関門海峡を見下ろす高台にある亀山八幡宮。
ここには江戸時代末期に長州藩により亀山砲台が
置かれました。
そして、1863年にはアメリカ・フランス・オランダの艦船との馬関戦争が起きます。
この亀山八幡宮の大鳥居の右側に
「床屋発祥の地碑」があります。
(頭と櫛と剃刀)
床屋発祥の地には、人間の頭をイメージした大きな球形の石と、
その後ろに櫛と日本剃刀をかたどった石が並んでいます。
この石碑の後ろに、由来を書いた案内板がありました。
これがまた読みにくい。。。
【床屋発祥の地由来の文です】
鎌倉時代の中期(1264~73)亀山天皇に仕えていた京都御所の北面の武士従五位ノ下北小路蔵人之頭藤原基晴は 宝刀の紛失事件の責任をとって職を辞し 三男采女之亮政之を連れて宝刀探索のため 当時蒙古襲来で風雲急を告げていた長門国下関に下った
基晴親子は 当時下関で髪結をしていた新羅人からその技術を学び 往来の武士を客として髪結所を開いた 店の床の間には亀山天皇と藤原家の先祖を祭る祭壇があったので下関の人々はいつとはなしに「床の間のある店」転じて「床場」さらに「床屋」という屋号で呼ぶようになった 「床屋」という言葉は下関が発祥地となりその後全国に広まっていった
藤原基晴は弘安元年(1278)に没し市内の専念寺に葬られた 采女之亮は床屋をつづけながら宝刀の探索を続けそのうち豪商の協力により逐に宝刀を捜し出して天皇に奉還した その後鎌倉に移り住み幕府から京都風の髪を結う髪結職として重用され 屋敷も賜り代々その職を受け継いだ
時は流れて元亀3年(1572)17代目の籐七郎の時武田信玄との戦いで敗退中の徳川家康を助けた功績により江戸開府後 江戸八百八町の髪結職の営業権を与えられ また橋見守役や火事の時は奉行所の重要書類搬出などの役目も仰せつかった
特に二代将軍徳川秀忠が「四民髪ヲ結ウハ勝手ノコト身ヲキレイニスルハ長寿ノ元ナリ」というお触れ書を出してから庶民はこぞって髪を結うようになり 男髪結職と女髪結職が急に増え 日本独特の髪型が流行し始めた 江戸時代の風俗文化は髪結職により創り出されたとも言われている 歌舞伎役者の髪型や衣装また浮世絵に見られる美人画の髪型や衣装は 当時の女髪結職の芸術性の豊かさを物語るものである
床屋の開祖 藤原采女之亮政之の功績を讃え かけがえのない史実を後世に伝えるためここに記念碑を建立した
平成7年7月17日
下関理容美容専修学校 理事長・校長 小野孝策 撰
(長文なので簡単に要約します)
亀山天皇に仕えていた京都北面の武士の藤原晴基が、預かっていた九龍丸の宝剱を紛失したために責任をとり辞職し浪人となり、三男の采女亮(うねめのすけ)を伴い下関へ向かいます。
そしてその地で、武士を相手に月代そり髪結業を営みながら蒙古襲来に対し探索を続けた・・と伝えられていて、これが床屋の始まりと言うのです。
しかも、この店には床の間が設えられ、そこには亀山天皇を祀る祭壇と藤原家の掛け軸があったことから、人々は「床の間のある店」と呼び、それが「床場」、さらに「床屋」と呼ぶようになったそうで、これが「床屋」の名称の起源だということです。
その後、采女亮は宝刀を見つけて朝廷に奉還します。そして、鎌倉に移り住み京都風の髪結職として幕府から重用されたそうです。
(采女亮が没した日に碑の除幕式)
采女亮は建武時代の1335年7月17日に没しました。そのため全国の理容・美容業者は、かつて毎月17日を定休日にしたという説があります。
その関係で、この石碑の除幕式は1995年(平成7年)7月17日に除幕式が行われました。
(この周辺は歴史の宝庫)
この亀山八幡宮の近くは、歴史の宝庫です。源平合戦最終章で平家が滅んだ壇ノ浦が
あり、二位尼(平清盛の妻)に抱かれて安徳天皇が入水した場所で近くの赤間神宮には、安徳天皇陵や平家一門の墓があります。また近くの春帆楼は日清戦争の下関条約がむすばれた場所でもあります。
【全国理容生活衛生協同組合連合会の公式HP】
<<床屋発祥の地への行き方>>
床屋発祥の地では、毎年11月に、
下関理容組合、宇部理容組合による毛髪供養祭が
行われています。