金子兜太小論 | 五島高資のブログ

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俳句と写真(画像)のコラボなど

 戦後、金子兜太は、いわゆる「社会性俳句」或いは「前衛俳句」の旗手として近代俳句の改革に取り組んだ。そのために兜太が唱導したのが「造型」の詩法であった。これは、正岡子規の写生や高浜虚子の季題諷詠、そして中村草田男の抽象に至る近代俳句の詩法の大前提である主客(作者・対象)二元論を超克する新しい詩法として位置付けられる。つまり、そこでは、自明の理としての主客という二項対立的な固定観念が解体され、客体(対象)のみならず主体(作者)をも対象化する「創る自分」という高次の主体が措定される。そうすることによって初めて主客一如という詩境に至る。ここにおいて、主客の共鳴あるいは相互交流を保証するものとして、「生きもの感覚」と兜太が呼ぶ体感的共有感覚が措定される。つまり、高次の主体は、言葉の記号的意味作用を超えた無意識的共有感覚によって、すなわち言葉の韻律あるいは隠喩的作用によって新しい主客の関係性を再構成することになる。従って、「造型」における詩的共感は、季題や季節感による連想性や言葉の記号的意味作用による二項対立的な抽象性に止まる固定観念の次元を超えて、近代俳句に新しい詩境を切り拓くことになった。畢竟、「社会性俳句」における日常的事象から天然造化まで、それらに通底する無意識的共有感覚によって、主客や生死という二項対立のみならず森羅万象における詩的相互交流が可能となるのである。そこにおいてこそ、「生きもの感覚」すなわちアニミズム的感性による大いなる生命が一句として立ち現れるのである。

 

  よく眠る夢の枯野が青むまで     兜太

 

 人の脳は夢を見ることで無意識に沈潜した記憶や抑圧された欲望などを処理している。詩囊もまた睡眠によって恢復されるのである。旅を栖とし一人枯野を駆け廻ることで詩的真実を追い続けた芭蕉とは異なる、「定住漂泊」という現代における兜太俳句の粋を茲に覗うことができる。