↑のつづき。


さて、勝占町を後にし、
バス停を求めて40分ほど歩いただろうか。

この日最後の舞台は小松島市。

偶然、近くに式内社が鎮座しているのを
発見したのである。

鳥居を発見。

扁額には『建島神社』の文字。





境内に到着。

小高い場所にあることから、
海が入りくんでいた古代には
島だったのだろうか。

社名の『建島』がそれを物語っている。




拝殿。

延喜式内社
『建嶋女祖命神社』

鎮座地 徳島県小松島市中田町広見
創建 不詳
別称 建嶋大明神 竹島大明神
祭神 建嶋女祖命(たつしまめおやのみこと)
合祀 応神天皇

社殿裏の中田山は古墳であり、
勾玉や刀剣、鏡、玉等が出土している。


由緒書き↓
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
祭神は「タツシマメオヤノミコト」で
氏子は「タツシマハン」と呼んでいる。

また、諸誌によると883年従5位上の
埴生女屋神」とあり、
建島女祖命下照姫」を祭るとある。

また、下照姫は「建御名方神の
諏訪の神であるといわれ、
これから「建島」と呼ばれると言われる。

建島神社の歴史は古くからあり、
諸説の中で伝えられ今日に至っている。

諸誌の伝えるところによると、
建島女祖命神社はこの地の
開拓神として祭られたのであろう。

建島女祖命を主神とし、
応神天皇を合祀された。
また、「埴安比売命」とし、
飛び地開拓の神としている。

また、「建島埴生女屋神」としている。
また、「建島女祖命下照姫」とし、
また、「沖津比女命」、
または女祖神として
伊邪那美命」を祭るとある。

また、中田西八幡神社を合祀したものとある。
創立年代は不詳であるが、
三代実録元慶7年12月28日(883年)に
従五位「埴生女屋神」に
従五位上を授けるとある。

祭祀は  例祭 10月10日
     夏祭  7月10日

建島女祖命神社は、
細川家から神地を寄進され、
また、その後の
藩主の信仰あつく寄進があった。

延喜式小社で、全国で一社である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

由緒書きには多くの女神が書かれ、
結局どなたなのか…ということなのだが。。


建島女祖下照姫命』と呼ばれ、
建御名方神のとされる。
阿波には諏訪大社の元宮と云われる
多礽御奈刀弥神社があり、
また、神話では
下照姫阿遅鉏高日子根神
妹神としても登場する。

諏訪大社の元宮↓
出雲系の神が多く祀られている。

勝浦郡の式内社には、
勝占神社(大己貴命事代主命 他)
事代主神社(生夷神社)
御県神社(御縣神社(大己貴命・事代主命))
建嶋女祖命神社(建島女祖下照姫命)

さらには勝浦郡より南、
那賀郡の式内社にも、
八鉾神社(大己貴命)や、
建比売神社(古烏神社)などが鎮座する。

江戸時代に徳島藩が編纂した
阿波国の地誌『阿波志』には、
建比売命下照姫命(高姫命)、
または埴安比売命(建島女祖神)と
記載されているのである。



また、
埴安比売命(ハニヤスヒメ)』と言えば、
同名の人物の存在も気になるところだ。

それが、
第8代 孝元天皇の后
埴安媛(波邇夜須毘売)(ハニヤスヒメ)』である。

河内青玉繋(カフチノアオタマカケ)の娘
埴安媛と孝元天皇の間に生まれた皇子が
建波邇安王』。


山背(ヤマシロ)国に住む建波邇安王は、
妻の吾田媛(あたひめ)とともに
謀反を企てる。

建波邇安王山背(山代)から、
吾田媛大坂からそれぞれ都を襲おうしたが
いずれも官軍に敗れて亡くなってしまう。

阿波古代史のバイブル
『道は阿波より始まる』より引用↓
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
山代国といえば現代の人は勿論、
本居宣長さえも京都山城国
思い違いをしたのでしょうが、
とんでもない話で、
山城国風土記をいくら読んでも
こんなことは書かれていないはずで、
分かるわけがないでしょう。

阿波国風土記の伝承を知る
阿波人以外は無理な話です。

-中略-

ここでいう山代山背と同一語で、
山のうしろの意味。

つるぎ山系の「うしろ」の地方
(この「うしろ」も元々は阿波弁) 
即ちつるぎ山系より東方に流れる谷川、
また大河となりて長川(現 那賀川)と呼ばれます。

この長川の河口、石門より牛岐となり
橘湾に面します。

この現在の富岡と称せられる所の
古地名が伊豆美(いづみ)、
島根郷伊豆美が古地名。

この地方より海人族の大根拠地。

この地の王が建波邇安王

波邇夜須毘売と孝元天皇の御子で、
建嶋女祖神社で祀られる母君の一人子。

現在の小松島市より以南を支配下に治め、
当然天皇を名乗るだけの力量の持主。

皇統をかけた両者の死闘の戦が
ここに記された物語です。

勝占川の全線も破れ、
長川の最後の一線も敗れ、
悲運の王子建波邇安王は戦死、
式内社 和耶(わや)神社(目佐穴権現)で
祀られたのは恐らくこの人でしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
引用終わり。


※延喜式内社阿波国那賀郡「和耶神社」は、
現在、徳島県阿南市羽ノ浦町に鎮座する
羽浦神社に合祀されている。

わや」の意味は阿波弁の
「わやになる(だいなし、元も子もなくなる)
なのだそうな。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~
建波邇安王山背(山代)から、
吾田媛大坂からそれぞれ都を襲った。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~

事実、
阿波国が『粟国』と『長国』に
分かれていた時代、
南方『長国』の八郡の内のひとつに
山代郡』が存在した。

建嶋女祖命神社から約15㎞南下すると、
那賀川河口付近である。

山代長川(現 那賀川)河口付近」と
説明されており、
建波邇安王は、
現在の小松島市より以南を支配した
という記述とも辻褄があう。

また、
吾田媛大坂から攻めた」とは、
現在の東かがわ県『大坂峠』のことであり、
南下していくと『奈良坂』がある。

奈良坂の付近には
四道将軍らに指令を出して反乱を止めた、
第10代崇神天皇の母君を祀る
式内社『伊加々志神社』が鎮座する。

さらに、
板野(いたの)郡の地名の由来は
吾田(あた)』と云われ、
建波邇安王の妻吾田媛を思わせる地名である。

地図上でまとめると↓

もはや ぐうの音も出ないほどの
地名や史跡が点在しているのである。
まだまだありますが、一旦ここまで



ここにもあった
阿波特有の五角形『地神塚』。


上から見るとちゃんと五角形。



『地神塚』または『地神塔』には
農業五神が彫られている。

埴安媛命 
倉稲魂命 
大己貴命 
天照大神 
少彦名命

徳島県では『じじんさん』と呼ばれる。

地神塚の分布は、徳島県はもとより、
香川県の東讃地方や岡山県、
そして江戸時代まで徳島藩に属していた
淡路島などに多いのだそうな。

淡路島と言えば、
式内社名神大社にして
淡路国一宮『伊弉諾(イザナギ)神宮』。

つまり、元々は
式内社のイザナミ神社
式内社のイザナギ神社
徳島藩にしか存在しなかったのである。

また、
敬愛するすえドンさんのフォト日記 によると↓


島根県の奥出雲町や雲南市、
松江市の忌部神社周辺、
京都府の丹後半島や京丹後市峰山町
などにも見られるとのこと。

「出雲」と「丹後」に共通しているのは
天女伝説』❗


天女『トヨウケ』つまり、

オオゲツヒメ』を祭祀した
一族の移住が考えられる。



また、
滋賀県高島市新旭町饗庭に鎮座する
『波爾布(はにふ)神社』。
創祀年代不詳。
祭神は波爾山比賣命(ハニヤマヒメ) と
彌都波能賣神(ミツハノメ)。

もはや有名な話ではあるが、
口碑によると、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
往古より彌都波能賣神を祀っていたが
天平13年(741年)に
阿波国勝浦郡 建島女祖命神社より
波爾山比賣命を勧請したと伝えられている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

と、いうことは少なくとも
西暦741年の時点では
この建島女祖命神社のご祭神は
波爾山比賣命だったということ。

建島女祖命神社から勧請する以前は、
元々は彌都波能賣神一柱のみだったようだ。

ちなみに、
彌都波能賣神の名を冠する式内社には、
阿波国美馬郡の『弥都波能売神社』が、

波爾山比賣命の名を冠する式内社も
阿波国美馬郡の『波爾移麻比禰神社』が
存在するのみである。

そのどちらも現在の美馬市にあり、
二柱を生んだイザナミもまた、
式内社『伊射奈美神社』として
全国唯一、美馬市に鎮座している。




謎多き女神を祀る建嶋女祖命神社。

一日目のラストを飾るにふさわしい
素晴らしい神社でした。



怒涛の徳島初日は天候にも恵まれ、
良いスタートダッシュを切ることが出来た。


一日目の神社参拝記録↓

① 宅宮神社 
② 朝宮神社 
③ 王子神社 
④ 徳島駅に戻って仕事。
⑥ 立岩神社 
⑦ 勝占神社 
⑧ 建嶋女祖命神社
参拝日2023/12/20

さてさて、
その翌日は、
さらにあり得ないワクワクが待っていた。


阿波徳島は最高ですよ皆さん❗


つづく。

ではまた❗




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