阪神タイガースFAヒストリー■其の二(会長記) | 堂島猛虎会のブログ

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タイガースファンの3人が綴る、猛虎愛ゆえの強く厳しい評論を発信していくブログです。

さて・・・

 

 

阪神タイガースFAヒストリー、其の二は

 

「FAで阪神に来た選手」だ。

 

どちらかというとこのFAシリーズでの本題はこちらだ。

出て行った選手より、来た選手(獲ったとも言うが・・・)に是非とも一言いいたい。

 

 

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まずはFA加入選手の一覧。

 

 

 

FA初年度1993年から石嶺和彦、山沖之彦と2名が続けてオリックスからタイガースにやってくる。

まさしくこの2名(+松永浩美)がタイガースのFA黒歴史のドアを開いたと言っていい。

 

今回は野手、投手ではなくカテゴリ分けしてお届けします。

 

まずは題して

 

「何しに来た?」BIG3

 

 

■まずは石嶺 和彦。

 

阪神タイガース80年史

ベースボールマガジン社

 

なんか・・・「おじさん」って顔している石嶺。

 

石嶺といえば南牟礼豊蔵がセットである。

もともと痛めていた膝を甲子園の広い外野守備で悪化させ、先発はするものの代走・守備固めの豊蔵がいないとどうにもならない状態であった。

 

この時すでに30歳は過ぎており、当時の選手寿命から考えても「余生を過ごしにきた」感が強い。実はこの石嶺が阪神タイガースの記念すべき「初の1億円プレイヤー」なのだ。

 

最終年には同じオリックスからシーズン途中に移籍してきた平塚克洋にレフトのポジションを奪われ、まさにこれが暗黒時代の幕開けとなる事になる。

 

 

内角打ちは上手かった。リストを効かせて打席でくるん、っと回る。

滞空時間の長い・・・「へろへろ・・っ」とゴルフのアプローチのように上がった打球がレフトスタンドぎりぎりに飛び込む。石嶺のホームランはそんな印象だった。

 

移籍してきた1994年こそ17本の本塁打を放つのだが翌年は9本、そして最終は2本と寂しい数字で終える。

 

まぁこの石嶺 和彦に関しては我々もまだFA制度自体に馴染みがなかったせいで過度の期待をかけすぎた感もありそこは気の毒だったかなぁとは思う。

 

 

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■「何しに来たんだ王」は・・「山沖 之彦」

 

 

「やまおきのひこ」? 何時代のひとよ?と思ったのを覚えている。

 

191cm、90kg。。。でかい

 

あだ名なんだっけ・・なんかあったな・・と

調べてみたら「アンドレ」

・・・そのままかい。

 

 

1981年の阪急ブレーブスドラフト1位。

13年間で通算112勝右腕は、故障で一軍に昇格することなく現役を終える。

 

当然の話だがFA移籍で一軍成績ゼロは山沖だけだ。

 

出番の少なかった球団に嫌気がさしたとか、実質、戦力外であったのを球団のすすめでFAしたとかいろいろと噂をされた。

 

が、この1994年といえば暗黒真っ盛りではあるが、和田豊とオマリーが首位打者争いをしたり、藪恵市も新人王を獲得する年である。

 

中村勝広監督の采配に不満が募るのはむろんのこと、キャンプ地にネットだけ作らせて暑くなると帰ってしまった新外国人のディアーなど我々ファンのイライラの矛先はこの石嶺・山沖の両FA選手に向けられた。

 

この2人が額面通り働けば・・・の思いは強かった。

なにしろ後半戦いかんではAクラスは十分可能性としてあったからだ。

 

石嶺も石嶺だが、この「やまおきのひこ」に至っては顔さえ見せないのだ。

 

ナイターを見ながら苦々しい顔で「あー、誰か今年もうひとりピッチャーおったなぁ?」などと毎晩のように毒づいたものだ。

 

(注・・・いちおう・・山沖 之彦は「やまおきゆきひこ」です)

 

そしてこの年のオフ、4年連続3割のオマリーは本塁打が少ないことを理由に放出され、翌年からまた最下位に沈む。

新庄剛志が一時引退を表明するのもこの1995年の話である。

 

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さて、BIG3のトリは小林 宏之。

 

185cmのスラッとした長身で長い足をパンタロンを履くようにユニフォームを気こなしていたのが印象的。

 

Sponichi Annex

 

1996年、ロッテのドラフト4位。当初は先発で2007年には13勝を挙げるなどし、2008年には開幕投手にも指名されたが、右肩の故障もあり救援に回ると適性を示し、クローザーに転向。29セーブをマークする。

 

その成果を買われての阪神入りで、久保田智之、藤川球児に繋がるセットアッパーとして期待された。

 

だが、前半戦だけで6度の救援失敗。そのうち4つは敗戦投手となるなど不振を極めた。

オールスター明けに二軍降格となるとそのまま翌年も一軍登板なく2年間39イニングをなげたのみで10月に戦力外となる。

 

株主総会では名指しで「不良債権」扱いされるなど散々な2年間だった。

 

そもそもこの頃のロッテといえば投手大国。

成瀬善久、清水直行、渡辺俊介、小野晋吾、唐川侑己などが先発ローテを守っていた頃。

そこから本人はMLB行きを望んだもののオファーがなかったという。

 

そして私の見立てではこの小林宏を潰したのは城島健司だと思っている。

 

小林 宏之の武器といえば低めへの制球とするどく落ちるフォークボール。

 

だが、このフォークボールが城島の股間をすり抜けるのを何度となく見た。

プロのキャッチャーの股間をボールが抜けていくなどとは・・・

何度も、声を上げ目をぱちくりさせたのを覚えている。

 

城島健司は「大丈夫、気にするな。打って取り返してやる」というタイプだったがセットアッパーのウイニングボールが股間をすり抜けていては・・・・。

小林 宏之の腕の振りが鈍くなったとしても責められないかもしれない。

 

上記のように少々気の毒な背景もあるにはあるのだが、この「何しに来た」の3本指に入る理由は2年5億円の高年棒。

 

おまけに「人的補償」までついてキャンプで絶好調の売り出し中であった髙濱 卓也内野手をロッテに召し上げる結果となってしまった。

 

これについては髙濱をプロテクトできなかった球団の罪であって小林のせいではない。

 

当時ロッテはFA宣言~残留を認めていなかったという事情もある。

 

だが、小林 宏之がメジャー行きなどを志願しなければその後、髙濱 卓也がプロ入り後はじめて甲子園のロッカーにネーミングされたその日にトレードされるなどという事はなかったし、若手の台頭を楽しみにしていたファンにとってはまさに不良債権そのものだった。

 

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毒づく文章を読む読者にも申し訳ないが書いている筆者の心もすさむ。

 

もう少しお付き合い願いたい。

 

この時点で「其の三」までもつれ込む予感しかない。

 

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さて続いては「何しに来た」とまでは言わないが、

「来なくてもよかったんじゃ・・・?」クラスの選手たち。

 

 

 

■まずは「星の王子様」こと星野 伸之。

 

阪神タイガース80年史

ベースボールマガジン社

 

上記の小林宏之の年代から遡り、再び暗黒時代、1999年の加入になる。

野村克也元年にいきなり大豊との確執やメイの反乱などで混乱し、最下位に沈んだチームによくぞ来たとも思う。

 

結論からいえば星野はタイガースに来なければ200勝できたと思う。

 

阪急~オリックスで15年、168勝を稼いでFAしてきた訳だが阪神では3年間でわずか8勝。最終的に176勝で引退する。

 

3年で32勝は微妙なラインではあるが・・・。

阪神では2年連続で開幕投手をつとめたものの2年目、3年目と登板数も激減。

当時のオリックスもなかなかの球団だったがそれでも阪神よりは・・・と思ってしまう。

 

■続いては中日の二軍監督となる片岡 篤史。

 

 

片岡と言えば最近、松坂大輔の引退にまつわる映像であの豪快な空振り三振が繰り返し使われているが、私の「片岡評」はまさにあの空振りに象徴されている。

 

15年通算で164本塁打を記録する一方で打率3割を超えたのは一度きり。

(日本ハム時代の1998年 486打数140安打で.300丁度)

OPSもその年の.905がキャリアハイだ。

 

要するにピークを3年過ぎてから阪神に来たという印象で、

セ・リーグ の配球に存分に苦しんでいた。

 

 

 

これは当時から私は言い続けている説で、「パ・リーグ からセ・リーグ に移籍してきた打者で成功したと言えるのは落合博満だけではないか?というもの。

 

石嶺和彦、金村義明、清原和博、小笠原道大・・・

 

唯一、落合博満と・・最近で言えば和田ベンちゃんくらいだろう。

それくらいパからセの対応は一筋縄ではいかないという事である。

 

 

■さて、新井 貴浩・・・・。

 

Sponichi Annex

 

 

 

みなさんも当時FA会見を見て「泣くんなら(広島に)おれや」とつぶいやいた事と思う。

 

「おれや」とは関西弁で「居ろよ」という意味で、活字になるとひどく粗暴に聞こえるが決してそうではない。

「喜んでいくわけではない」などと泣きながら言われたら、眉毛をハの字にして

「じゃあ、そこにおれや・・・」となるわけである。

 

金本知憲とふたたびコンビを組み通算の1,000本安打を記録するなど好調であったが、この年、腰痛を押して北京五輪に出場。その結果、腰椎の疲労骨折に見舞われてしまう。

 

結局、五輪に全試合出場したにもかかわらず公式戦は94試合の出場にとどまり、戦列復帰は9月下旬。

五輪に翻弄された岡田タイガースは長嶋ジャイアンツに13ゲームの差をひっくり返されてしまう。

 

新井貴浩の以後の成績はさほど悪いものでない。

金本知憲がスタメンした後も4番の座をつとめ、一塁手でゴールデングラブ賞も獲得した。特にショートバウンドの捕球は意外ともいえるくらいの素晴らしい適性を見せた。

 

だが、どうにもこうにもこの初年度の印象が悪すぎた。

 

泣きながらやってきたおっきな金本の弟分が「意外とやるやないか」と思ったら「腰が痛い」と言い出し「それでもオリンピックは出るんだ」と強行出場したあげくに「骨折です」では、私でなくても呆れて「広島におれや・・・」となっただろう。

 

また腰痛の影響からか以後は外角の落ち球・逃げ球に弱く2011年にはセ・リーグ の併殺王となる。この年、打点王のタイトルも獲得するのだがエラーもリーグトップで、打点・併殺・失策の「変則三冠王」を金本知憲にイジられることとなる。

 

さらに、新井は2015年から広島に復帰するのだが、阪神時代にあれほどクルクル回っていた外角のスライダーを軽打するなど、力の抜けた活躍を見せる。

 

「阪神タイガース」がそれほどの重圧だったのかと思うたび

 

 

「広島におったらよかったんと違うんか・・・」と

 

 

私たちはつぶやくのであった。

 

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■さてラストはオリックスから2012年にFA加入した日高 剛。

現・二軍打撃コーチですね。

 

Sponichi Annex

 

 

日高は捕手だが、期待は打撃の方でおもに左の代打として出場。主戦捕手はは藤井彰人であり、榎田大樹が先発のときだけマスクをかぶっていた。

が、7月にファウルフライで新井良太と激突し負傷。

2ヶ月戦列を離れ一軍44試合出場に終わる。

 

翌年は移籍の鶴岡一成や、新人・梅野隆太郎の台頭もあり一軍出場はわずか2試合。

その年のオフに引退する。

 

何しに来たとは言われないが

「来なくてもよかったんじゃ・・・?」と言われる代表格だ。

 

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思った通り長くなってしまったので其の三に続くこととします。

 

其の三では気持ちを切り替えて

「阪神で活躍してくれた選手」を取り上げたいと思います。

少し楽しい話になると思いますよ。

 

 

 

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