「ステラおばさんじゃねーよっ‼️」メインビジュアル Noteにて、絶賛執筆中!





2023年7月10日、1年越しで書き溜めた長編小説「ステラおばさんじゃねーよっ‼️」をNoteで公開しました!


家族ってなあに?という、普遍的な問題と複雑に絡まった出自が暴かれていく《ファミリー・ミステリー》となっています。


なるたけ1日1話のペースで、作品アップの予定ですので、アクセスをいただけましたら幸いです。


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《関連ブログ》

父のいた20年間、そして、いない20年間



BGM

明日への手紙 唄:手嶋 

https://youtu.be/ytQ3Hs3WjQ4



※写真は、今夏の夕映え。


⭐︎


2021916日、

本日は父の27回忌だ。


そして、わたしは今年の春に、

父と同い歳になった。ー


あの日から、時だけは悠々と澱みもせずに流れて、わたしはいまだ生かされている。


26年の時を経て、同い年の父へ、

手紙を認めてみた。


ーあの日の光景が、甦ってくる。。。


⭐︎


急にわたしの目の前から居なくなったあなた。


あれから26年、どうしていましたか?


わたしはご存知、26年前は、20歳でした。


運良く生かされているので、

年だけは確りと重ねられて、

今年、あなたと同い歳になりました。


あの頃、あなたの息子は一浪して、やっと合格した大学生活が始まって、丁度半年が過ぎた頃でした。


そして、実家から遠方の地で、

わたしは意気揚々と、勉学と演劇とバイトに勤しんでいました。


今となっては照れ臭いですが、わたしは、

青い春の真っ只中にいました。


純粋に、若かったのです。


大家のお婆さんは隣りの戸建てに住み、

暇を見つけては、隣りのボロい貸アパート

に住む大学生を自宅に寄せて、孫くらいの男子学生との会話を楽しむのが日課でした。


わたしも、そのひとりでした。


だから、お婆さんと仲良くなるのに、時間はかからなかったです。


若い男子学生の栄養事情も考慮してか、

帰りには決まって、煮物やお惣菜のタッパ

を持たされました。


⭐︎


覚えていますか?


ボロいアパートの部屋は、

狭い畳の六畳一間で、狭過ぎる玄関脇に、古びた台所のシンクが右手に、ガス台は左手に、

むりくりくっついていました。


軽トラックに最小限の荷物を積み込み、

遠路遥々あのアパートまで、

あなたは荷物とわたしを、春風と一緒に、

運んでくれましたよね。


肌色のバスタブがあるシャワールームと

洗濯機、そして隣接された便所部屋は、

共同使用ではありましたが、

週に数度は鼻腔の奥をツンとさせる、

強めの塩素臭に包まれていて、

それらの清潔さが保たれていました。


エアコンも無いボロいアパートは、

わたしには寝に帰る場所でした。


だから、安くてボロくても、若さと夢に囲まれて、わたしは何の苦も感じませんでした。


我が家は、他人様に言えるほど裕福な家庭ではなかったので、居住環境に多くは望みませんでした。


大学に行かせてもらえただけでも

ありがたい、と心底思っていました。


あなたも好きではなかった、あなたの妻、

つまり、わたしの母から、離れて暮らせれ

ばいい、という理由が、長年深く強くありましたから、ボロいアパートの一室も、

わたしには天国みたいな空間でした。

(天国の実情はしりませんが。笑)


わたしは母からの呪縛から漸く解き放たれて、やりたい事をやりたいだけやろうと

していました。



その矢先の、あなたの突然の死。



「死んじゃってもいいなー」

なんて、口に出すものではありませんね。


それから一週間後、あなたはそれを無意識裡に、有言実行したのですから。


⭐︎


今でも鮮明に覚えています。


深夜バイトからの帰り、早朝の駐輪場に

原付バイクを停めて、ヘトヘトになりながら、自室の扉を開けました。


夏のあいだ中、隣街にあった巨大な印刷

工場で夜勤バイトをしていました。


輪転機と呼ばれる大きな印刷機の前に立ち機械を都度止めながら、印刷された圧着ハガキの番号管理をしていました。


深夜に働くのは、日中に働くより、

体力の消耗が激しい事を、

若い肉体を持ってしても

感じたものです。


そしてあの日は今日のように、

台風が接近していて、

強い雨に打たれながら走らせる原付バイクの運転もあり、神経を擦り減らし、バイトの疲れも重なり、すっかり疲れ果てていました。


自室に入ると、タオルで濡れた顔や髪を乾かし、敷かれたままの布団に潜り込もうとしたところ、急にわたしの部屋の電話が、鳴り響いたのです。


ボロいアパートの自室には、電話があり、

外線電話はこちらからはかけられたのですが、受けるのは直接出来ず、かかって来た電話は必ず大家のお婆さんが受けて、内線で各部屋に繋ぎ直すという状況でした。


そして、携帯電話の前身、PHSが普及し出した頃ではありましたが、まだわたしは、それを手に入れるだけの資金がありませんでした。


まずは自室で直接電話を出来るようにしたい、と思っていて、電話権利証書の購入を

検討していました。


当時、その証書の販売額は、64,000円位

したと、薄ら覚えています。


自分に必要なものを購入するために、

生活費を稼ぐために、

時給が割高な深夜バイトを、

大学の夏休みのあいだにやっていました。


ひと夏で、数十万稼げたと記憶しています。


電話というキーワードから話が脱線しましたが、突然、早朝に甲高く鳴り響く電話音に、多少の苛つきを感じながら、わたしは受話器を取りました。



「もしもし、〇〇です」


「寝ていたの?何処かに行っていたの?

何回鳴らしても出ないんだから!」


「すみません。バイトに行っていて、

さっき帰って来ました。何かありましたか?」


「直ぐに実家に連絡して!お父さん、亡くなったそうよ。。。早く切って、実家にかけ直して!!」



お婆さんの剣幕に気圧されて、直ぐに受話器を置きました。




え!?今何て言った¿


チチガシンダ? ナクナッタ¿



頭にはこのような不安定な表記が浮かび上がり、実感が全く湧かなかったのを、

今でも思い出します。


母と電話越しに話しをしても、

きっと何かの間違いで、


父は寝たふりをしているのだ。

自分の眼で見るまでは、絶対に信じない!!


と、酷く錯乱していました。


今思えば、あまりに突然過ぎて、

容易く、父の死を受け容れられなかった

のです。


あの日、台風接近という荒天だったせいも、あるかもしれません。


⭐︎


嵐のなか、遠方の実家には、

バスに乗り40分かけて最寄駅まで行き、

電車を2時間くらい揺られて、

地元駅から車で20分かけて

行きました。


殆ど寝ずに、移動していました。


不安定な心と脳が、ちぐはぐにごちゃまぜ

となり、神経を昂らせていました。


その間も、

《現実=あなたの死》

を全く受け容れ無い自分と、

自問自答をし続けました。


壮大なドッキリを皆が企み、

わたしを笑い者にしようとしている

のか?


けれど、笑い者にされてもいい、

あなたが生きているのならば!


と、身勝手な脳内ループは止まりません。


実家に到着し、白装束に身を包まれた

あなたの穏やかな死顔と対面した時も、

あなたの死を受け容れる事はできません

でした。


なーんだ、寝てるだけじゃん。


しかし、わたしの告白出来ない、

身勝手な脳内ループへの賛同者は

当然現れず、無情にもあなたをこのまま

寝かせておくだけでは、周りが許してくれる訳がありませんでした。


ソト面は良いが、

実際は無教養で無礼でサイコパス気質の母は、喪主であるにもかかわらず、

わたしに弔辞を任せたい、

と言います。


一旦は断りましたが、

出来ない、

の一点張り。


亡きあなたにもさらなる無慈悲ぶりを発揮する母。


呆れ返り、話しもしたくない心身疲れ切ったわたしは、承知せざるを得ませんでした。


家族の誰かが、責任を持ってそれを

やらなければならないのですから。


納得出来ない気持ちを胸に、

わたしが弔辞を作成し、

参列者の皆様の前で、あなたの死の実感も

無く、粛々と読み上げました。



人生で、あなたをこんなにも思う日は、

後にも先にもあの日だけでしょう。



あなたが火葬場に着き、

参列者の方々が最期の別れを告げて、

木棺が焼くための窯へ吸い込まれて咄嗟、

肉体が無くなる!

と思ったその瞬間、

突発的に泣き叫んで、崩れ落ちてしまい、

親族に抱きかかえられた事の記憶だけが、

すっぽりと抜け落ちています。


あの時わたしは、わたしの身体の全体を

使って、積もりに積もった澱のような感情を一気に爆発させた事でやっと、あなたの死を確かに、受け容れたのでしょう。


⭐︎


あれから26年、わたしはあなたと同い歳に

なりました。



あなたがこの世を去った後、わたしにも

めまぐるしい人生がありました。



恵まれた体格を授けていただいたおかげで、モデル業も経験し、いくつかのメディアにも出させていただきました。



誰にでも分け隔てなく、優しい気持ちで

接する姿があなたと重なると、あなたの

周囲の方に言われた事もあります。



そして、わたしにとっての人生の一大事は

何と言っても、


《急性骨髄性白血病に罹患した事》


です。


あなたは脳溢血から後遺症も殆ど無く

回復して、束の間、突然の心不全で、

あの日、この世を去りました。



わたしは残された人生がどれくらいなのか

わからないのに、まだまだやるべき事が

やれていなかったりします。


最期は笑ってここから去れるように、

もうふた頑張り以上

しないといけませんね。


わたしが、わたしで居られるように、

いつも見守ってくれてありがとうね。


これからも明日を恐れず、

過去を大切に抱き、

今日を真剣に、

生きたいと思います。


また、何処かで出逢えるのを、

心より楽しみにしています。


いつもありがとうございます。


2021.9.16


親愛なる父へ


あなたの愚息より

※写真は、自家製レアチーズケーキ。ミントも自家栽培したもの。



⭐︎


2021519日、雨後・新緑ー


噎せ(むせ)返り・放たれる

蒼く、強く、若く、

湿った特有のかほりが、

凝り固まった今朝の脳に

ズンと、重みを与えてくる。



躊躇いがちに

さくら並樹のトンネルへ

歩みを進めると、

脇目には、紅く聳え立つ鉄塔が

わたしを涼やかに

見下ろしている。




いつだって自然は、

逞しく、

強く、

儚くて、

永遠。



脈々と受け継がれていく

普遍のプログラムに圧倒されて、

わたしは四季折々、

怯み、胸がふるえる。



なんとちっぽけな人間でしか

ないんだろう、と、

己が萎縮する。



人間の持つポテンシャルの

限界の底は、

とてもとても浅くて、



緩やかに進化することしか

出来ない生命体なのに、

世界を我が物顔で牛耳った気に、

なっている。



世界の一部の、ちっぽけで、

進化・乏しき生命体のひとつでしか

ないのに、



謙虚な気持ちはどんどん薄れ、



尊大で傲慢で、

時に他力本願な面ばかりを

誇張し嘲り、



世界をかたちづくってしまっている。




自然に畏怖を抱き、

敬意を払って暮らしていた

原始・太古のあるべき姿が、

とてもとても懐かしくある。



⭐︎



不浄な世界に、

一筋の光を見出す時、

人は真っ先に何を想うのだろうか。



平穏、無事、安寧、互助、

変化、安心、尊敬、感謝



等、ほかにもさまざま言葉を

想い浮かべるだろう。



⭐︎


人が《安心する》とは、人の《心を平らかにする》事。



不穏な空気や環境の変化が、極力少ない事。



人を安心させるためには、

優しい気持ちが根底にあって欲しい、

個人的には。



では、



?優しさって何だろう?



このような連想ゲームを、

独り遊びでよくする、わたし。



あらためて、

わたしなりの《優しさ》とはなんだろうか、と自問してみた。




優しさとは???



優しさ



親切で思いやりがあるさま。

性格が素直でおとなしいさま。



優しさの由来・語源


優しさの語源は、動詞「やす(痩す)」。


それの形容詞化した語(「痩さし」)で、

もとは、身もやせ細るほどに恥ずかしい

という意味。



万葉の時代から、人や世間に対して、

気恥ずかしい、肩身が狭いの意味で

用いられていた。


平安時代になって、気恥ずかしく思う気持ちから、周囲の人に対して控えめにふるまうさまを優雅、優美であるとして評価するようになり、やがて、心づかいが細やかで思いやりがあるという意味へと変化していった。


(語源由来辞典より、抜粋)




日本独特の感性と、一部の人間の勘違いに

より、変化した言葉だとしるには、

わたしにとって遅すぎた感がある。



優しいという言葉のイメージの、

優位的概念ばかりが、

自分の中で独り歩きしていた。



日本人特有の消極的態度による、

耽美傾倒からの語源だったのか。



しかし時代が変われば、人も変わる。



人が変われば、言葉も変わる。



言葉は進化し、また退化もする。



⭐︎


個人的には、優しいという語感は、

好きだ。



昨今、真に優しい人が少なくなり、

自己愛過ぎる、自分に優しい人ばかりが

目につき、実際に増幅している。



真(まこと)なる優しさとは、

他者に与えるものだ


と、わたしは常々思っている。



そして、優しさ=甘やかす、

では無い事を理解していない人が

多数居るのではないか、

と思ったりもする。



⭐︎


優しさの基軸にあるものは、

厳しさで、他者への愛ありき

言動である、


とわたしは考え、生きてきた。



そして、その考えはこれからも

きっと変わらない。



人は人によっては、変えられない。


そして、自分も変わりづらい。



人は、自分が心底納得してから

自分の問題点や欠点について

考え始めなければ、

変わらないし、変われない、



と考えてきたし、

実際にその節はある。



だから自分の内なる世界に

耳を傾けながら、

自分としっかり話し合い、

自分に足りないものを自覚し、

足りないものを補いながら、

他者と相互に助け合ってしか

生きられない。



相互補完の考えの根底には、

他者への尊敬と感謝が必要だ。




生きられる喜び。




生かされている使命。




生き抜く力。




生き抜いて、最後に遺るもの。




そんな命題を日々心に忍ばせ、

適宜、それに相応しい人を目指して、

これからも生きていく。




それが、わたしのいま、できることだから。