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マルクスとヘーゲルの思想・日常生活で感じたことを、エッセイ風に

追悼 坂本龍一 「坂本〜!」

2024-04-16 20:26:21 | 芸術(音楽・絵画・映画)

ごぶさたしています。

前回は、確か高橋ユキヒロさんがお亡くなりになったのを受けて、その弔辞のようなものを投稿したのでした。

そしてその後、坂本龍一さんがお亡くなりになりました。

私は坂本さんの大ファンで、彼が公式に発表した音源は、ほぼ全て聞いております。坂本関連の本もほとんど読みました(タイトルは書きませんが、1万円近くする研究本も2冊読みました。つまらない本でした)ただ、コンサートにも通うような大ファンになったのは私が30歳代後半、坂本さんが40歳代になってからのことです。

YMOが「ライディーン」を発表した頃、よくラジオで耳にしていたのですが、その頃はディープ・パープルなどのハードロックにはまっていたので、「よく分からない音楽」としてしか感じませんでした。しかし、その「わかりにくさ」はよく覚えていて、中学校の帰り道にライディーンの音楽を頭の中でめぐらせた場所も覚えているほどです。今ではYMOの全てのアルバムをCDで持っており、レコードも数点持っていますが。

YMOの再結成後、特にNHKで再結成コンサートを観て、坂本さんのかっこよさにしびれ、YMOのファンになり、 sweet revengeという坂本さんが発表されたアルバムの1曲目 Tokyo Story を聞いた瞬間からのめり込みました。

その頃、滋賀県の近江八幡に遊びにちょくちょく行っていたのですが、その帰りに、JR近江八幡の駅に、近江八幡市民会館で、なんと坂本さんのワールド・ツアーの皮切り公演が行われると、sweet revengeのジャケットの写真をつかったポスターに記されていました。近江八幡市の方々には本当にもうしわけないのですが、「ええ、ここで??」と思いました(たぶん市政何十周年のイベントだったと思います。やるねえ、近江八幡!)。即チケットをとって、それに行き、坂本さんに間近に触れたことで(たぶん100メートル程度)、ますます坂本さんのファンになったのです。坂本さんに関しては、おそらく多くの人が語っていると思いますので、たぶんあまり語られていないそのコンサートの模様を中心に書くことで、追悼にかえたいと思います。

このコンサートの模様はsweet revenge tourというタイトルの映像や音源となって発売されていました(収録された会場は異なります)。近江八幡での演奏はほぼこれと同じなのですが、一つだけ大きく違ったことがあります。この映像を見ると、アンコールで演奏されたHeart Beatという楽曲の演奏の際にバックで映し出される映像(ペン書き風の人がカクカク踊る映像)がありますが、この近江八幡市の公演では間に合わなかったようで、当日はその映像がありませんでした。いかにもスタートのコンサートですねえ。

面白かったのは、近江八幡の客は良い意味で、ノリが良くなくて、つまり、じっくり曲を聴いている状態で(Love and Hateが終わった後、女の人が「かっこいいー!」と叫んだだけ)、ホントにアンコールの曲になるまで、誰も大きな手拍子もせず、立ち上がりもしませんでした。私もこのときが坂本さんのコンサートに初めて行ったので、どうしたらいいのかよくわからずにじっとしていました。アンコールで、Heart Beatのイントロが流れた瞬間に、耐えきれなくなった前から3列目の女の子が立ち上がって、手を叩きだし、ようやくみんな立ち上がって、大盛り上がりとなったのでした。ある意味、クラシックのコンサートのような感じでした。

その他、最前列のカップルが遅れてやってきたのに気付いて、「遅かったね。どうしたの?」って声をかけるなど、小さな会場だからこそ生じたこともあり、その後、私は坂本さんの公演に十数回行っていますが、客に直接コンサート中に声を掛けたのはこれだけなので、未だによく覚えています。

坂本さんの他のコンサートで記録として残しておいてもいいかと思う事は、名古屋のピアノコンサートの際に生じたことです。坂本さんがしゃべり出した時、「音楽家なんだから、しゃべらずに音楽をやれ!」と大声を出した男がいたことです。YMOのころの坂本さんなら、『写楽』コンサートの際のように、「うるさい、だまって聴け!」とでも言っていたと思いますが、その時は、「困ったなあ…」とだけ言って黙ってしまって、すぐにスタッフがその男のところに行って、どうにかしたようです。私も「俺たちは坂本さんの話も楽しみにしているんだ!」と言いたかったのですが、それで回りの人に迷惑をその男がかけたらと思うと、できませんでした。坂本さんも刺激してはいけないと思ったのだと思います。いやー、坂本さんも大人になったなあと感慨深いものがありました。

近江八幡コンサートの頃は、私は35歳頃ですから、坂本さんもまだ45歳頃ですね。いやー、かっこよかった。その後、私は坂本さんの髪型をマネしたり、同じ内容のピアノコンサートだとわかっていても、神戸、名古屋、仙台(この仙台公演はクリスマス前夜でした)と追っかけたりしました。ひどい時は、坂本さんのコンサートがあるからと言って、チーフを私がしているテキストの会議を早めに終わらせてもらったりしていました。いや、急いだだけで、途中で止めたわけではありません。スタッフのみなさんには迷惑かけましたが、いつもなら倍の時間がかかる会議が半分の時間で終わり、「やればできるもんだな」とみんな感心していたので、よかった(か?)。

そんな風にずっと追いかけてきた坂本さんが亡くなりました。NHKで坂本さん関連の番組をちょくちょく放送していますが、辛くてなかなか一挙に観ることができず、録画しています。Last Daysは特に。まだ見ることができません。

ただ、音楽の上では、坂本さんはSweet Revengeを頂点として、その後は音楽家としては難しかったと思います。これは芸術家にとっては、必然的なことであり、坂本さんの欠点でもなんでもないです。

かつて坂本さんは、高野寛さんが司会をしていた番組「ソリトン Part 2」で、「いつから音楽はメロディーを失ったのか」という内容の新聞記事を取り上げて話をしていました。当時は、ラップを中心とした音楽シーンの話になっていましたが、これは今、全ての音楽シーンにおいてそうなのだと、私は思っています。今、音楽で盛り上がっているのは、その演奏家たちの外見やパフォーマンスが中心になっていると思います。世界的な大ヒットというのがなくなりつつあります。日本においても、どの世代も知っているという新曲はほとんど存在しなくなっています。松原みきさんのリバイバルによって火が付いた「シティー・ポップ」の復活、その後の歌謡曲の復活なんてのは、そのことを証明しているように思えます。

坂本さんの実質的な最後のアルバムは asyncですが、これもなかなか「素晴らしいアルバム」と賞賛しきることは難しい曲で溢れています(仕事をしながら聴くには良いのですが)。芸術家が常に注目を浴びるのは、本当に難しいことです。その例はいくつもありますが、ゲルハルト・リヒターの最新作と初期のリアリズムをずらしたような作品とでは、どちらの方が魅力的ですか?私は後者です。つまり芸術は革新に大きな意味があり、それが無くなると魅力が薄れていくものです。今の若い人たちが、昔の歌謡曲に魅力を見いだすのは、今まで耳にしていなかったメロディーラインをもっている曲だからでしょう。

アイドルでありながら、歌唱力のある人、中森明菜や松田聖子もそうですが、そういう人たちが良いメロディーをもったヒット曲に恵まれていた時代は、もう来ないのでしょうねえ。私の中では、最後の「アイドル+名曲」となったのは、AKB48の『恋するフォーチュンクッキー』です。スマップのアルバムも多数買った私ですが、これ以降、アイドル系のCDは買っていません(高橋ユキヒロさんは、スマップの曲をカバーしたことがありましたが、「だって、良い曲なんだもん」って言っていました)。

ということで、坂本さんに関連することなら、バッハやドビュッシーなどに触れるべきなのかも知れませんが、あえて歌謡曲に流れました(彼がプロデュースした中谷美紀さんもいますしね)。坂本さんはかつて、自分が死ぬ時には「今まで愛してきた女性が全員回りにいてほしい」ということを言っていました。これが(当時の)最後の際の願いだったのです(実現しなかったでしょうけど。soraさんがいれば良いよね)。私はそういう坂本さんが好きでした。ぎらぎらした坂本さんが大好きでした。Beutyは良い、けど、海外版のBeutyは、クレジットには無い、そして日本版には収録されていない”You Do Me”が入っている。私は当然何も知らず、海外版も買っておこう、って感じで買い、最初に You Do Me が入っていて驚き、最後(だと思っていた)「ちんさぐの花」が終わったので、席を立ったら、You Do Me らしきイントロが聞こえてきて、急いでパンフレットを確認しても、そのことは掲載されていない、と、こういうことをする坂本さんが大好きでした。昔、マッキントッシュのソフトで、キーボードのあるボタンを押すと、開発者の名前が映画のラストのように下からせり上がってきたり、お正月にアップルのコンピュータを立ち上げると、「あけましておめでとうございます」と画面にでたりする、「遊び心」が感じられました。

ですから、本当は、「健康」や「環境保護」に目覚めた坂本さんは、実はあまり好きではありませんでした。坂本さんはぎらぎらしたそのままの姿で突っ走ってほしかった。環境保護に乗り出すのと、ピアノコンサートばかりになる時期は、一致しています。加齢が原因であるということもあるでしょうけど、なんとなく淋しく思っていました。

神宮外苑の木々が伐採されるのを憂慮する坂本さんも素敵ですけど、あの才能をもち、あの美貌を持って、昔、ピテカントロプスに出入りしていた坂本さんが私は大好きなのです。自身が創る音楽を「癒しの音楽」と言われるのを、大変嫌がっていた坂本さんが好きです。エナジー・フローは受けて、どうして「山崎」は受けないんだ!と憤慨している坂本さんが好きでした。

ピーター・バラカンさんは、NHKの自分の番組でいまだ坂本さんの追悼番組をすることができないのは「距離の取り方が難しい」からだそうですが、それもなんとなく理解できます。坂本さんの場合、かなり音楽に幅があるのですね。もう全く話題にならなかった「COMIKA」なんて、ほとんどノイズです。何を選べば良いのだろうかと考えていらっしゃるのではないかと思います(思いあまって、エナジー・フローをかけていらっしゃいましたが)。坂本さん名義のヒット曲は、『エナジー・フロー』『メリー・クリスマス・Mr.ローレンス』等ですが、『B2-unit』に収録されている曲などを聴いてもらえば、その「乖離」の感覚は分かっていただけると思います。私はB2系坂本が好きだったのですね。

坂本さんがリベラルな思考をしていたのはもちろん分かっています。彼は高校時代からそういう行動をしていたようです。よって、柄谷行人さん等が始めたNAMという活動にも、村上龍とともに名前は載せていた時があります。ただ、不思議なことに、マルクスの名前が坂本さんの書いたもので見掛けたことは一度もないのです。

私はコンサート会場では、アンコールの曲が終わると、「坂本~!」と呼び捨てにして叫んでいました。この「呼び捨て」の感じが、私の好きな坂本さんを表しているように思っていました(YMOの頃は呼び捨てが多かったね)。ですから、その呼び声をかけると、坂本さんがこちらに向かって手を振ってくれるように、心なしか思えました。

「坂本~!」

 


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翻訳 現状報告

2023-11-23 17:23:29 | マルクス・ヘーゲル

ごぶさたしています。

『資本論初版』の翻訳で、一区切りがついたこともあり、自分の防備録、兼、近況報告として、ブログを久しぶりに書きます。

翻訳の方は、8月末に、初版商品章、初版商品章の注、付録、初版交換過程章、初版交換過程章の注と、目指す部分の訳出を全て行いました。9月から訳出のチェックに取り組み、先ほど、初版商品章と初版商品章の注のチェックを終えました。

今まで出版された初版の翻訳本の全ての文に目を通し、参考になる場合には現行版の訳本(4冊)にも目を通しながら、最善の訳を目指しました。私自身の感覚によってしまいますが、現在使用されている日本語に馴染みやすいことを目指す一方で、簡易にすることが目的ではないので、ドイツ語の構造に出来る限り忠実にすることを旨として、出来る限り、日本語とドイツ語のバランスを取ろうとしています。

予備校講師をしていた頃は、テキスト作成チーフとして、訳文のチェックの最終責任を負っていましたが、そのことを思い出しながら、自分の訳文のチェックをしていました。私は専ら私大の長文を扱うテキストを担当することが多く、26歳で講師になり、その翌年にはテキストスタッフになり、その翌年には新たに作成されたテキスト作成チームのチーフになり、それからずーっと、20数年にわたって長文を扱うテキストの執筆とチェックを行ってきました。

そんな調子で英文と格闘していたのですが、今回、マルクスのドイツ語の訳出をするにあたって、ドイツ語の文法の学習を2012年から始めたにも関わらず、なかなか文の構造が取れないということが、たまにありました。英語においては、動詞と主語がひっくりかえったりする「倒置」が出現するのは稀で、文法の授業でも例外的なものとして扱うことになっていましたが、ドイツ語は寧ろ「倒置」が当たり前なんです。ただ、名詞の性とそれに対応する冠詞の形態がきちんと決まっていますので、名詞の性さえ分かれば、どの要素であるかは分かるわけですが、そのためには、その名詞の性が男性か女性か中性かを知らないといけません。ですから、当然、ドイツ語を学び直すに当たって、単語とその性を冠詞を含めて覚えることを始めましたが、ドイツ語の単語集に掲載されている単語は殆どが日常生活で使用する単語で、資本論で登場する単語は、ホントに僅かしか掲載されていません。数年努力しましたが、結局単語を覚えることに専念することはやめました。辞書を引き引き頑張ることにしました。

都合10冊程度の訳本を参考にしながら、全て新たに訳出しましたが、本当に不思議なのは、その訳者の内、牧野紀之さんと長谷部文雄さん以外は、翻訳に当たって、ここはこう解釈した等の感想なりを残していないのです。長谷部さんも『資本論随筆』という本で語彙の訳出に関して数点取り上げているだけで、文構造や内容などに関しては全く書き残していません。後日読んだ『回想の長谷部文雄』という本の中では、本人は「職人でありたい」と言い続けて、結局資本論に関する注釈なり解説なりは書きませんでした。その代わり、訳本に関しては何度も改訂しています。『原典対訳 マルクス経済学レキシコン』という抜粋形式の訳本を出した久留間鮫造さんも、著作の方で一部(例えば「二者闘争的」と訳すべきか「二重性」と訳すべきか、等)に関しては述べていますが、ほとんど書いていないに等しい。牧野さんくらいです、まともに疑問に思ったことを注で書き残しているのは。いや、本当に翻訳をした者は、疑問に残っていることは書き残して、後世の者にその解決を委ねないといけないと思います。

ということで、今度出版する訳本では、私が分からないと思っているところと、他の訳者と異なるところ等々、訳出面に関することをわんさか掲載するつもりです。つまり、資本論の翻訳に関しては、まだ解決されていないところがあるということです。

とりあえず、一応のチェックが終了したら出版しようと思っていましたが、やはり現行版(第四版)の訳出をしないと、初版の意義が半減するという思いが強くなってきました。ということで、初版の訳出チェックをしたら、次は現行版の訳出に取り掛かることにしました。来年の前半はそれに時間を費やすことになります。その後、チェックを経て、初版との対照をして、なんらかの形で、初版と現行版をまとめてみたいと思うようになりました。まあ、初めの計画が65歳までに出版と思っていたのです、それよりは早くできそうです。


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yukihiro, saravah!

2023-01-15 15:28:18 | 芸術(音楽・絵画・映画)

 

 

 

Y.T. , saravah!

 

註:SARAVAH! 語源はポルトガル語。サンバやその作者をたたえる言葉。日本では強い訣別の意。

——高橋幸広のファースト・アルバム『Saravah!』のライナー・ノーツより抜粋。なお、このアルバムの名義は 高橋ユキヒロ となっています。

YMOの音楽や、ユキヒロさんの音楽だけでなく、多くの音楽家の楽曲において、素晴らしいドラムの音を響かせてくれました。ありがとうございました。


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宮沢章夫さんを悼む(18) ——『資本論も読む』を読む 第十五回——  とりあえず、最終回

2022-12-20 16:21:07 | マルクス・ヘーゲル

最終回をアップするまでに、かなり時間が空いてしまいました。その間、大掃除を10日間に渡って行い(もう屋根から壁から床から、家具は言うまでもなく、掃除しまくりまして、2キロ痩せました)、その後、村上春樹さんの「朝日堂」エッセイ、『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』を読んでいました。昔から春樹さんのエッセーを殊の外喜んで読んでいまして、途中で止められないのです。初めは『村上ラジオ』から始まり、その後、『村上さんのところ』などなど。それが間抜けなことに、私はまだ『村上朝日堂』(このタイトル絡みで出たエッセイ集の最初の本)をまだ読んでいないことに一昨日気づいたのです。またハードオフで買ってこようっと。

『資本論も読む』の第十五回のタイトルは、「「わからない」を「わからない」として味わう」です。

ここまでで宮沢さんは連載を一年以上続け、資本論の第一章である商品論の部分を読み終えました。この回で、連載していた雑誌が休刊になり、新たに別の雑誌に連載をすることになったと報告されています。ただ、添付の日記の部分で、最初に連載していたのは、(経済情勢を扱っている)経済誌で、その中で(経済に関する本である)資本論を読むという連載をしていたから(そして、その本を読んでも理解できないことを報告していたので)「冗談になった」のだと、彼らしい言葉で述べています。でも、読んで連載をしてみて「ほんとうによかった」と書いています。

何が良かったのでしょうか?タイトルの通り、「わからない」を「わからないとして味わう」ことができて良かったのでしょうか?それとも、一通りは読んでみたので良かったのでしょうか?一部でも理解できたから良かったのでしょうか?それは分かりません。

私はこの宮沢さんが書いた『「資本論」も読む』の最大の功績は、「資本論の商品章を読んでみたが、よく分からなかった」ということを記録してくれたことにあると思っています。これは、宮沢さんが意図したのかどうか分かりませんが、この本は、「資本論を読んでみたが、わからなかった、ということがわかった」ことを味わう本なのです。

しかし、よく考えてみますと、理解できなかったということを書いている本というのは、きわめて珍しいわけです。どうしてなのかと更に考えてみると、意外にすぐにその答えはわかります。そんな本を読みたいと思う人はあまりいない、つまり、そんな本を出版してもあまり売れないからです。そりゃ、そうだ。

普通、人は本を読んで何らかの理解なりプラスの効用を得たいと思うわけです。小説なら、そこから様々な感情を味わったり、はらはらしたり、どきどきしたり、ほっこりしたりしたいわけです。他のことをしていては得られない、感情の動きなどを味わいたいのです(ま、他の効用を求める場合もあるでしょう、例えば、部屋に飾ってみたいなど…世の中には本当に本をディスプレイ用に買い求める人がいるようで、オークションサイトには外国語の本が「ディスプレーにどうぞ!」などと、まるでその本の第一効用が飾り付けであるかのような宣伝文句によく出会います)。しかし、人がある本を読んだ結果、よく分からなかったということを知るために、その本を読んでみる、という人はあまりいないのです。

上記の効用、すなわちこの本に関して言えば「人が資本論を読んだ結果、よく分からなかったということを知るために、その本を読む」という効用を得るために、この本を購入した人いるとしたら、つまり、結果的に上記のことを知るのではなく、そのことを目的に購入する人がいるとしたら(つまり宮沢さんのファンだからとか、くだらない内容のエッセーが大好き——私もそうですが——だからなどという理由意外で購入する人がいるとしたら)、それは以下の三つの立場の人しかいないでしょう。

おそらく一番多いのは、資本論の入門書と勘違いして買う人でしょう。あの宮沢さんが書いたのだから、おもしろおかしく解説してくれるのだろう、と期待して買った人でしょうね。もちろん、その期待はまったくもって外れるわけですが。でも、これをきっかけに、「やはり心して資本論に取り組まなければならないな」と意志をより強固にもったり、「そうか、資本論にはかなり擬人的な表現が登場するんだな」とか、本質的な理解に近づく上で励みになることもあるでしょう(となれば良いんだけど)。

もう一つは、「私もかつて資本論を読んでみて理解できなかったのだが、他の人も理解できなかったということを知って、安心したい」と思って購入する人です。つまり、バカは自分だけではないのだ、とか、自分の頭の程度も捨てたほどではない、ということで納得したい人です。あるいは逆に、マルクスっていうすごい人がいると聞いて、資本論を読んでみたけど、やっぱり理解できないからマルクスはすごい、と納得したい人でしょうか(そんな人がいるか?)。

こういう人たちに、私が一言いいたのは、実は資本論の商品章の理解は、本当は誰にも、根本的には理解できない内容だということです。これはマルクスも含めてそうだ、ということです。ここには人間の思考にそぐわない内容が書かれているのです。ですから、人間の思考を保ったまま理解しようとしてはならないのです。そうすると、理解できないから私は大馬鹿だ、ということになるのです。商品は人間の思考のようなことをしていますが、人間の思考とは逆の仕方で思考のようなことをしています。ですから、人間は本当は商品のやっていることを、外から捉えることはできますが、同じ様に理解することはできません。それは量子の動きを我々が明確に捉えることができないのと同じです。推測ができるだけです。可能なのは、「こうでなければ(こう推測しなければ)、こうならないはずだ」、という段階の理解までです。こういうことが今まで言われなくて、理解したつもりになっている人、あるいは、理解できていないと自覚しても、何らかの理由で執筆をせざるをえなくなった人が、資本論の解説書を書いてきたので、資本論の商品章の理解の難しさは、努力すれば理解できるというものではなく、人間である以上、根本的な理解はできないという種類の「理解の難しさ」なのだということが理解されてこなかったのです。この手の本を読んだ人(私もかつてそうでした)が、解った気になってしまうということが延々と続いてきたのではないでしょうか。そして思い返してみて、何が理解できたのか分からないという事態が。非難するわけではないですが、最近では漫画まで登場しています。絵で商品の本質が描けるわけもなく、当然のことですが、商品論に関しては描写がありません(なお、『マルクス・ガール』という2巻本の漫画がありますが、これはマルクスとは全く関係がなく、主人公の女の子の部屋の壁にマルクスが描かれているというだけで、美術部の恋愛話でした。オークションで落として読んでみてびっくりした。しかもストーリーも何もない。著者が第二巻の冒頭に「マルクスとは関係がない」と書いていますが、だったらマルクスガールって名前もやめろよって思ってしまいます)。

もし通常の意味で理解ができない理由があるとしたら、それは前にも書きましたが、「相対」とか「等価」とか「抽象」とか「形態」など、専門用語を形成している語幹と申しますか、一部の語句の根本的な意味を理解しないまま読んでいこうとするからでしょう。これは私自身がそうだったからなのですが。ヘーゲルの翻訳家である牧野紀之氏は、ある語を理解しようとする際、その語の反対語を念頭においてみると良いと書いています。「相対」の反対語は「絶対」です。絶対とは単独で存在しうることです。となると、相対とは他が存在しないと存在できないという意味になります。相対的価値形態とは、自身で価値を表現することが出来ないが故に他の商品の形態で価値を表現するしかない形態ということになります。このように語の意味を大切にすることです。

さて、二つ目のタイプは、私のように、資本論のどこが理解しづらいのか、自分の経験だけではなく、他人の経験も知りたいと思って買う人ですね。しかし、こういう人は、その後、資本論に関する本を執筆したい人など、資本論に関して本当に理解したいと思っている人ですから、ほとんどいないでしょうね。しかし、本当にこの『資本論も読む』の効用があるのは、これなのです(もちろん、「ばかばかしい」とか「くだらない」と思いつつ喜んで読むというのでも良いのですが)。残念なのは、どこが理解できなかったのかということが詳しく書かれていないことですね。推測ですが、ほとんどすっとばしていた価値形態論の部分が、やはり理解できなかったのでしょう。理由は上記の通りです。宮沢さんほどの知性のある方が、通常の意味での理解が及ばなかったわけではないと思います。引用もほとんど無いので、引用しようもなかったのだと思えます。

 

今回は、最後でもあり、資本論の理解に関する回でもありますので、もう一つ書いておきます。それは、翻訳について、です。

私は大学の一回生の頃から、資本論の商品章を理解したいと思いました。なんとなく理解したつもりになることを許さない、マルクスのこの文章の意味を理解したいと思いました。しかし、本当にマルクスの言うことを理解したいのであれば、翻訳本を読んでいるだけではダメだと思ってもいました。

翻訳は当然のことですが、翻訳者が間に入ります。はたして翻訳者が正しく翻訳しているという保証はあるのでしょうか?恐らく、世界中のどこでも、翻訳の比較考証が行われることは稀でしょう。本当に翻訳が正しくなされているかどうかを知ることができる人は、皮肉にも、翻訳を必要としない人でしょう。しかし、本当は、そういう人が、存在する翻訳の是非について議論を展開してほしいものです。

資本論についてではありませんが、日本での著作権が切れた途端に量産されることになった『星の王子さま』の翻訳本を比較検証した、加藤晴久さん著『憂い顔の『星の王子さま』』という本があります。結果、多くの本がまさに王子さまを憂い顔にさせるだけの力をもった翻訳であった、ということが分かります。私はフランス語はほとんど理解できませんが、論理展開からして、加藤さんの書いていらっしゃることが正しいということは推測できます。

加藤さんは「外国語で書かれた本の翻訳を論ずる際の第一の要件として、以下のように書いています。

「文学作品とは限らないが、外国語で書かれた本の翻訳を論ずる際の第一の要件は原書と翻訳書を比較して、まず翻訳の正確さを検証すること、次いで、翻訳が正確であるだけでなく、原文の味わいを、それにふさわしい日本語、いろいろな意味で「よい」日本語として映しているかどうかを検証することである。」

加藤さんは、この本を書くにあたって15冊の翻訳本を全て検討しています。私もほぼ同数の資本論翻訳本を打ち込み、検討しました。私の場合、ひとまずこの点はクリヤーしていると判断しても差し支えなさそうです。

しかし、「翻訳の正確さを検証する」のは、どうすればいいのでしょうか?その外国語の文法や語彙に通じることが必要なのは当たり前として、やはり、そこに書かれている内容を正確に理解して、論理に破綻が無いということを確認できることでしかないでしょう。

私が価値論を誰よりも理解されていると考えている榎原均さんの本もまた、とてつもなく難しく、なかなか理解できませんでした。それが、仕事を辞めて、榎原さんの著作にでてくる文章を、関連する用語毎に抜き書きしていくと、徐々に理解できるようになってきました。その時、私は、結局資本論の内容ではなく、資本論で使用されている、専門用語や論理展開が理解できないではなく、専門用語を形成している語の一つ一つに対する理解や配慮が足りなかったがために理解できないのだと気づいたのです。例えば、「抽象的・人間的労働」という専門用語は、これを丸ごと一気に理解しようとするのではなく、例えば「抽象」という言葉を理解しなくてはなりません。この場合の「抽象」は、日常的に頭脳で行う抽象という作業ではありません。頭のなかにある労働などということになれば、まさに観念論です。そこでヘーゲルの研究者であった許萬元さんなどの著作も読むと、この場合の抽象とは「現実的に行われる抽象」であることが分かってきました。こういう理解の仕方は「抽象的・人間的労働」あるいは「抽象的人間労働」などというセットフレーズにしてはできないのです。

許萬元さんは、既に亡くなったヘーゲル研究家ですが、このようにヘーゲルの理解もまたマルクスの理解においては重要です。マルクスはヘーゲルの弟子に帰ることによって、商品の分析に成功したのです。例えば、ヘーゲルにおいて「抽象」とは、まさにマイナスイメージをもっている言葉です。そのニュアンスをマルクスもまた引き継いでいます。「抽象的・人間的労働」など、本来は存在してはならないのです。

また、村上春樹さんは、『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』の中の「趣味としての翻訳」というエッセーで、「翻訳の本当の面白さは、優れたオーディオ装置がどこまでも自然音を追求するのと同じように、細かな一語一語にいたるまでいかに原文に忠実に訳せるかということに尽きる。たとえばスピーカーに即していえば、聴く人に「ああ、これは素晴らしい音だな」と思わせるのは二級品、まず「ああ、これは素晴らしい音楽だなあ」と思わせるのが、本当に一級品だ。」と、すばらしい比喩を用いて書いています。しかし、「たとえば」の前後の文は、同一の意味になるのでしょうか?前の文は一語一語の忠実性を語っているのですが、その「一語」は、後の文では「音」に当たらないでしょうか?恐らく春樹さんがおっしゃりたいのは、関口存男というドイツ語の大家の言葉にしてみれば「訳というものは、部分的な意味よりは、むしろ文の勢を伝えることが第一義である」となるのでしょうか?全体が部分と響き合い、一つの作品になるようにせよ、ということでしょう。翻訳者は優れたスピーカー、ないしはオーディオ装置であるべきで、音楽を鳴らす際にスピーカーなり装置の存在を意識させてはならない、ということでしょう。

資本論を理解するのに、全ての人がドイツ語やヘーゲルをマスターしなくてはならない、などと言うつもりは全くありません。私はそれまでに何十年と何らかの形で資本論に直接・間接に関係する本を読みましたし、直接資本論に関わった時間で言えば何年も他の仕事をせずに費やしてきました。そんなアホなことができる人はもう必要ありませんし、今のご時世、なかなかできません。そしてそのアホは、可能であれば、私は上記のようなことを踏まえた翻訳者・解説者となりたいと思っています。みなさんが信頼して読んで頂けるような本を出したい。そして資本論を「ああ、これは素晴らしい論理展開だなあ」と思ってもらえるような翻訳書を出したいと思っています。

現在のところ、翻訳の方は来年中に一応の翻訳を終え、読み直しや追加原稿などを書き、表紙作りをして、再来年の中頃に出版する予定です。その後、その翻訳を使って、一年後に解説本を出版したいと思っています。後3年程度は、このアホなことに時間を捧げます(私にとっては至福の時間ですが)。

私は、その解説本では、宮沢さんのこの本を出来る限り引用したいと思っています。彼が脚本家であるが故に、今まで「経済学者」が目をつけなかった、あるいは、目を付けられなかった箇所に目を付け、それを取り上げているという素晴らしい面が存在する、とはこれまでも書いてきましたが、極端なことを言えば、大方の経済学者よりも、宮沢さんは商品論の本質に迫っていました。思えば、マルクスはシェイクスピアが大好きでした。そういう演劇面というのは、ひょっとしたら資本論の商品章の部分に何らかの影響を与えているのかもしれません。ただ、宮沢さんは理解をする上で、人間の思考という枠に収まって理解しようとしたので、「理解できていない」と思えたのだと思います。そういうプラス面も、また、正直にお書きになられている理解できなかった面についても参考にさせてもらいながら書いていきたいと思っています。

さて、宮沢さんの追悼として始めた連載ですが、これにて終了します。第十五回までとはいえ、この『資本論も読む』に関してここまで時間をかけて文を連ねたものは日本中捜しても他にないと自己満足をして(誰も捜さないと思うけど)、追悼の弁とさせていただきます。

 

宮沢さん、ありがとうございました。今後も『資本論も読む』を私は読みます。


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宮沢章夫さんを悼む(17) ——『資本論も読む』を読む 第十四回—— 

2022-11-27 18:00:36 | マルクス・ヘーゲル

第十四回のタイトルは「ともかくもようやく「貨幣」の登場である」です。

商品論はとにもかくにも貨幣の登場をもって終了するわけですが、貨幣もまた商品です(あるいは商品でした)。マルクスはそのことをまず商品論で書きたかったのです。もし貨幣が重要なら、貨幣はすでに存在しているわけですから、価値形態なんてものを書かずに、古典派と同じ様に、いきなり貨幣を登場させて、その後、資本への変転を書けば良いのです。どうしてここまでマルクスが貨幣をなかなか登場させず、延々引っ張って最後に貨幣を登場させたかというと、貨幣は本質的には商品であり、労働が結晶化しているものである、と言いたかったのだと思います。

何が言いたいのかと言うと、ここで宮沢さんが貨幣と排除について書かれているのは、柄谷さんに引きずられているのかもしれないので、気をつけてほしいということのなのです。宮沢さんが引用している「ある商品が一般的等価形態(形態III)にあるのは、ただ、それが他のすべての商品によって等価物として排除されるからであり、また排除されるかぎりでのことである。」(岡崎訳 p.130)の主語が「ある商品」となっている通り、まず排除されるのは、一商品であり、貨幣ではありません。この一商品が、貨幣としての機能を果たすに相応しい性質をもっている商品に特化されて、貨幣となります。この過程は次の「交換過程」論で述べられます。そして、榎原均さんが指摘されている通り、実はこの排除はうまくいかないはずです。つまり論理的には一般的等価形態になりうる商品は論理的には何でも良いのであって、論理的に金が排除されるわけではありません。ここが実は初版と現行版との違いであり、初版には貨幣形態は論じられませんで、貨幣の登場は交換過程論になります。この辺りはかなり専門的に書かないといけないことなので、ブログの性質からはみ出しますので、ここまでにしておいきますが、一つだけ書いておくと、我々はこのように論理的ではない商品世界に巻き込まれている、ということです。

この回はまったくおふざけ無しに延々資本論の内容が書かれています(それがちょっと淋しいところでもあります)。付録の注においても、資本論の引用が続きます。例えば、

「商品形態は、人間じしんの労働の社会的性格を、労働諸生産物そのものの対象的性格として・これらの物の社会的な自然属性として・人間の眼に反映させ、したがってまた、総労働にたいする生産者たちの社会的関係を、彼らの外部に実存する諸対象の社会的な一関係として人間の限に反映させるということ、これである」

残念ながら宮沢さんはこの文章に対して「日本語かよこれという気もし、それにしたってなにを言っているのだおまえはと思う」と書かれていますが、これはまさに商品論の結語なのです。これをノートしているらしいのですが、気がついていらっしゃったわけですね、その重要性を。

ただ、大切なのは、この「反映」という言葉を取り違えないことです。反映しているというのは、そう脳裡に映しだしている・そう見せかけているという意味ではありません。現実的に反映しているのです。つまり、これが現実で、その現実の後ろに人間の社会的関係が存在しているのではありません。我々は商品の社会関係しか、経済的関係は築いていないのです。それは人間の外部に存在するもので、人間の内部に存在するものではないのです。それが自然的な属性として私たちには存在しているのです。

多くの人たちは、この反映という言葉を、あたかも商品社会の裏には、本来の人間の社会関係があり、それが商品で表示、反映されているので、物象化が起こっていると思っていますが、そうではありません。商品世界の後ろに本来あるべき人間関係なんて存在していません。そういう人間関係を想定することこそ、観念論です。現実は厳しいのです。我々の社会的人間関係は、商品の交換関係でしかないのです。

アー、厳しい。でもだからこそ、商品論は読む価値があるのです。だから商品や貨幣を「アレ」することが必要なのです。

ということで、次回がこのブログで宮沢さんの追悼として始めた『資本論も読む』を読むのは最後になります。


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