おはようございます、わたしです。
10月になりました。やっと朝晩の気温も秋っぽくなりましたね。
去年以前はこの時期でも割と暑かった気がします。
まぁ日中は普通に暑いですがね。10月でクールビズ期間が終わったのが本当に恨めしい…
これから先、時期を伸ばすべきだと思うんですがね
さて、ちゃっちゃか今日の神社は行きましょうか。
式内小社 二村神社
鎮座地:兵庫県丹波篠山市見内
御祭神:二村大神
旧社格:国幣小社(延喜式)→村社(明治)
御朱印:不明
というわけで今回は丹波篠山市の二村神社を紹介していこうと思います。
一時期ネットのチャットでのやり取りで神社の資料として写真だけ上げてたので、それの清書版ですね。
『延喜式』神名帳においては丹波国多紀郡鎮座として記載されている式内社です。
丹波国はその大部分が現在の京都府に属していますが、
ごく一部、丹波市や丹波篠山市だけ兵庫県となっています。
兵庫県は摂津、播磨、丹波、但馬とかつての令制国において広い範囲を内包しているので、
県内でも県民性、地方性が違うというのは有名ですね
いいですね。幼少期から神社という存在を意識する環境にあるというのは。
ちなみ写真は社務所ですが普段は無人のようです。
そして見てわかる通りお供えされている榊がきれいです。
世話人さんがおられるんでしょうか。境内もきれいに保たれていました。
多分参道の入り口に作ると車は入れないんでしょうね。
扁額には「正一位 二村神社」と刻まれています。
天平勝宝二年(750年)に正一位に叙され、鳥居の扁額を「三蹟」の一人で小野篁の孫である小野道風さんが奉納したそうです。
しかし、皆さんご存知の通り「正一位」は神階においてほぼ最高位で、
この別枠は「一品、二品」と数えられる「品位」や伊勢の神宮や日前・国懸神宮が「位階なし」と示された状態くらいです。
そして、基本的に神階を叙された神社は名神大社に列していることが多いのですが、
この神社は大社でさえなく、小社として記載されています。
ここが割と謎なんですよね…ただ正一位がついてることで有名な稲荷神社も"従三位"が最初に叙された神階で、
後世に徐々に位が上がって正一位になりました。
なので後世に叙された可能性はあります。
あと扁額に関してもあの小野道風の奉納ですが、
明らかなる楷書体なので、過去には奉納されたものを使っていたんでしょうね
氏子さんたちが上がれるような仕様になってますね。
この時は気づかなかったんですが、本殿の両側が壁で遮られているんですが、
これも何か意味があるんでしょうか。
まぁ横風避けとかかもしれませんが。
そんでかの二村神社ですが実は伊弉諾命さまに関連した伝承が残ってます。
なんでも伊弉諾命さま伊弉冉命さまが天から降りてこられる際に、どんな土地かを調べるために剣を落とします。
そのあとにニワトリに「落とした剣が刺さってなければ鳴き、刺さっていれば鳴くな」と命じて地上に降ろします
結果、ニワトリが鳴いたことから剣が刺さらないくらい堅い土地で、住むことができると判断して地上に降りたそうです。
その由来からこの地域は「神内村」と呼ばれていたそうです。
という感じで二村神社の紹介は終わ…るのかと思えばこの神社は実は変わった歴史がありまして
二村神社 分社伝説
前述したのが地図上の左下にある見内二村神社で、
残り三社の本宮となります
そしてこの二村神社の氏子地域は今田町の小野原から丹南町の古市、真南条、味間、大山、西紀町の南河内、北河内という広範囲にあり、
一部現在の分社たちの地名と被るので、おそらく現在の分社たちのある地域すべてが相当していたのだと思われます
地図では分かりにくいかもしれませんが、各神社まで車で10分はかかるのでかなり広範囲です
その中で古来二村神社の祭礼には年毎に各地区の氏子たちが順番に宮座として準備を担当していました。
そうなると遠くの氏子さんたちは通うのが大変なうえ、
祭礼の準備は交代で行っても、祭礼時には鎮座地の神内村の氏子さんが上座にいるのが決まっていたため、
「なんであの地域の氏子だけ決まって上やねん…ワイらが今回の主役やぞ…!?」
みたいな感じで各地の氏子さんで不平不満が溜まります。
そして事件は起こりました。
文明十四年(1482年)の秋祭りのあとの直会で争いになり、
氏子区域のひとつだつた真南条の名主の先導によって二村神社の御神像が持ち去られてしまいます
このあと神内村の氏子さんたちも取り返しに真南条村へ行きますがついぞ取り返すことができませんでした
その際に御神像以外にも各祭具が持ち去られて、それぞれを御身体として創建されたのが残りの分社たちになります。
かなり省いたので具体的な内容はこちらを読んでください
ということでここからは各分社を紹介していこうと思います。
鎮座地:丹波篠山市真南条中
御祭神:《主》伊弉諾命,《配》伊弉冉命
旧社格:村社?(明治)
御朱印:あり
2社目が真南条中の二村神社で、地図上では右下に鎮座しています。
そしてこの地区の氏子さんが二村神社分裂事件を起こしています。
神社の周りは田んぼに囲まれており、田舎っぽくのどかです。
分裂の際にこの真南条の氏子さんが強行策に出られるくらい強かったのは、
ここが氏子地域の中でも年貢の量や武士が多く力が強かったことが背景にあるそうです。
手水舎は柄杓があって使えるやつになってます。
このたまに見る蜂の巣みたいなやつってなんなんですかね?
どうやら御朱印もあるそうです。
真南条の氏子さんたちは御神像を持ち出したあとにこの山間に御神像を納めて祀っており、
争いが落ち着いて平和になったときに、
「いつまでも山ん中に祀っておくわけにもいかんやろ。そろそろお社作ろうや」
ということで建てられました。
元亀四年(1573年)完成らしいので、争いはかなり続いたようですね…
室町時代にできたので流造の方が時代にあってたのかもしれませんね。
超至近距離で
拝殿前には別の獅子狛犬さんがおりましたので、もしかしたら先代でしょうか?
どんな由緒があるんでしょう。
なせかここだけちょっと立派になってます。
伝承の通りなら二村神社に元々あった御新造は現状こちらに安置されていることになるわけですが、
今も同じようにあるのでしょうか。それとも返された?
さて、そんでは3社目です。
鎮座地:丹波篠山市西吹
御祭神:《主》伊弉諾命,《配》伊弉冉命
旧社格:村社?(明治)
御朱印:不明
名前の通り西吹の二村神社は地図上の右上にあり、一番丹波篠山市街に近い神社です。
地図では鎮座地はわかっても表参道が分かりにくかったのが困りましたね。
表参道は境内東側にある公民館の横に延びており、
一番山っぽいところに鎮座しています。
朱塗の鳥居なのでお稲荷さんなのかなと思ってたんですが、
なぜかこの末社だけ社名がないのでよくわかりません。
手水舎は…多分これ鳥避けですかね。
こちらが拝殿ですね。いい感じにシンメトリーが保たれた写真になりました。
本殿は一間社流造で、真南条と同じものになってますね。
社殿内の由緒書きです。
御祭礼の内容が流鏑馬と獅子舞になってますが、
先程の真南条の伝承によるとこの西吹には見内から持ち出された馬具を御神体としたそうです。
その派生で流鏑馬が行われているのかもしれません。
…祭具で馬具ってのは本宮でも流鏑馬やってただけとかでしょうか。
というか、この西吹どこで流鏑馬やるんでしょう…明らかな山なんですけど。
そこすごい気になる
私気になります!!!
社殿の両側には恵比寿さんと天神さん、
そして由緒書きによればあと山の神さまが祀られてそうなんですが、
そうなれば参道横にあった朱塗の末社が該当しそうです。
しかし、この境内横にあった屋根に囲まれた切り株…
先程の2社が平地の開けた場所に鎮座していたのでまた違った雰囲気でしたね。
まず蚊が多かったです
さて、次がラストです。
鎮座地:丹波篠山市味間奥
御祭神:《主》伊弉諾命《配》伊弉冉命 他17柱
旧社格:村社?(明治)
御朱印:不明
4社目の二村神社で、地図では左上に鎮座しています。
ここの扁額は「正一位 二村大明神」と草書体で書かれています。
こちらの方が本宮の伝承にあった小野道風さんの扁額ぽいですよね。
もしかしたら本家リスペクトかもしれません。
そのまま一の鳥居をくぐって1kmくらい車走らせると大きな山門が見えてきます。
その裏手に駐車場があるので車をオススメします
二村神社の祭礼が10月の1週ズレでお祭りが行われています。
先程の西吹はやまの裾にありましたが、
こちらは深い森のそばにあるためか、看板のように森の自生植物といってあんま見かけない草花があるようです。
たしかに葵とか加茂系の神社では祭礼とかでよく見ますけどちゃんと生えてんのは見たことないですね。
こちらの随身門はまた山門とは別にあります。
山門は隣にある文保寺の建築物だと思うので写真には撮ってませんが、
ものすごく立派な楼門です。ぜひ行って見てくださいな
手水舎は使ってないようです。ここも真南条の末社にあったように三房の注連縄のようなものがあります。
こちらの本殿は先程の真南条、西吹と違って春日造で、本宮の見内の二村神社と同じ様式になっています。
ただこちらは千木、鰹木がたくさんあって豪勢です。
こちらの由緒でも二村神社の分社伝承が書かれていますが、
先程の真南条と違ってこの場所に御神像が納められたと書かれていますね。
もしかしたら御神像の安置場所に関しては各分社ごとに主張があるのかもしれませんね
たしかに中には今でもめっちゃ古そうな神輿が安置されてました。
でもたしかに、神輿に御神像乗せて運んできたというのは違和感がありません。
真南条の伝承は抱えて逃げ帰ったらしいですし。
特別視されてるってことなんでしょうか…
うん、悪い気はしない。
という感じで4社まとめて紹介したわけなんですが、
今回面白い発見がありました
私がよく追っている式内社は、明治の式内社調査で所在不明になっていたりして、候補の神社が式内社の社名に変更して複数になったり、
もともと神社同士で論争になっていたりする例があります。
しかしこの二村神社は複数あるのにその分社側が"式内社としての二村神社"を主張せず、
あくまで分社の身であるという姿勢を崩していません。
歴史的には氏子たちによって分裂する悲しい結果にはなりましたが、
その後も本宮である見内の二村神社への崇敬は忘れなかった、ということでしょうか
あ と が き
という感じでいかがだったでしょうか。
式内社の中にはその地域で崇敬が高く、近隣に複数分社することはよくありますが、
まさかの争いで分社することになった例があるなんて…
また一つ勉強になりました。面白えな丹波国。
という感じで今回は筆を置きたいと思います。
次回は…また考えときます。
みなさん、緊急事態宣言解除されましたがハメを外しすぎないように気をつけてくださいね
それでは
よかったらクリックしてくださいな