静謐なる「爆発」 | 五島高資のブログ

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俳句と写真(画像)のコラボなど

  芸術という「爆発」

 

 先日、たまたま大学の地下にある書店で、久々に岡本太郎の顔を見つけた。『自分の中に毒を持て』という題された本の表紙に鋭い眼光を湛える彼の肖像である。岡本太郎と言えば、昭和四十五年に開催された日本万国博覧会における、あの『太陽の塔』がすぐ思い浮かぶ。子供ながらにその強烈なイメージにインパクトを受けたことを憶えている。とはいっても実際に万博を見に行った訳ではない。私は昭和四十三年生まれだから、万博終了後も永久保存となった『太陽の塔』をテレビか何かで見たのだと思う。そして、もう一つ、今でも私の頭にこびりついているのが「芸術は爆発だ」という彼の有名な言葉である。実はこの言葉くらい芸術の在り方を端的に表現したものはないと私はずっと思ってきた。そして、件の本の目次には、やはり「爆発の秘密」という項目があった。そこで彼は次のように述べている。

 

 〈ぼくは芸術と言ったが、それは決して絵・音楽・小説というような、職能的に分化された芸ごとや趣味のことではない。今世間で芸術と思っているのは、ほとんどが芸術屋の作った商品であるにすぎない。ぼくが芸術というのは生きることそのものである。人間として最も強烈に生きる者、無条件に生命をつき出し爆発する、その生き方こそが芸術なのだということを強調したい。〉

 

 この文章が書かれたのは、一九九〇年代のバブル経済に日本が浮かれていた時期である。たしか、日本の某製紙会社の会長が、オークションにかけられたゴッホの名画『医師ガシェ像』を絵画史上最高の百数十億円で落札して話題になったのもその頃である。芸術屋が作った作品が溢れていただけでなく、本物の作品までもが、個人の私有物として、あるいは投機の対象として扱われることが平然と行われた時期でもあったのである。因みにゴッホの絵を落札した先ほどの会長は自分が死んだらその絵も一緒に焼いてくれといって大顰蹙を買ったという。果たして、バブル経済破綻による会社経営の悪化から『医師ガシェ像』は銀行の担保に充てられ、その後の所有者は不明という始末である。もちろん、芸術作品そのものは単なる物質や言葉でしかないのだから、それらが商品として扱われても結構なのだが、要は、作者と鑑賞者との深い感動を媒介するものであってこそ、芸術作品は芸術作品たりうるということなのだと思う。芸術作品は鑑賞者が作者の魂に触れるための媒介にすぎないのである。岡本太郎が主張する芸術とは、そうした作品からあふれ出る作者の強烈で純粋な魂の発露そのものなのである。しかし、この魂の発露とは、もちろん自爆テロのように自他に危害を加えて奇を衒うようなものではなく、むしろ静謐なる「爆発」である。そのことを岡本太郎は次のように説明している。

 

 〈音もしない。物も飛び散らない。全身全霊が宇宙に向かってパーッとひらくこと。それが「爆発」だ。人生は本来、瞬間瞬間に、無償、無目的に爆発しつづけるべきだ。いのちのほんとうの在り方だ。さらに続けてこうも言っている。〉


 〈強烈に生きることは常に死を前提にしている。死という最もきびしい運命と直面して、はじめていのちが奮い立つのだ。死はただ生理的な終焉ではなく、日常生活の中に瞬間瞬間にたちあらわれるものだ。〉

 

 私はまさに芭蕉の「平生則チ辞世」という言葉を思い出して、つくづく芸術の根底に通じるものの同一性に思いを致すのである。

 

 ところで、俳句もまた芸術であるならば、岡本太郎が言うように、俳人も「爆発」を恐れてはならない。いや、むしろ積極的に「爆発」しなくてはならないと思う。もっとも、俳句作品ではなく個人の言動ばかり非難するといった攻撃的爆発を好む人も一部にはいるようだが、それらの多くは自らの保身のための暴発でしかない。爆発の次元が違う。ほんとうに芸術に生きる人は、自らの生命を「爆発」させ己を捨てているから、些細なことで他人の言動にとやかく言うことはない。

 さて、この岡本太郎が言う「爆発」というものの根源には、前述したように「死」を覚悟したときに初めて光り輝く「現在」そのものを表現しなければならないという芸術の真の在り方があるようだ。彼には『日本の伝統』という著書がある。そこでは形骸化した日本伝統文化に固執するのではなく、もう一度、自らの眼でそれらを吟味し咀嚼することによって、それらに新しい現在性を付け加えていくことが大切であることが述べられている。それは決して伝統を否定するものではない。むしろ、伝統にしがみついてばかりいて逆に伝統継承の足枷となるより、よほど伝統を未来へと発展させていく可能性を秘めているものである。前衛美術の急先鋒と目されてきた岡本太郎が実は日本の伝統文化を真摯に見つめ「現在」という場において肌で触れ、その奥義を体得しようと務めていたことに彼のほんとうの凄さを感じるのである。

 

 

  俳句界における静謐なる「爆発」

 

 現在の俳壇における動向はどうであろうか。詩形式的に分ければ、有季定型墨守派、有季定型準拠派、無季自由律派などに分類されるかもしれない。しかし、これはあくまで表現方法の違いであって、作者における芸術性を規定するものではない。むしろ、様々な表現方法があってこそ、俳句の未来に資するところが大きいことは、種を多様化させて環境変化という淘汰に勝ち抜いてきた生命の進化に通じるものがあり納得がいくというものである。ヘテロな集団だからこそ互いに活性化し合って未来への適合力が備わるのである。有季定型墨守派には有季定型墨守派の現在があり、有季定型準拠派には有季定型準拠派の現在があり、無季自由律派には無季自由律派の現在があるのである。しかし、その現在という一瞬は全ての人に開かれた一瞬なのであり、そうした形式的分類などどうでもよい場であることも確かである。

 要はそれぞれの信念に従って「現在」とどう立ち向かっているかということである。現在と立ち向かうと言うことは、単に刹那的に創作に携わるということではない。かけがえのない「現在」という一瞬一瞬に如何に自らの全存在をかけて輝くかということである。そうした「現在」における静謐なる「爆発」を私は次に挙げる若い現代俳人に垣間見るのである。

 

  夕焼を落ちてしまひし夕陽かな     坊城俊樹

 

 例えば、高浜虚子の〈桐一葉日当たりながら落ちにけり〉では、河東碧梧桐の空間的描写と対比される巧みな時間的表現が指摘されるが、まさに掲句も黄昏時における時間的表現には刮目すべきものがある。もっとも、坊城氏と言えば、虚子の曾孫だから血は争われないとつくづく思う。もともと本朝の詩歌における「一葉落つ」は劉安撰『淮南子』の「一葉落つるを見て、歳の将に暮れんとするを知る」から来ている。山本健吉氏によれば秋意を示すものとして桐の葉が「一葉」に収斂されたのは新古今時代からだという。芭蕉の〈我宿の淋しさおもへ桐一葉〉から渡辺白泉の〈桐一葉落ちて心に横たはる〉まで、いずれにしても「桐一葉」という季題の本意である栄枯盛衰という磁場に収束してしまいがちである。もちろん、虚子の〈桐一葉〉においても同様である。

 

 さて、「夕焼」については、飯田龍太の〈夕焼けて遠山雲の意にそへり〉に見られる壮快さや稲畑汀子の〈夕焼のはかなきことも美しく〉に見られる滅びの美学といった抒情的な用いられ方がこれまで多かった。しかし、掲句では、夕焼が紺色の夜空と織りなす荘厳な光景を叙することなく、夕焼の光源でありながら、夕焼を残して沈んでいく「夕陽」へと作者は心を致している。掲句における「夕陽」は天体でありながら、これまでの抒情的な「夕焼」を離れて落ちていく洗練された「夕陽」なのである。まさに「夕焼から夕陽が落ちる」という逆転の発想には、これまでにない新しみがあり、ものの存在や宇宙原理へと向かう俳句の深化をも感じさせるものがある。そして、これまでの太陽原理による季節感重視の「夕焼」では拾うことができなかった宇宙原理としての「夕陽」が作者の「現在」をも照らし出すのである。もちろん、このことが季語や抒情の軽視に繋がるということではないことは付言しておきたい。むしろ、こうした深遠なる視野をもってこそ形骸化されつつある季語や抒情の再活性化も可能というものである。「虚子の花鳥諷詠・客観写生を真として虚子の次の俳句を目指す」(『現代俳句一〇〇人二〇句』)と坊城氏は言っているが、その言葉がまさに実行されつつあることを私は掲句に確認するのである。

 

  波音の引く音ばかり星祭     小川軽舟

 

  月涼し韓国へゆく船の旅     同

 

 先ほどは少々大げさに宇宙原理などと言ったが、やはり小川氏の作品にもしばしばそれを感じるものがある。掲句は先ごろ俳人協会新人賞受賞作となった『近所』の「福岡」と題された項に収められている。平成五年四月から同八年三月まで福岡に住んでいた頃のものである。実は私も平成七年六月から同九年三月まで対馬に住んでいたから偶然にも同じ時期に玄界灘の波音を聞いていたことになる。福岡と対馬は玄界灘を隔てることおよそ百数十キロ。福岡空港発の夜間飛行便で対馬空港に着陸するときは、眼下の闇には烏賊吊り漁船の煌々とした火が無数に点り、まるで銀河の中をどこかの星にでも着陸するかのような錯覚に陥ることもしばしばであった。私の場合は本土から離島へ、小川氏の場合は東京から地方への、言葉は悪いが「都落ち」である。しかし、私にとって対馬での生活は色んな意味でプラスになった。私が現代俳句協会新人賞を貰ったのも対馬での作品を集めた『対馬暖流』によってである。対馬の風土から得たものはとても大きかった。同様に小川氏の作風も西国辺土の山海から得たものは大きかったのではないだろうか。福岡へ転勤して間もない頃の作である〈波音の〉では、「引く波」にのみ音が聞こえるという「実」を踏まえながら、感傷的な心の襞という「虚」をも垣間見せている。さらにそうした虚実が「星祭」によってうまく詩的昇華されている。あたかも「波音」は銀河の川音のようにも聞こえ、故郷と自分を隔てる運命というものにも思いを致すことができるのである。

 

 また〈月涼し〉では、夜間航行する関釜フェリーと「月」が一体化しながら「からくに」という、まるで時空を超えた異次元へと旅立つ作者が見える。もちろん〈天の海に雲の波立ち月の船星の林に漕ぎかくる見ゆ〉という柿本人麻呂の歌を連想させるものがあるが、〈つのさはふ石見の海の言さへく辛の崎なる〉という人麻呂の長歌の一節に見える「辛の崎」は「韓の崎」のことであり、まさに彼が没した石見の国は海を隔てて朝鮮半島と向かい合う地なのである。因みに人麻呂は朝鮮半島からの帰化人とも言われているが、〈月涼し〉の句はそうした色々なことを思い起こさせる奥行きの深さが感じられる。こうした九州での句業を経て小川氏は平成八年四月に私より一年早く関東に帰ることになる。「月読」という項はその後の作になるが、そこに〈流れ星眉間濡れしとおもひけり〉というのがある。この彼の眉間を濡らしたのは、あるいは玄界灘の波飛沫だったのではないかと私は密かに思っているのである。因みに玄界灘に浮かぶ壱岐の島には月読命を祖神とする壱岐の海人族が祀ったとされる月読神社が残っている。