B.T.T.B 2nd -Back To The Basic 2nd-

マルクスとヘーゲルの思想・日常生活で感じたことを、エッセイ風に

宮沢章夫さんを悼む(7) ——『資本論も読む』を読む 第四回—— 

2022-10-17 17:34:08 | マルクス・ヘーゲル

前回、第三回の文章は、投稿時のものから改訂しました。話が重複しておりましたので、簡潔にしました。

さて、第四回のタイトルは『むさぼり食う主人は「商品」は作らない』です。

これはどういう意味かというと、店の主人が自分で作った料理を食べてしまえば、それは商品ではない、ということです。

その通りですね。それは結局、自分へのまかない料理であって、他人に提供し、お金と交換されるものではないので、それは商品ではありません。

ただ、「店の主人」はその際には「店の主人」ではなくなっているので、この文章はおかしいのです。自分の作った料理を食べる人は、すでに店舗という、社会性をもったものと関係していません。単に自分のために料理を作った人です。つまり、消費者です。

宮沢さんはここでは、「商品はもっと異なるもの、たとえば、「メディア」のように感じ」、「外に開かれて」いるものだとしています。その意味で、自分が食べるために作ったものは「外に開かれて」いませんので、商品ではありません。しかし、商品を「外に開かれている」とだけ把握したのでは、商品の本質は掴めなくなると思います。生産物が商品となるには、「交換」がなくてはなりません。そして「交換」は、あくまでも労働者(あるいは、マルクスが言う「資本家」)がするものであり、消費者ではありません。

また、「「ちゃっちゃと料理を作って食べる人」はたしかにマメで働き物だが、「商品を作る人」ほどには、積極的ではない」という表現の方もおかしいと思います。私はどちらかと言うと、「ちゃっちゃと料理を作って食べる人」なので(今日も次の予定までに45分あったので、ビーフカレーを作ってしまいました)、この文を読んで、ちょっとムッとしたのですが、本当にそうなのでしょうか?たしか村上春樹さんもこの「ちゃっちゃ」派です。彼はかつてレストランを経営していたこともあり、自分で料理を「ちゃっちゃ」作って食べるようです。村上春樹が「積極的ではない」?

以下、宮沢さんはなんとか面白い話にしようとして奮闘しているということは充分に分かった上で書いています。私は回りから「ふざけすぎ」とよく言われます。

宮沢さんがここで忘れているのは、人は「関係」によって立場や役割が変化するということです。「ちゃっちゃと料理を作って食べる人」も、その料理の材料を買いにスーパーや市場に出かけていますし、そこで食材を手に入れるにはお金が必要で、そのお金はやはり労働をして手に入れているでしょう(例えそれが、例えば親の財産であっても、その親はかつて労働して手に入れているはずです、などなど)。よって、「ちゃっちゃと料理を作って食べる人」が消極的なのは、単に外食をしないという意味でそうであるだけです(しかし、自分で料理を作るのは消極的なのでしょうか?私などは外食する方が消極的だと思うのですけど。料理をするには、食材の調達、料理そのもの、そして片づけと、労力も時間もかかります。時に面倒くさくなります。その点、外食であれば、お金だけ持って店に行き注文するだけで食することができるわけですから、楽ですよね。もちろん、宮沢さんの言っている「積極的」「消極的」というのとは異なりますが)。

私は、NHKの番組で、「ピタゴラ・スイッチ」や「0655」、「2355」などが大好きで、よくビデオに撮って観ています。これらの番組を作っているのが「ユーフラテス」というグループですが、そこに絡んでいるのが佐藤雅彦という人です。彼のディレクションで、「"これも自分と認めざるをえない"展」というのが、安藤忠雄さんがデザインした21_21 DESIGN SIGHTという美術館で2010年に行われました。これは面白い展覧会でした。どれだけの規定で「自分」と認識されるのか、人間の表面に表れていて、自分以外に同じものを持っている人がいない「紋」には、指紋以外にもある(「耳紋」というらしい)、などなど、アイデンティティを示すものについて、体験型で観賞する展覧会でした。これは、ある種「絶対的にアイデンティティを保証するもの」を示すものでした。

その後、おそらく「2355」だったと思いますが、「ぼくのお父さん」という歌が放映されたのを見ました。それは、家ではお父さんなのですが、会社に行けば社員になり、電車に乗れば乗客になる等々、シチュエーションによって立場・役割が異なるということを、軽妙に伝える歌です。私は深く頷きました。

実は「"これも自分と認めざるをえない"展」も、絶対的アイデンティティを示すものではなく、相対的にアイデンティティを示すものです。なぜか?例えば、自分の耳紋も、あくまで他人と比較して異なるということを前提しているからです。そう考えると、ピタゴラ装置も、定規やセロハンテープなどが登場しますが、あの場では、長さを測ったり、物を止めたりする機能ではなく、あくまで玉を移動させる経路として存在しているということでは、ボールとの関係によっては文房具も機能が異なっている、ということを示しているわけです。

もちろんマルクスは、消費者について考えているのではなく、あくまで「価値」という社会的なものについて考えたわけですから、消費者については、使用価値の使用者くらいの記述しておらず、宮沢さんがここで消費者について考えてしまったのは、ちょっと行き過ぎではなかったかと思います(もちろん、後半のギャグっぽいシーンを書こうと思ってムリしたのかと思います)。

大切なのは、関係によって規定される役割というのは、意外に認識しづらいということを明確にしておくことです。「…のくせに」などという言葉は、結局この関係が異なっているのに、それに気づいていないで、出てくる言葉です。もちろんマルクスの読解においてもそうです。

次回、第五回は『誰も「クイズ王」とは呼ばれたくない』です。ここはあまり資本論そのものの内容には触れていません。むしろ「入門書」と呼ばれる一連の書籍に対する感想を述べておられます。ですから、私も「入門書」についての感想を書きます。では、また。

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 宮沢章夫さんを悼む(6) —... | トップ | 宮沢章夫さんを悼む(8) —... »

マルクス・ヘーゲル」カテゴリの最新記事