1885年(明治18年)1月27日、「日布移民条約」による

ハワイ(布哇)への移民第一号の船「シティ・オブ・トーキョー」

が横浜港を出港した日です。

 

この条約による移民は「官約移民」と称され、

第一便に乗船した移民は946人でした。

1894年(明治27年)に民間委託されるまでには

約29000人が「官約移民」として渡りました。

1924年(大正13年)、「排日移民法」がアメリカで

制定されるまでには、およそ22万人がハワイへ

渡りました。

 

ハワイでの仕事は、サトウキビ畑での畑仕事や

製糖工場での労働であり、「官約移民」とはいえ

実態は「人身売買」に類似した、半ば奴隷に近い

ものだったとのことです。

しかし、そんな中でも、現代へと続く礎の役を

果たす端緒となりました。

 

当時のハワイ(布哇)は、「ハワイ王国」としての

末期でもありました。

アメリカとスペインとの間での、太平洋の覇権争いの狭間で

ハワイはアメリカ側の「不沈戦艦」的な

要衝の役割を負っていました。

ちなみに、スペイン側の要衝は「フィリピン」でしたが、

1898年の「米西戦争」の終結後、1946年まで

アメリカの統治下に入ります。

 

こちらについては、1905年(明治38年)日露戦争の

終結後、「日英同盟」に基づき、

日本は、「アメリカがフイリピンを統治すること」

アメリカは、「日本が韓国の支配権を持つこと」を

お互いに認め合うことで一致し、承認しあったことで

太平洋の勢力構造からスペインは大きく撤退し

新たな勢力図に塗り替わりました。

 

「ハワイ王国」も、アメリカの準州から、正規の州への

繰入れへと進み、現在へと至ることになりました。

 

私にとっての「ハワイ」と言えば、

若いころのイメージは「明星」や「平凡」にあります。

芸能人の休暇地として、

明るく、広々とした、高級リゾート地です。

私自身は、アメリカ本土には行っていますが、

ハワイには足を踏み入れたことはありません。

 

息子が「新婚旅行」で「ハワイ」へ行きましたので、

写真等で、様子を細かに聞かされてはいます。

 

「観光」で「客」として行く限りには、

良い所ばかりです。

歌良し、フラダンス良し、

人懐っこく、暖かな人情の感じられる

太平洋の真っただ中の火山島、

 

文化、文明の侵入には

いつもきな臭さが滲みます。

折角のかけがえのない持ち味を

損なってしまわないよう

願う所でもあります。

我家の“リオ君”は

「ケッタ(ペダルの無い自転車)」を

上手に乗りこなします。

 

ブレーキも付いていますが、

なかなかのスピードが

出ます。

 

一緒に、警戒がてら

徒歩でお供をするのも

だんだん大変になって来ました。

 

安城の「警察署前」では、

並んでいる「パトカー」を、

「消防署」の前では、

「救急車」と「消防車」を

一台一台、確認し、

大きな声で数えて、

通ります。

 

そのすぐ先には、

簡単な、遊べる「消防車」が

有ります。

 

運転席で、

運転遊びです。

これが引き離すまで

なかなか離れません。

 

おもちゃのタイヤの付け替えや

修理の真似も大好きです。

 

機械や車の大好きな

“リオ君”です。

今朝がたですが、

ふと、亡くなってしまっていますが、

母方の祖母を思い出しました。

 

この人は、幼少のころから

生家のすぐ隣にお寺が有り、

そのお寺に子供が居なかったことも有り

お寺も自分の家のようにして

育てられたと聞いたことが

有ります。

 

お蔭様とでもいうものかは

判りませんが、

年を取っても、

「歌心」が沁みついていたようで

当地の「句会」の会員として

楽しめていました。

 

百人一首の中にも、親子、祖父、孫、

ひ孫など累代と続く作者を見かけます。

 

「清原さん」、「紫式部さん」、「和泉式部さん」

などですが、良いものだなと思います。

 

今日も、

お客様の気持ちを

大切に頑張りたいと思います。

 

よろしくお願い致します。

 

アンクリエイト