂にあてて、夏から秋にかけては山歩き、そして秋から冬にかけては演奏旅行に出るという生活を送りました。

グリーグは若い頃の病気の影響もあり病弱な体質だったと言われていますが、それでも毎年演奏旅行には積極的に出かけていました。

90年代に入るとケンブリッジ大学とオクスフォード大学から名誉音楽博士号を与えられたり、フランス学士院会員に列せられたりと、海外から多数の栄誉をうけ、この時期にチャイコフスキーやブラームスなどの音楽家とも知り合います。

グリーグは晩年には論文の執筆にも取り組み、モーツァルト、シューマン、ヴェルディについての論文を書いて外国誌に寄稿しています。

またノルウェーの音楽水準を引き上げるために、1899年にベルゲンで音楽祭が開かれた時は、愛国主義者の意見に反対して、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団を招待して、自ら楽団の指揮をとったりもしました。

1900年に入ってからは徐々に体調は悪化しますが、彼はそれでも演奏旅行は止めません。1906年には民謡の旋律を元に作曲した素晴らしいアカペラの合唱曲4つの詩編を作曲しますが、1907年に演奏旅行でイギリスに旅立とうとしたときに入院を余儀なくされその翌日に64歳で亡くなりました。

グリーグの魅力について

グリーグのさらなる魅力についてはYouTubeの解説動画で解説しています!

興味のある方はぜひそちらの解説動画の方もご覧ください!


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