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グルーヴと一言で言うな〜音楽制作で考える脳科学51

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「グルーヴ」と言う言葉があります。

グルーヴがある、グルーヴがない。。

でもこの言葉迷いませんか?世界中で使われているけど、クラシックでは使わない。アフリカ民族のリズムには使う、演歌や民謡にも時々使うけど、童謡では使わない。

ジーンズみたいな文化。それぞれのジャンルとの相性や使い勝手があります。

そもそも繊細な時間的変化を伴う時間の間隔を埋めていくことで生まれるグルーヴ感覚自体を言葉で全て説明するのはほとんど不可能ではないでしょうか。録画して時間的感覚を測らないと。。。

 

筆者はこう述べます。

グルーヴとは、曲を前へと動かしていくそうした特性であり、どうしても読むのを止められない本の音楽版といったところだろう。

筆者はミュージシャン/プロデューサーでもあります。

ただし、グルーヴを生み出す決まったやり方はなく、それはR&Bミュージシャンたちがテンプテーションズやレイ・チャールズの往年のヒット曲で、グルーヴをそのまま真似ようとしてきた例からもわかる。実際にそのグルーヴを再現できた曲がほとんどないのは、真似るのがそう簡単ではない証拠だ。

 

そうなんです。グルーヴとは何か決まったテクニックではなく個々人が感じられるそれぞれの気持ちよさ心地よさです。

人それぞれのかっこよさを作り出すため、かっこいいと思うグルーヴを真似て演奏してもそのとおりにはならない特性があります。

だから相手が思うグルーヴに寄せるのは非常に難しく、どうしても「 君にはグルーヴがない」的な議論に発展しがちです。

互いの「カッコいい」の認識の差異。

 

スティービー(・ワンダー)がハイハットで演奏するビートに、二度と同じものはない。タップ、ヒット、そして休みを、ほんのわずかだけ余分に加えているのだ。その上、シンバルでも少しずつ音量を変化させている

 

ミュージシャンの意見がおおよそ一致しているのは、メトロノームのような厳密なリズムを取らない時、グルーヴが最も冴えるという点だ。つまり、完璧に機械的なリズムではない時、ということになる。

 

微妙にリズムをずらすという事は非常に困難であり、「誰かのずらし方を真似をする」というのも、よほど分析しても困難です。頭でタイミングが分かっても体が反応できません。

だからグルーヴの認識と言うのは定量化しないわけです。また自分の筋肉関節コントロールには長年の鍛錬が必要なので来週までにグルーヴ出す、みたいなこともなかなか困難でしょう。

 

この手のグルーヴはある種の「かっこよさという感情」にリンクしています。

泥臭さとか野性味とか欲望とか感情をむき出ししている感じ、といったイメージです。 そういうニュアンスを与える音楽的なクオリアの話になってきます。

筆者が言うにはクラシックは同時に進行していく様々な人やリズム情報が予測がつきづらいためにグルーヴという認識と少し違う、ということを述べています。

このようなタイミングの変化を感じる、または知るには、次にいつビートが聞こえるかについて、脳内の計算システムが予想情報を手にしてなければならない。規則的な鼓動のモデル(スキーマ)を脳がつくりあげるからこそ、演奏者がそこから逸脱したのに気付けるわけだ。

クラシックは情報が多すぎて次の音が予測できなかったりします。

童謡にはビートと言う概念が乏しいため、当たり前すぎてリズムと言うレベルにおいて認識していない可能性があります。

それに比べアフリカンビートや 津軽三味線のビートなどは、一定的なパターンがあり次の音に対する予測が成り立ちます。その予想に反して、演奏者が作る独特の揺れや独特のズレに対して、人は「かっこよさ」という感覚=満足感、陶酔的美しさという感覚を得るようになりました。

 

ここからが筆者の真骨頂で脳科学を駆使してこの存在について語っていくのですが、私にはなかなか難しかったのでご興味ある方は同書を手に入れてください。

 

要は微細なデータのズレの連続によってグルーヴという感覚にある種の「裏切りに対する驚き+美しさを感じる感覚」が引き起こるわけで、 グルーヴのあるなしを、 端的に指摘されても果たしてそれが適切な指摘なのかよくわからないと言うわけです。 どのデータがどのくらいずれているから悪いのか、ズレすぎてないから悪いのか、グルーヴという言葉ではなく、より細かい指摘で音の強さなのか、切り方が遅れているのか早いのか、遅れ方がまずいのか、ずらし方が足らないのか、などを細かく指摘してもらったほうがグルーヴの指摘としては適切です。

しかしミュージシャンでそういった論理的なことを瞬間的に行動しなければならないような現場で指摘するのは、どうもテンションが落ちるようで(いや、違う、彼らも正確に指摘ができないだけだ)これをいうと大抵怒られます。半分パワハラです。

それゆえにがっかりさせられたミュージシャンに対して使う「グルーヴがない」という捨て台詞、 言葉にできないほどかっこいい(言葉で表するのは野暮だ的な)ミュージシャンのリズムを「素晴らしいグルーヴだ」という表現で括ってしまう文化があるために、いまだにこの内容不明瞭なグルーヴと言う言葉が瞬間的に行動しなければならないような現場に残っているのだと感じました。

 

だから本当は「グルーヴって簡単に言うな!!」みたいに言いたいんですよね笑

 

著者によればこうしたリズム的現象に対する脳の反応が何らかの快楽物質を出し、こうした反応になっているのではないかと書いていました。 それら全てが生命の営みの中で勝ち得た機能を応用している、わけです。

 

流暢に喋る人、ハキハキとしゃべる人、元気よく明るく振る舞える喋り方、そうしたことに心地よさを感じるのと同様に、人は聴覚の情報から様々な感情を得るような仕組みができています。これもまた生き残るためにそうした情報処理が必要だったからです。獣が吠えているのかイビキなのか判別できずに横を通ったら殺される可能性もあります。

 聴覚は無意識的に瞬時に判断できるようになっています。

だから言語化が野暮だという感覚というのは、獣は目の前で威嚇して吠えている時、論理的にじっくり座って考えるのは野暮だ(そんなことより危険察知しろよ的な)、みたいな感覚が含まれているのではないでしょうか。

音楽は言語の特徴の一部を真似ていて、言葉によるコミュニケーションと同じ感情の位置を伝えるように感じるが、何かを意味したり、何か特別なものを指しているわけではない。また、言語と同じ神経領域の一部を呼び覚ますが、音楽の場合は言語よりずっと、動機付け、報酬、感情に関わる原始的な脳構造に深く入り込んでいく。 

吠えている獣に理由を聞く必要などないように、脳が発達した訳ですね笑。

 

音楽は言語的な脳の部位より原始的なところ(言語が使われる前の生命体の時の名残)に反応しているということでしょうか。

 

脳は新しいビートが聞こえる予測を常に更新していて、心の中のビートと実際に聞こえてくるビートが一致することに満足を覚え、巧みなミュージシャンがその期待を面白く裏切ると楽しく感じる(それは誰でも知っている音楽のジョークのようなもの)。曲が呼吸し、周りの世界と同じようにスピードをあげたりゆっくりになったりすると、私たちの小脳はそれと同期を保つことに快楽を見出す。

ここに答えが全て書かれている気もしますね。

屋根を叩く木の枝のリズムが変化すると、ネズミが感情的に反応するように、私たちもグルーヴのある音楽ではタイミングのズレに感情的に反応する。ネズミはタイミングの規則違反に何の知識もないわけだが、それを恐怖として経験している。文化と経験を通して音楽は少しも脅威では無いことを知っている私たちの場合は、認知システムが規則違反を快楽や喜びの源として解釈することになる。

 

音楽を聴くと、脳のいくつもの領域が一定の順序で次々に活性化する。まず、音の構成要素を最初に処理する聴覚皮質。次にBA44やBA47などの前頭部。(中略)そして最後に、覚醒、快楽、オピオイドの伝達とドーパミンの生成に関わるいくつもの領域からなるネットワーク(中脳辺縁系)ら続き、即座核の活性化で終わる。その間、小脳と大脳基底核はずっと活動を続けている。おそらくリズムと拍子の処理を支えているのだろう。その後、音楽を聴くことによる報酬と補強の側面に関わるのは、即座核内でのドーパミンレベルの上昇と、前頭葉と辺縁系につながって感情を処理制御する小脳の働きだ。現在の神経心理学理論は、前向きな気分と情緒をドーパミンのレベルと関連付けている。だから新しい抗うつ剤の多くは、ドーパミン作動系に対して作用する。音楽は明らかに人の気分を良くする手段になる。これで、その理由がわかったように思う。

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