↑のつづき。

さて、吉野川を西へ西へと進んで
ついに河幅が最も狭くなる『岩津』まで
やってきた。

この『岩津』を境に、
方言から古墳まで、
文化圏がガラッと変わるのだそうな。

岩津』よりさらに西には、
ソラ』と呼ばれる
神々が住んでいた土地が在ると思うと、
ワクワクが止まらない。



しかし、この日は時間が無かった為、
この『岩津』を折り返し地点に定めた。


前回の杵築神社から車で数分。

吉野川に架かる岩津橋を渡って、
吉野川市から阿波市に戻ってきた。

橋を渡ってすぐに
見つけることが出来たのが↓
史跡『岩津渡し跡』の碑。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
撫養・伊予街道と接し、
阿波と讃岐を結ぶ交通の要所として
人や物資の往来が多い渡しであった。

渡しの始期 江戸時代(推定)
渡しの終期 昭和三十三年(1958年)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
岩津の渡し船は、
阿波町岩津と吉野川市舟戸を
結ぶだけでなく、
隣国を連絡する交通の要路でもあった。

藩政期には税を徴収しており、
また、交通者の安全とともに、
不審者の監視もおこなっていたのだそうな。
吉野川探索ガイドブック参照


『岩津の石燈籠』。

かつては灯台の役目を担っていた。

吉野川の河幅が一番狭い場所にあり、
監視所の最適地であった。



史跡『杉尾神社大燈籠』の碑。

岩津の石燈籠は、現在跡地となっている
杉尾神社の境内にあったのだろうか。

狛犬と鳥居は吉野川を向いている。

つまり、吉野川側から神社に入る
造りになっていた。


吉野川側から見た元杉尾神社の鳥居。

そして、鳥居の左側の石碑が
今回の目的である。



『鯰の歌碑』

鎮座地 徳島県阿波市阿波町乙岩津
創建 1862年
作者 岩雲花香(いわくもの はなか)

ハングル文字に似た古代文字
『阿比留文字』でこう彫られている↓
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
昔から岩津の渕の底に大鯰が棲むと
聞くがまだ見たことがないので、
どうか一度、波間にその
巨大な姿を現してほしい
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
これは一種の比喩表現である。


阿波市観光協会HP引用↓
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
郷土の先哲、
忠君愛国の歌人岩雲花香翁が
孝明天皇(1831-1866)に拝謁後、
全国遊説中記念に自作自筆で詩を彫刻させ、
この地に建立しました。
岩津の淵の主であると言われる
大鯰にたとえて
「日頃は目立つことなくとも
 一朝事あるときは社会に貢献できる
 人間になってほしい」
と書かれています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

阿波町岩津生まれの歌人『岩雲花香』。
この方はとても興味深い。

17才の時、母の死を機に全国を周遊し、
江戸の高名な国学者
『平田 篤胤』に弟子入りし、
神代文字『阿比留文字』を研究した。

阿比留文字は、
かつて対馬国を支配した
阿比留(あびる)氏に伝承される文字であり、
阿比留氏発祥の地はなんと、
上総国畔蒜郡(あひるぐん)
現在の千葉県袖ケ浦市付近である。

ここで、阿波忌部が房総半島を開拓し、
安房忌部となって千葉県を北上した
物語と繋がってくるである。



また、
岩雲花香が遺した『やをかの日記』には、
伊豆の国や富士山に登ることを思い立ち
その道中8日間の旅の様子を記されている。

なんと、富士山に登っていた。


また、『岩雲』の名については、
こう書かれている。↓
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
かつて「忌部神社」の神官家は
忌部五雲と呼ばれた。
それは、
早雲・村雲岩雲・花雲・飛雲となる。
忌部氏の主体は、
雲がかかる剣山系の高地性傾斜地集落、
つまりソラの世界に住んでいたので、
」の名前に付けたのであろう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

つまり、
岩雲花香は忌部の神官の家系である。


そして、忌部五た者が
出雲』だったら面白いのになぁ。


説明書きは、消えかかっている。



ナマズと地震

古代史において、
ナマズと言えばタケミカヅチと要石

この岩津から程近い同じ阿波市には、
タケミカヅチを祀る式内社
建布都神社』が鎮座している。

関連していたら、面白い。

茨城県鹿嶋市のHP引用↓
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
鹿島神宮の要石には、
「地震をおこす大鯰の頭を押さえている」
との伝説もあり、江戸時代後期の
安政の大地震(1855年)の後には、
江戸で “ 地震鯰をこらしめる
鹿島様の絵図 「鯰絵」が大流行しています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ナマズと地震を結びつけて伝えたのは、
江戸時代の鹿島神宮の神人とも
言われている。


ナマズ龍神

琵琶湖に浮かぶ竹生島に鎮座する
都久夫須麻神社には、
になり、またはになり
島と神社を守護するのだそうな。

昔話「びわ湖の大なまず」では、
人喰い大蛇から人々を守った大鯰は、
龍神の化身とされている。

昔の人々は、
を近しい存在と認識していた。



と阿蘇

熊本県阿蘇市に総本社をおく
阿蘇神社の氏子は
ナマズを神の使いとして信仰し、
捕獲・食用はタブーとされているのだそうな。


海神の娘

佐賀県嬉野市、
嬉野温泉の中心部に鎮座する
豊玉姫神社』の境内には、
「美肌の神」として
ナマズ様が祀られている。

伝承では、
大昔、嬉野に傷ついた大鯰がおり、
それを豊玉姫が助けたことから
このなまずが豊玉姫のお使いとなり、
人々の肌の病を治したのだそうな。




鯰(ナマズ)鮎(アユ)

ナマズの名の由来は、
ナマ」⇒「滑らかな」、
」が「頭」を意味しており、
「皮膚がすべすべしている大きな頭の魚」
という意味なのだそうな。


中国ではナマズを「」と書くが、
日本では「」を使用し、
」は「アユ」である。

日本でナマズの漢字を造る際、
」はすでにアユとして使われており、
代わりに「」の「ネン」の音から
「念」の字が入った「」となった
という説がある。

と言えば、鮎占いであり、
エビスつまり『事代主』。

を押さえつけるタケミカヅチの構図は、
実は、国譲りの際の
タケミカヅチと事代主
表現しているのかもしれない。


の絵

日本のナマズを題材とした絵画を代表する
室町時代の「図(ひょうねんず)」。

ヌメヌメとした皮膚のナマズ
滑らかなヒョウタンでいかに押さえるか、
という禅問答のテーマを描いた水墨画で、
国宝に指定されている。
この絵を元に、
瓢箪ナマズの組み合わせが
後世にも多大な影響を与えている。


そして、丹後国一宮籠神社の奥宮
真名井神社の別名は、
匏宮(よさのみや)』。

瓢箪のことである。↓
導かれるキーワードは
二つの珠(玉)』。

なぜ、
岩雲花香は国学者から神代文字を学び、
生まれ故郷の主大鯰
阿比留文字で遺したのだろうか。


それが暗号だったのだとしたら。


神話では、
浦島太郎のモデルである山幸彦
海神宮豊玉姫(乙姫)を娶り、
潮干珠潮満珠を貰った。

浦島太郎が乙姫から
玉手箱』を貰ったのなら、
その中見は本当は『二つの玉』が
入っていたのである。

それを隠したくて真実を「煙に巻いた」。



阿比留氏発祥の地『袖ヶ浦』には、
潮干珠潮満珠の伝承があり、

袖ヶ浦の周辺を見ても、

鹿島神宮には地震を起こす
大鯰を封じる要石があり、

香取神宮の創建に関わる側高神
潮干珠潮満珠を使用した伝承がのこり、
香取市の南の旭市には
二玉姫神社』が鎮座し、

さらに南方には
玉依姫が祀られてる
上総国一之宮『玉前神社』。

阿比留氏発祥の地は上総国である。

玉前神社の記事はそのうち書きます


袖ヶ浦に面した
茨城県稲敷市阿波には、
あんばさま総本宮『大杉神社』が鎮座し、

同じく稲敷市には
『月出里(すだち)の地名が残る。

潮の満ち引きには
が関わっているのだ。

この話はその後、
阿波の女神オオゲツヒメと同一と言われる
豊受姫』の天女伝説や、
浦島伝説を色濃く遺す
丹後の国の真名井御前と
弘法大師の話に繋がってくるのだが…


そんな二つの珠のつづきは
また今度にいたしましょう。




鳥居から見た美しい吉野川

数年前からずっと憧れを抱いていただけに
感動はひとしお。

心はうずしお。




ここを出たら、
吉野川を徳島市向けに
東へと下っていく。

現在、徳島市に鎮座する
天石門別豊玉比売神社』と
和多都美豊玉比売神社』。

豊玉姫の名を冠する延喜式内社は、
全国でも阿波徳島だけである。


よし、そろそろ気づきましょう皆さん❗




橋の向こうに見えるのは、
忌部の聖地『種穂山』だろうか。

あの方向には、
イザナミの神陵『高越山』もあるはずだ。

ここは、
「イツモとハハキの境」なのだから。

近くに『岩津八幡神社』があったので
参拝してみた。



拝殿。





境内社『蛭子神社』。





五角形の『地神塚』。


さて、予定通り
折り返し地点から東へと舵を切った。


次の舞台は阿波市『土成町(どなりちょう)』。

土成町には『御所屋敷』という地名がある。

その地は、
土御門上皇が土佐より阿波に移り
嘉禄3年(1227年)より寛喜3年(1231年)
崩御までの行宮所であったと伝えられている。


しかし、
土成町にはさらにさらに古い天皇の
神社が鎮座しているのである。


その神社の存在を初めて知った時、
ワタシが度肝を三回抜かれたことは
言うまでもない。


つづく。


ではまた❗


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