多摩川通信

昭和・平成の思い出など

幕末の真相

 

幕末史はわかりにくい。「開国」と「攘夷」、「公武合体」と「倒幕」、といった対立関係がいつの間にか逆転したり入れ替わったりしてしまうため、私のような素人には展開の因果関係が容易には理解できない。「何でそうなるの」と言いたくなるようなアクロバティックな展開が続く激動の時代である。

「幕末維新史への招待」(町田明広 編/山川出版社)は、国内外の資料の精査による幕末研究の到達点として、「誤った「通説」から新しく正確な知識へ」という標題が示すとおり新しい幕末観を提示している。

 

この本で最も蒙を啓かれた思いがしたのは「国持大名」(くにもちだいみょう)に関する記述である。国持大名とは「国主」(こくしゅ)とも称された大物大名であり、かつては徳川と同輩だった者たちである。

島津(薩摩)、毛利(長州)、山内(土佐)、鍋島(肥前)、細川(肥後)、浅野(安芸)、前田(加賀)、伊達(仙台)などの諸侯である。これらの大名は徳川の臣下ではなく、それぞれが徳川の領国とは別の一国の主だったというのである。

幕末維新の主役となった薩長土肥がいずれも国持大名だったのは偶然ではないだろう。徳川政権が揺らぎはじめたとき、国持大名は対抗勢力として立ち現われた。戊辰戦争の動乱があったとはいえ比較的早期に大勢が治まったのは、国持大名という潜在勢力が存在した特殊性によるものではなかっただろうか。

 

実証研究の蓄積によって幕末維新に関する通説が塗り替えられていくのは刺激的だ。他方、全ての真実があっけない形で露わになって謎が消えていくのは素人からすると寂しくもある。蛍光灯をLEDに替えた時の違和感のようなものだ。

何かよくわからない闇があってこそのロマンである。ありがたいことに本書は、ロマンを重視する素人への思いやりを忘れていない。いくつかの謎を謎のままに残してくれているのだ。

 

そのひとつが幕末薩摩藩財政問題である。薩摩藩は言うまでもなく維新勢力の中核をなした国持大名の筆頭格である。その威力を支えた財政支出は莫大な規模に達したはずだ。しかし、幕末からわずか40年ほど前、薩摩藩の財政は深刻な窮乏状態にあった。

1823年の時点の財政収支は毎年7万両近い赤字で、累積の借金は164万両に達しており、利払いが年間14万両というあり様だった。

この窮状をしのぐために採られた方策が、借金の踏み倒し、奄美群島の砂糖の専売、そして琉球を通じた中国との密貿易だった。しかし幕末の支出を賄うには足りなかった。そこで究極の策を捻りだした。贋金づくりである。この贋金が薩英戦争による被害の復興費や肥大化する軍事費を賄い続けたのだという。

 

そうは言いつつも本書は、「幕末薩摩藩の財政は今なお謎につつまれている」、「実は今なお不明点が多い」と記してくれているのである。謎が残っているということは、素人が思いのままに想像をめぐらす余地があるということだ。

当然ここはイギリスの出番である。しかし、ネットを渉猟してみると否定的な見方が多い。当時のイギリスの外交文書を精査しても幕末の薩摩藩をイギリスが支援したことを窺わせるような根拠はないというのだ。

それはそうだろう。アヘン戦争からわずか20数年、第2次アヘン戦争とも呼ばれるアロー戦争から10年足らずという時点である。議会や世論の反対勢力を刺激しないようにイギリス政府は考えたはずだ。

日本の内戦を誘発するような支援はイギリス政府としてはやりにくい。だが、ジャーディン・マセソン商会を通じて支援する途はあっただろう。この会社はアヘン戦争に深く関係した経緯を持ち、琉球の密貿易にも携わっていた。長崎のグラバー商会はジャーディン・マセソン商会の代理店だった。

 

欧州列強の日本進出を刺激したのはアメリカである。中国に権益を得たイギリスにとって、カリフォルニアの獲得によって太平洋国家となったアメリカは重大な警戒対象だったはずだ。

本書によれば、ペリー来航の真の目的は実は明らかでなく、今日まで議論が続いているという。砲艦外交を旨としていたにもかかわらず、日本の通商拒否に対して強硬手段をとらなかったことから、アメリカの真意は通商ではなかったのではないかという問題意識である。

この点について考えてみるに、当時、日本との貿易にどれほどの利益が見込めたであろうか。アメリカの視点は初めから中国に据えられていて、日本を中国への中継拠点とする狙いだったのではないだろうか。そして、そのことをイギリスは察知していて、アメリカをはじめとする他の列強を牽制しつつ、密かに先んじて日本を勢力下に置くことを目指したのではないだろうか。

 

ここで注目されるのは通商条約の勅許を巡る列強の動きである。列強は当初、幕府を唯一の権力主体と認識して条約を締結したのだが、実は幕府の上に天皇がいて、その勅許がなければ条約が成立しないことを知った。そのため、1865年9月、イギリス公使パークスの主導により英仏蘭米4か国の艦隊が兵庫沖に集結し、天皇の勅許を要求した。この衝撃で将軍家茂が辞任し、一橋慶喜の強要により勅許が下された。

この過程でイギリスをはじめとする各国は、日本の政体について研究したであろう。徳川幕藩体制の実体について把握する中で、徳川と同格の国持大名という存在があることを知ったと考えられる。既に日本に内戦の兆しを見ていたイギリスは、徳川の対抗勢力となり得る国持大名を影響下に置くべく戦略を練ったであろう。

そのとき、中国に最も近い位置に存在する国持大名である薩摩藩に目が向くのは自然な成り行きである。また、勢力圏の防衛という観点で九州を見たとき、下関海峡が戦略上の重要拠点となることは長州藩との下関戦争(1863年1864年)で認知していたであろう。そのため、国持大名である長州藩もまた重要な存在として映ったはずだ。

 

公武合体を推し進めようとしていた薩摩藩が倒幕に舵を切った背景ははっきりしない。また、攘夷の急先鋒だった長州がイギリスと急接近した理由も腑に落ちない。いずれも、ジャーディン・マセソン商会とグラバー商会を通じたイギリスの工作が関与してはいなかったかと勝手な想像を巡らしてみるのである。