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5分でわかる福沢諭吉(ふくざわゆきち)現1万円札慶應義塾創立【まとめ】2021大河ドラマ

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【6分でわかる!】福澤諭吉の生涯!!
福沢諭吉
福沢諭吉

皆さんが知ってる福沢諭吉とはみんな大好き1万円札の人、慶応義塾大学を設立、学問ノススメを書いた人。

 お札に使用される肖像の人物選定に明確な基準があるわけではありませんが、注意が払われている点はいくつかあります。例えば、(1)極力実在の人物で、業績があり知名度も高く親しみやすいなど、国民から尊敬され日本を代表するような人物であること、(2)偽造防止の観点から、簡単に複製できず、かつ人の目を引く特徴のある顔であることなどです。

お金の話あれこれ(3) お札に登場した人物、動物 : 日本銀行 Bank of Japan (boj.or.jp)

そんなイメージが強いと思います。

もちろんその功績はとても大きいものですが、今回はそれだけではなくもっと詳しく、どこよりも詳細に、五分でわかる福沢諭吉として、現在2012大河ドラマ青天を衝けで注目の渋沢栄一との接点などを紹介します。

是非最後までご覧ください。

大河ドラマ『青天を衝けせいてんをつけ』や過去の大河ドラマをご覧になりたい方はこちら↓

慶応義塾大学を設立。近代日本の教育の礎を築いた教育者

福沢諭吉
福沢諭吉

1835年豊前中津藩士・福沢百助の次男として大阪で生まれました、父の急死後、中津藩に戻り、叔父と養子となります。

5歳のころから漢字を習い始める。

1854年、蘭学を学ぶために長崎へ。

翌年からは大阪の緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾で学び、最年少で塾長を務めるまでになります。

1858年、藩命で江戸に行き、築地に慶應義塾の原点となる蘭学塾を開きました。

外国人の多い横浜を訪れた際、英語の必要性に気づいたことから独学で学び、1860年、幕府の遣米使節団に志願し、咸臨丸(かいりんまる)で渡米します。

帰国後、幕府の通訳として働くようになり、欧州諸国を歴訪しました。

アメリカからウェブスター辞書を日本に初めて持ち帰ったほか、ヨーロッパでも多くの書籍を購入し、洋行で得た知見を綴った『西洋事情』を刊行し、西洋文明の紹介者として有名になりました。

1867年、幕府の軍艦受取委員に随行し再び渡米しました。

1868年、王政復古の大号令後に、新政府から出仕を求められるが断り続け、帯刀を辞めて平民となり、築地の蘭学塾を芝新銭座(現東京都港区)に移し、慶應義塾と命名します。

身分にとらわれない教育を行い、自由で平等な教育論を推し進めました。

この頃から、福沢諭吉の名で出版業をスタートします。

当時ベストセラーとなった『学問のすすめ』や『文明論之概略』など相次いで刊行。

下級武士、母子家庭で育った経験から封建制度に異論を唱え、人間平等を訴えて価値観の変革の必要性を説きました。

1882年には不偏不党、国権皇張を捧げる日刊紙『時事新報』を創刊。

社説などを執筆し、皇室を政治の領域外に置く考えや男女同権、婦人の解放を説き。西欧列強のアジア侵略に対してはアジア各国の独立を支援します。

しかし、日清戦争を『文野明暗の戦』と支持、戦後は植民地となった台湾問題に資本家の立場から関心を示しました。

その後も多数の著作や自らの著作を振り返った全集などわお発表したが、1898年に脳溢血を発症。

一度は回復したが、3年後に再発し、1901年に亡くなりました。

福沢諭吉と渋沢栄一との関係

旧幕臣出身だが個人的なつながりは深くなかったという渋沢栄一と福沢諭吉。

性格的な面では共通点が多くありました。

幼いころから迷信や旧習を信じなかったという合理主義的な性格や、日本が発展するためには、貿易立国となるべきだという考えがその一例です。

明治以降は政府と一定の距離を置いた2人だが、民主道で官と協力すべきだという栄一に対し、諭吉は反官的立場を取りました。

諭吉と将棋を指しながら、大隈重信岩崎弥太郎と歓談したのを機に、栄一が東京海上保険会社の設立に向けて動き始めていたという逸話が残っています。

諭吉は『時事新報』に栄一の生き方を絶賛する記事を書きました。

身分の上下への憎しみが学問で開眼するきっかけに

諭吉の父は優れた漢学者だったが、中津藩は身分の上下が厳しく、出世の道は立たれていたといいます。

その上、2歳で父を亡くしてからはシングルマザーになった母が苦労する様子を見て育ったことから、諭吉は後に『福翁自伝』の中で、『門閥制度は親の敵』と語っています。

彼は幼い頃は学問が嫌いだったというが、漢学を学び始めて、学問には身分の上下が関係ないことに気づくと、メキメキと頭角を現したといいます。

また、立見流居合道の免許皆伝を得た達人でもあったが、修業はあくまでも求道と健康づくりのために行うものと心得ていました。

暗殺の危機を感じると夜間の外出は慎むようになり、人生で唯一遭遇したピンチでは、戦わずに逃げたと伝わっています。

その点では、勝海舟らと同じく、剣の達人と言われながら、生涯に一度も剣で人を傷つけたことはありませんでした。

福沢諭吉と並ぶ人気福地源一郎がみた維新

福地源一郎という人物をご存じでしょうか。

ここでは当時福沢諭吉と人気を二分した人物福地源一郎について書かせていただきたいと思います。

福澤諭吉と並ぶ人気者だったが…

「維新の三傑」

維新の三傑(いしんのさんけつ)は、倒幕・維新に尽力した、志士の西郷隆盛大久保利通木戸孝允3人を指す。

についてはたびたび紹介されますが、明治における「日本十傑」といえば、皆様は誰の名前をあげますでしょうか?

各界から一人選ぶかたちで、

  • 「政治家」
  • 「軍師」
  • 「学術家」
  • 「法律家」
  • 「著述家」
  • 「新聞記者」
  • 「教法家」
  • 「商法家」
  • 「医師」
  • 「画家」

の第1人者が誰か、読者が投票をする、そんなユニークな企画が1885(明治8)年の『今日新聞』(現在の『東京新聞』)で行われ、1406通の応募がありました。

最も多く票を獲得したのは、「著述家」部門で選ばれた福沢諭吉。

圧倒的大差で、1124票を得ています。

では、「政治家」は誰だったのだろう。各部門で選ばれた人物と得票数は以下のとおりだ。

  • [政治家]伊藤博文 927票
  • [軍師] 複本武揚 425票
  • [学術家] 中村正直 592票
  • [法律家] 鳩山和夫 618票
  • [著述家] 福沢諭吉 1124票
  • [新聞記者] 福地源一郎1089票
  • [教法家] 北畠道竜 486票
  • [商法家] 渋沢栄一 596票
  • [医師] 佐藤進 565票
  • [画家] 守住貫魚 459票

明治18年と言えば近代的な内閣制度が設立され、伊藤博文が内閣総理大臣になった年です。

927票を獲得して政治家部門で1位に輝いているのだから、さすがの人気といったところだろう。

だが、得票数が高いにもかかわらず、見慣れない名前もある。福澤諭吉に次いで、

1000票以上を集めた、福地源一郎(ふくちげんいちろう)です。

「福地桜痴(ふくちおうち)」という名でも知られていたが、今では全くと言っていいほど知られていなのではないでしょうか。

今回調べるまでは私も何をした人か知りませんでした・・・

あきちゃん
あきちゃん

無名の人物と言っても過言ではないのではないでしょうか。

それよりも現代では福地よりもはるかに票が少ない、2021大河ドラマ青天を衝けで話題の渋沢栄一、鳩山和夫、榎本武揚のほうが、知名度は圧倒的に上ではないでしょうか。

ちなみに、この投票結果をすべてあてた人が3人もいたといわれています。

つまり、当時としては、かなり順当な結果だったということです。

実際のところ、8割近い票を獲得した福沢諭吉と福地源一郎は、

「天下の双福」

と並び称されていました。

忘れ去られたジャーナリスト、福地源一郎とは、どんな人物だったのだろうか。

1841(天保2)年に長崎で医師の息子として生まれた福地は、幼年のころから漢学と読書、習字に打ち込み、「神童」と呼ばれていました。

16歳から江戸に出て森山栄之助の英語塾で英語を学んだのち、翻訳の仕事に従事し、2年後には、御家人に取り立てられます。

幕末期には、外国奉行の下役として活躍しました。

江戸幕府を支えた幕臣たちが、実は明治政府でも活躍していましたが、福地源一郎もまた元幕臣から、方向転換した一人です。

福地の場合は、明治時代が始まると幕臣の身分を捨てて、平民として過ごす道を選びました。

持ち前の英語力を生かして、翻訳業や塾の講師などで生計を立てていました。

芸は身を助ける、とはよく言ったものだが、役立ったのは福地の英語力だけではありません。

16歳で江戸に出仕してから、福地は榎本武揚らに吉原での女遊びを教えられ、それ以来、頻繁に通っていました。

そんな女道楽が、福地の運命を切り拓くきっかけになったのです。

明治維新後も吉原に通っていると、旧幕臣で大蔵省に仕えていた渋沢栄一と出会い、そこから伊藤博文とも知り合いになったのであります。

以後、伊藤の力で、福地は大蔵省に出仕するようになるのだから、遊びのネットワークもばかにはできません。

英語に長けていた福地は、伊藤に随行して洋行していました。

そしてついには、岩倉使節団の一員となり、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らの実力者とも知り合いになります。

岩倉の口真似をしてみんなを笑わせるなど、福地はムードメーカーとして存在感を示していたらしいです。

誰もが緊張気味の洋行だっただけに、福地の冗談はよい潤滑油となったことでしょう。

そんな福地が最も苦手だったのが、大久保利通だったそうです。

大久保はこの岩倉使節団の欧米視察において、ほとんど口を利かなかったといわれていわれています。

もともとの性格もあるが、大久保は、列強の優れた文化を目の当たりにして、日本との差に衝撃を受けていたのです。

そんな大久保からすれば、福地の振る舞いは、いかにも軽薄に感じたに違いありません。

しかし、苦手な相手にも果敢に切り込んでいくのが、福地です。

ロンドン滞在中、大久保の部屋に呼ばれたときに、こんなことを言いました。

福地源一郎
福地源一郎

「私が閣下によく容れられないことはわきまえております。
私は事に際してすぐに意見を申しのべる、つまり即知をもって得意といたしておりますが、閣下はそれを危険のこととして退けられる。
ですから、もし閣下に容れられようとするなら、即知をひかえることと思うのですが、どうしてもそれができないのです」

すると大久保が

大久保利通
大久保利通

「その通りだ。その秘訣を知っていながら、君はなぜそれを実行しようとせぬのか」

と問うと、さらに福地はこう言った。

福地源一郎
福地源一郎

「即知は私にとっていわば天与の才であります。閣下の知遇を得るということとのために、天与の才を隠して愚をよそおうのを潔しとしないのです」

瞬時に状況をつかんで、巧みに切り返す――。

そんな「即知」が得意であることを、福地は天から与えられた才能だと考えていました。

大久保に気に入られるためだけにそれを捨てることはできない、と言ってのけたのだから、なかなかの強心臓です。

岩倉使節団が帰国すると、福地は誘いを受けて、東京日日新聞(毎日新聞の前身)の主筆となり、ジャーナリストとして歩み始めます。

そこで「即知」の才が大いに発揮されました。

西南戦争が起きると、他社が尻込みするなか、福地はすぐさま戦地の熊本城へ向かいます。

着の身着のままで農家に泊まりながら書いた連載記事「戦報採録」は、戦場ルポとして大きな評判を呼びました。

その後も新聞記者として名を馳せた福地は、1878(明治1)年の暮れに議員選挙が行われると、下谷区から出馬して当選。

そのうえ、東京府会で芝区選出の福沢諭吉と議長選挙を戦って、外票を獲得し、8票だった諭吉に勝利しています。

この時点では、福地が忘れ去られて、諭吉が歴史に長く名を刻むとは、誰もが予想できなかったでしょう。

幕臣だらけだった新聞界

幕臣出身のジャーナリストは福地だけではありません。

「郵便報知新聞』の栗本鋤雲は、奥医師でありながら北海道開拓に尽力し、外交官やフランス大使として活躍しました。

また、『朝野新聞』の成島 柳北は、会計副総裁などを歴任。

江戸城の明け渡しにも立ち会っています。

さらに、『東京横浜毎日新聞』の沼間守一は、幕府陸軍伝習所で洋式兵術を学んで、戊辰戦争で幕臣として新政府側で戦った経験を持つ。

まさに旧幕臣があふれる新聞界だが、福地が主筆を務める『東京日日新聞』が好調を維持したのには、理由がありました。

新聞がみな政権批判の立場をとるのをみて、『東京日日新聞』は逆に、政府側の新聞として、国家の方針を国民に伝えるというスタンスを取ったのです。

当然、官吏たちは読者になるし、官を尊ぶ権威好きな国民のニーズも汲み取ることができました。

だが、国民の政治への意識が高まるに連れて、政府寄りの新聞であることに批判が高まるようになってきました。

致命的だったのが、1881(明治4)年に起きた

「北海道開拓使官有物払い下げ事件」

※「北海道開拓使官有物払い下げ事件」とは?
開拓使長官・黒田清隆が、1400万円を投じた船舶などの官有物を、同郷の政商らに安く払い下げようとして非難された事件。五代友厚ら関西貿易商会に無利息30年年賦で払い下げようとしたことで、民権派から非難が集中した。また、黒田をかばった大隈を政府から追い出す口実にもなった。という出来事です。

あきちゃん
あきちゃん

での報道スタンスである。

当初は政府批判を行っていたにもかかわらず、明治十四年の政変によって、自分と親しい伊藤博文と手を結ぶと、紙面も政府を擁護するようになり、徐々に読者離れが起きました。

また、福地は政府が『東京日日新聞」が官報になることを期待していたが、政府は独自に官報を発行することになり、政府側のメディアとしても魅力を失っていったのです。

代わりに台頭してきたのが、特定の政党に肩入れしないことをポリシーとした日刊新聞の『時事新報』である。

創刊者は福沢諭吉です。

諭吉が新聞を発行したのは、大隈重信、伊藤博文、井上馨らから、公報新聞の発行を頼まれたのがきっかけでした。福地があれだけ

官報を出したがっているのを知りながらも、政府高官たちが選んだのは、福沢だった。

そこには、伊藤の次のような深い意図があったのではないかと、

『明治の異才 福地桜痴』(小山文雄)では書かれている。

伊藤博文
伊藤博文

「政府新聞なら、すでに半ばそう見られている桜痴がより適任であろう。思慮周密の伊藤のそこの心事がはかりきれないのだが、強いて忖度すれば、伊藤も諭吉の民衆に対する清新さを買い、それを政府新聞として活用して難局を乗り切る道具とし、桜痴は自分のための御用新聞として利用していく。民衆が「やっぱり」と思う桜痴よりは、「おやっ」と感じる諭吉の方が、民衆への効果が大きい」

だが、福沢は政治情勢の変化をみて、政党に寄らない『時事新報』の発刊へと舵を切った。

こうして「天下の双福」と呼ばれた2人が新聞界で再び交差し、その後は福沢が言論界を牽引していくことになるのです。

大きなスキャンダルがあったわけではなく、ごく自然に福地は忘れ去られていきました。

とにかく器用で、名文家として原稿を量産した福地だったが、歴史に名を残すには、何か物足りなかったのでしょうか。

大久保とのやりとりについては前述したが、実は、そのあとにも続きがありました。

「即知」が自分の天から与えられた才能である、と語る福地に、無口な大久保が珍しく懇々とこう諭したのである。

大久保利通
大久保利通

「君はなお春秋に富み、他日に大志を抱く俊秀である。いたずらに才を誇り知に驕るといった弊を改めて、深慮熟考の風を養うべきだろう。さもないと国家の器になることはできず、才を抱いたまま世に認められずに一生を終えることになるだろう。」

明治の時代を駆け抜けたジャーナリスト、福地源一郎。

才にあふれながらも、一本筋が通った生き様を見せられなかったがゆえに、大久保の予言通り、人々の忘却の彼方へと消えてしまったのです。

福澤諭吉旧居・福澤記念館

〒871-0088 大分県中津市留守居町586
TEL:0979-25-0063

JR中津駅より、徒歩15分、タクシー3分

 

施設情報

電話番号0979-25-0063
FAX0979-23-2938
住所〒871-0088 大分県中津市留守居町586
※無料駐車場有

入館料

高校生以上個人:400円
団体(20名以上):300円 ※事前予約制
団体見学申請書は「お問合せ」ページからダウンロード可能です。
中学生以下個人:200円
団体(20名以上):150円 ※事前予約制
団体見学申請書は「お問合せ」ページからダウンロード可能です。
未就学児無料
障がい者手帳をお持ちの方無料 ※介助者(1名)も対象
中津市在住の65歳以上の方無料 ※住所と年齢が確認出来るものをお持ちください。
共通観覧券【二館共通観覧券】
中津城 と 福澤諭吉旧居・記念館
高校生以上:600円
中学生以下:300円
【三館共通観覧券】
中津城 と 中津市歴史博物館 と 福澤諭吉旧居・記念館
高校生以上・一般:700円

開館時間

9:00~17:00(最終入館受付16:30まで)

休館日

12月31日

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