超感覚的知覚を超える〈カタカムナノサトリ〉
このような一般的な考察に加えて、楢崎によるならば、カタカムナ人は、われわれにおいてはすでに退化している高度の直感力をもっていた。これによってカタカムナ人は現象背後の“潜象”の作用を共振的に知覚し、それが彼らを「カタカムナノサトリ」とよばれる、われわれの知らない自然認識へと導いた。楢崎はさらに「アメノミナカヌシ」や「クニトコタチ」をはじめ、もろもろの神名、また「サヌキ」「アワ」などの国名は、実は神名や国名などではなくて、カタカムナ人の「物理」の用語から出た名称であるという。また日本語のカタカナ文字も、実はカタカムナ図象が退化し固定化されたものであるというのだ。ところで直感とか潜象といった概念は、カタカムナをある意味で非常に難解なものにしている。
まず以上のような表現によって、カタカムナ人は霊感のようなものが発達していて、それによって超科学的な認識へと到達したという印象を誤解して受け入れる人もいるだろう。もっとも、カタカムナ人がそのような超感覚をもっていたという想定自体は誤りではない。だがいくら五感を超えた超感覚があっても、それ自体では高度な認識は絶対に獲得しえない。このことは、いわゆる超能力者とよばれる人々をすれば充分に明らかなことである。彼らの大部分はペテン師であるが、残りは確かに我々にはない超常的な能力をもっているようである。だが、彼らに共通して見受けられることは、彼らのカタル内容には恣意的な解釈と自己顕示欲がどうしようもないほど入り混じっている。
楢崎はこのような誤解を避けるため、〈直感知性〉という言葉を使っているこれはカタカムナ人が、超感覚的知覚に加えて高度の抽象的思惟力をもっていることを意味する。要するに、カタカムナ人においては、後代の人間とは知覚、思惟、意識の回路そのものがまったく異なっていた、と考えてもらってさしつかえない。楢崎はカタカムナ理解への入り口のひとつとして、「相似象」という言葉を用意している。現代人においては、カタカムナ人のような超感覚によって直接に現象の背後にある潜象と共振する回路は切断されている。だが、そのようなわれわれでも、現象として現われてくる相似性のうちに、その背後の世界の影をほのかに捉えることは可能である。