ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

旅日記は、今日でお仕舞い

2021.09.26 
9月23日、旅の終わり日。
前日の午後からの、薬師寺、唐招提寺のことをまだ報告していなかった。

近鉄西ノ京駅に下りた頃から、雨粒が落ちて来て、折りたたみ傘を用意している、心配ない、と歩き出して間もなく、小さな傘からはみ出る土砂降りになった。
昨日の東大寺、興福寺の写真に人の姿が写っていないのは、そのチャンスを狙ったのではなく、人がほとんど歩いていなかった。鹿の数が、数倍多かった。
自分は暦で動いていないので気づかなかったが、22日は平日、薬師寺の受付所には雨宿りの観光客で、それなりの人影があった。
雨宿りに来たわけではないので、数分待って、境内に向かって歩き出した。
最初の建物の中で5分ほど見物休憩し、止みそうもないので、また外に出た。

そのとき、一人の、たぶん妙齢の、傘も差さずに駆けていたのでまだ若い40前後の、雨に濡れて息苦しかったのだろうマスクを外して、衣服をずぶ濡れにして、自分の傘の中に助けを求めて、いや建物の内に向かって、走り込んで来た。
着ていたのは半袖の薄手の夏衣装、濡れて内着の形が透けて見えたのはやむを得ない。
驚きの光景だった。
慌てて脇を空けて除けてやると、無言で通り過ぎる時に、声にはならぬ声を出していたように思う。
あれは休憩所で一服もままならぬだろう、電車に乗ることもできない、自家用車で来ていたのか、気になる、当然、このような場合には天女と形容するしかない女の子? だった。

薬師寺については、著名な作家の随筆、瞑想、感想文がある。そちらを読んで下さい。
自分は薬師寺を訪れて、新鮮な文を発見した。
薬師のご真言は、オンコロコロセンダリマトウギソワカ というらしい。
小説中の病妻恵知エシルに、上の呪文を唱えさせる、場面を加筆した。


唐招提寺に向かう途中から、左足裏に豆ができたようで、歩きづらかったが、いつものことなので、そのまま歩く。

唐招提寺は、吉備真備らとともに渡日した鑑真和上、小説中にも和上は数行であるが記載される。
そのために、往時を偲ぶために、訪ねて来たのである。
菩提墓の入り口に、和上の故郷の木を偲んだというケイ花が植えられていた。
入滅した当時にも、おそらく植えられていただろうと思うと、人の想いというものは絶えることはないものだと、知れる。





9月23日 平城京跡に向かう。この日は晴れ。
バス路線図で、北側から入場しようとして、奈良駅西口乗り場の便に乗ると、近鉄奈良駅を通って上の方を横に走って行く。
途中に、航空自衛隊前、という場所に立ち寄ったので、新鮮な驚きがあった。
奈良県に航空自衛隊があったのか、という驚き。
自衛隊奈良基地幹部学校であるらしい。飛行場はなさそうだった。

今回の旅の終着点にした、それにふさわしく、ここの情景が1200年前を想うには、もっとも適していた。
上屋の無い城跡もそうだが、遺構物のみの嘗ての宮城というものは、胸騒がせて、妄想夢想を掻き立ててやまない。
そこにほぼ正しい姿なのであろう、西方門、朱雀門、がぽつんと建てられて浮かんでいる。
辺りは荒涼とした草原、西遠くに生駒の山並み・葛木連山、東遠くにも春日の山並み・三輪連山と続いている。

願わくば、空からこの景観を眺めたい。
その思いで、朱雀門の外広場(本当はこちらから入る)の一角に、遣唐使船が浮かんでいた。
井上靖の『天平の甍』には、長さ15丈、幅1丈、それに約100名が乗り込んでいたとある。同時に四艘の船が出港、どれか一艘でも唐土に着けばよい、の命懸けであった。
ほぼそれと同じ大きさの船であるのに、感嘆した。
これに乗って、鑑真は渡日、空海も吉備真備も唐土を往復したのかと思うと、興味は尽きない。


明日からは小説創作に専念するために、また再び、しばらくは時々のブログ更新となります。
旅日記、読んでいただきありがとうございました。