古池の波紋  —命懸けの飛翔— | 五島高資のブログ

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  芭蕉ブームの再来

 



 芭蕉没後三百年にあたる一九九四年前後は、ちょうど『奥の細道』自筆本の発見も相俟って、芭蕉への社会的関心は一方ならぬものがあったけれども、ついにそれは単なるアニバーサリー的なブームに終わっってしまった。ところが、それから十年を経て、再び芭蕉に注目が集まった。二〇〇六年には、『えんぴつで奥の細道』がベストセラーとなり、嵐山光三郎氏が評伝『悪党芭蕉』にて第五八回読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞するなど、この芭蕉ブーム再来は、俳句界の枠を越えて一般社会へと広がる新展開を見せることになった。

 それにしても、今やインターネットで世界中とつながりグローバル化された現代日本において、芭蕉という江戸時代の一俳人になぜここまで私たちは魅了されるのであろうか。実は、その謎を解くためには、二〇〇四年一月から「俳句研究」に連載された長谷川櫂氏の「古池の彼方へ」という芭蕉俳句の本質を問い質す論考に溯らなくてはならない。

 日本人ならほぼ誰もが知っているけれども、その真意についてはよく分からなかった一行の詩歌がある。それが芭蕉の〈古池や蛙飛びこむ水の音〉である。古来、この名句については、すでに解釈し尽くされたと誰もが思っていたし、確かにかつて正鵠を射た解釈がなかった訳ではない。〈古池や〉の句について、一九九〇年刊行の麻生磯次・小高敏郎著『評釈名句辞典』には次のように記されている。

 

 この句は単なる写生の句でもなく、叙景の句でもない。古池にひろごる閑寂の余響を、作者は、しみじみと心に味わおうとしたのである。古池は心の田地ともいうべきものである。

 

 そもそも、長谷川氏が『古池に蛙は飛びこんだか』という一冊を以てして、〈古池や〉の句は「古池に蛙が飛びこんで水の音がした」という意味ではなく「蛙が水に飛びこむ音を聞いて心の中に古池の幻が浮かんだ」のであると喝破しなければ、俳句における詩的創造性の本質に気付かなかったであろう現代の俳人こそ情けない。ついには、「芭蕉の〈古池や蛙飛びこむ水の音〉は本当に名句なのか」という毎日新聞社主催のシンポジウムが開かれる始末である。そして、そこでは、古池に飛びこんだ蛙は何匹なのかなどといった低次元の議論が交わされるほど、現代俳句の世界は、芭蕉が極めた俳諧精神からほど遠いところにあるのである。

 

 

  近代俳句の革新と退廃

 

 おおよそ「文学」という言葉が詩歌や小説などを包括する言語芸術を示す概念として用いられるようになったのは明治二〇年前後からと言われている。つまり、当時、写実主義や自然主義などの西洋的な理念に根ざす文芸と相俟ってもたらされた「文学」という概念が次第に定着していった。従って、日本の「文学」は則ち「近代文学」とほぼ同義であり、これまでの伝統的な日本の諸文芸は「文学」の下位概念となることによってその「近代化」を図ることになる。一方で、「文学」は広義において「文書の形式に固定されたすべての言語的所産を包括」(竹内敏雄編『美学事典』)したが、やがて「狭義においてはこのうち特に美的品質をそなえたものに適用され」るようになって、今日的な意義での「文学」の概念が形成されることになる。つまり、そこにおいて「文学」は言語芸術として自らを保証する美的価値基準を必要とすることになる。そこで、幕末において言語遊技と堕した月並俳諧や俗宗匠輩の権威主義を排して写実主義による美意識に価値基準を求めて、「俳諧の発句」から「俳句」への改新を主導したのが正岡子規ということになる。しかし、「写実」だけでは、詩型の短い俳句に深い詩性をもたらすことは限界があり、子規もそのことはよく承知していた。そこで彼は俳句修学の至境について「空想と写実と合同して一種非空非実の大文学を製出せざるべからず。空想に偏僻して写実に拘泥する者は固より其至る者に非るなり」と『俳諧大要』に結論したのである。


 かくして、当初は、芭蕉による俳諧を等閑視していた子規だったが、やがて彼が唱導した「写実」も、次第に「非空非実」という観想を経ることによってやはり伝統的俳諧が目指したのと同じところを見据えるようになったのだと思う。ここにおいて初めて子規の「写実」は真の「写生」へと至るのだと思う。例えば、〈糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな〉では、上五の「客観」と中七の「主観」がついに結句の「仏」に象徴される「非我」あるいは「空観」へと超克されることによって「写実」は「写生」の次元へと詩的昇華されている。しかし、掲句は子規の辞世であり、彼の死によってこの真の「写生」は後世に充分伝えられなかったと考えられる。

 子規亡き後、俳壇を主導した高浜虚子は、「写生」にわざわざ「客観」を冠した「客観写生」という主客二分をより鮮明にした表現方法を俳句創作の核心に据えることになる。そうして虚子は近代文学の後塵を拝しながら、一方では俳諧の一特性に過ぎない季題諷詠を偏重して恣意的に俳句を季感文芸と定義した。これによって近代俳句は芭蕉による俳諧精神とはかけ離れたものになって行った。花鳥諷詠を旨とする現代俳句の低回はまさに主客二分的文学観に依拠する西洋的近代文学の停滞と深く関わっているのである。すでに柄谷行人によって「近代文学の終焉」が指摘されて久しいが、そろそろ文学としての近代俳句の在り方もまた根底から問われなければならない。今日、芭蕉による俳諧精神の復興が待たれる所以である。

 

 

  古池の波紋

 

 そもそも、〈古池や〉の句の成立を温ねれば、貞享三年閏三月の『蛙合』にその初出を見る。その様子については各務支考の『葛の松原』に詳しく、芭蕉は最初「蛙飛びこむ水の音」の七五を得た後、榎本其角が提案した「山吹や」の上五を採らず、結局、「古池や」を上五に定めたと記されている。さらに支考は、〈古池や蛙飛びこむ水の音〉と〈山吹や蛙飛びこむ水の音〉の二案を判じて「山吹といふ五文字は風流にしてはなやかなれど、古池といふ五文字は質素にして実なり。実は古今の貫道なればならし」と説いている。もっとも、ここでの「実」を現実として取れば、支考の解釈と、「古池」を現実ならざるものとして措定する長谷川説と相反するように思われるが、心主詞従の説を敷衍して「華」を外形に、「実」を内実に求めるならば両者は相通じていることが分かる。

 ところが、前述したような心主詞従の説に拠る支考の解釈に対して、潁原退蔵博士は次のように異を唱えている。

 

 それはそれで勿論宜い。しかし、華実を単に山吹と古池との場合にして考へて見ると、もつと違つた解釈が試みられるやうである。即ち一を写象的な叙景と見、一を象徴的な観想と見るのである。さうしてこの古池の句の場合、その光景が何等かの象徴として捉へられて居ることによつて、初めて立派な俳句となつて居る。実はさういふ解釈を下したいのである。『俳句に於ける写生』

 

 「一句の表面に現れたるだけの意義」に終始する写実偏重を排するという意味においては長谷川説と相通じるが、潁原説では一句ねも全体が写実的でありながら、そこに示現された「光景」に象徴的次元が重なって立ち現れるというモノフォニーから派生するポリフォニーと言うべき詩境に俳句の真価を求めている。従って、潁原説では、あくまでも、まず古池に蛙が飛び込んで水の音が聞こえるという状況を写実的な叙景として想定する。また、その一方で、古池の静を擾す音が却って静を感じさせると共に、その音が消え去って再び静に帰する古池に至る心と、そして、けだるさの中にも明るい静寂さが感じられるという晩春のアンビバレントな季節感とが共鳴すること、つまり、自己と天然とが相互滲潤(造化随順)する志向性に風雅の淵源を求め、茲に至って初めて「さび」が体得されるという詩法の確立を以て蕉風開眼と見なし、それを能く体現する一句として潁原博士は〈古池や〉の句を評釈しているのである。ところで、『名句評釈』における潁原博士の句評は実に簡明である。冒頭から「古来やかましい句である」と起筆し、支考、越人、其角などの諸説、あるいは『古池真伝』などに触れながらも、「要するにどこでもよい、青く水の淀んだ古池がある。~中略~徒らに千言万語を費す必要はないのである。箇中消息は自ら領会するものがあるだらう。」と結論している。


 ここで確認したいのは、俳句が優れた「さび」の文芸である為には、まず優れた「写実」が存することを不可欠の前提とすると同時に結局それが象徴詩たる宿命を負うべきものであるという潁原博士の主張である。ところで、〈古池や〉の句においては、対象の観照によって得られた詩興が、造化随順、枯淡静寂、さらにはその先に仄めく「ものの生命」あるいは「ものの見えたる光」へと至ることによって既存の美意識や固定観念を離れ、心奥なる詩魂へと質的変化を遂げんとする志向そのものが「心の色」なのであり、それは自ずから一句の句姿に「句の色」として醸し出されるのである。〈古池や〉の句について「蒼く湛へた静かな池の面に、突然大きな波紋を描いて起る水音、静と動の交錯がそこには象徴されて居る」と潁原博士が喝破した所以である。

 

 

  命懸けの飛躍

 


 あくまでも私個人の印象だが、〈古池や〉の句を一読すれば、やはり、古池に蛙が飛び込んで水音が響いたという「実景」がまず脳裡に浮かぶ。それはあくまでも言語の記号的情報による散文的解釈である。次には、もっと具体的に、幼い頃よく遊んだ近所の弁天池の「光景」などが想起されたりする。そして、我に返って〈古池や〉の句を俳句として理性的に読み直せば、作者とを隔てる時空の壁を「や」の切字が鑿開することによって様々な「情景」が想像される。ところが、ここに来て仄見えてくるのは、蛙ではなく芭蕉その人の姿なのである。例えば、それは、主君の死に士分を捨てて漂泊する芭蕉であったり、あるいは、貞門の旧染に泥む京師を脱して東下する芭蕉といった具合である。さらには、言語遊技に停滞する談林の陋巷を離れて深川の池州番小屋に潜居する芭蕉、そして、ついには八百屋お七の大火で海に身を投じて辛くも急火を遁れる芭蕉が思い浮かばれるのである。つまり、そのいずれにも覗えるのは、「死」に切迫するような艱難に遭遇しても「命懸けの飛躍」によって何度もよみがえる芭蕉の強かな魂胆なのである。因みに、この論攷を書くにあたり、実際にアマガエルを自宅で飼育して観察したが、アマガエルは身に危険が迫った時以外に自ら音を立てて水に入ることは一度もなかった。

 もっとも、「命懸けの飛躍」とは、芭蕉の境遇やアマガエルの生態における謂のみならず、むしろ、俳句の詩的創造における大事なのだと思う。「切れ」の本質は、常識やこれまでの自分を捨てて言葉と言葉との新しい関係性において詩的創造性を確立するということである。つまり、既存の観念や自己から超脱して初めて新しい表現世界やほんとうの自己が見えてくるのだと思う。芭蕉は通俗卑近の内にも新しい言葉の関係性を構成するという「切れ」の詩法によって俳諧に新しい美意識や芸術性をもたらしたのである。しかし、その一方で、「切れ」は言語の記号性や伝統的な美意識や古い固定観念などによって保証されてきた他者との交流にも間断を生ぜしめる危険を孕む諸刃の剣でもあった。従って、芭蕉は「平生則チ辞世なり」と唱えて、句作に臨んでは常に「一句懸命」の真剣勝負だったのだと思う。畢竟、〈古池や〉の句では、一句というモノフォニーの中から、「切れ」による「静」「動」そして再び「静」へと回帰するという通時性と、前述したような写実的次元と象徴的次元との相互浸潤による共時性とが織り成すポリフォニーがあふれ出すという極めて高度な詩的創造性が認められる。ここにこそ蕉風俳諧の核心があるのではないだろうか。そして、それは不断に旧染を打破せんとする「軽み」の本質へとつながるのである。たとえ、その道が「行く人なしに秋の暮」へと向かったとしてもである。

 

                             初出(改訂) : FaceBook 俳句大学 俳句学部 2014年7月12日