学校の教科書などにも、その名前が登場する「鑑真(がんじん)」。
この鑑真は、奈良時代の人で、中国の仏教の約束事ともいえる「戒律」を正しく伝えるため、日本へやって来たお坊さんです。
そして、そんな鑑真が建てた「唐招提寺」という古い歴史を持つお寺が、現在でも奈良県に残されています。

この鑑真ですが、実は、日本の歴史を語るうえでは、欠かすことのできない人物でもあるのです。
では、この「鑑真」という人は、一体どんな人だったのか。
小学生にもわかりやすく、その生涯などを年表にまとめて解説していきたいと思います。



鑑真とは、どんな人?小学生にもわかりやすく解説!

鑑真は、奈良時代の人です。
唐(今の中国)の揚州という場所で生まれました。

中国で生まれ、お坊さんとして修行をつむ

鑑真はわずか14歳で出家、つまり、お坊さんとして大雲寺というお寺で生活をすることになります。
その後も、厳しい戒律(かいりつ)を守り、修行を積んだ鑑真は、20歳で長安に入ります。

長安に入った鑑真は、仏教の宗派である「天台宗(てんだいしゅう)」と「律宗(りっしゅう)」を学びます。
そして、鑑真は「律宗」の中でも、取り分け広まった「南山律宗(なんざんりっしゅう)」の後継者となりました。

そもそも「律宗」とは、仏教の教えの中にある「戒律」を広め、研究する宗派です。
「戒律」とは、簡単にいうと、仏教の中において、僧侶などが守らなければいけない約束事のことです。
仏教では、僧侶となるのであれば、この「戒律」を必ず守ることを誓い、それを認めてもらうための儀式を行わなければ、僧侶になることができません。

そして、この儀式を「授戒(じゅかい)」といいます。
当時、唐の国での鑑真は、4万人以上もの人に対してこの授戒を行ったという、ものすごくえらいお坊さんだったのです。

鑑真はなんで日本に行こうと思ったの?

そんな鑑真が、なぜ、日本へやって来ることになったのか。
それは、当時の日本が抱えていた悩みを救ってもらうためです。

当時の日本では、お坊さんになるために、厳しい修行もいらなければ、誰かに認めてもらう必要もありませんでした。
つまり、なろうと思えば、その瞬間から、お坊さんだと名乗ることができたのです。
さらに、当時の日本では、僧侶になれば、税金を払わなくていいという約束もあったので、税金を払いたくないと考える人々が、それこそすぐさまお坊さんを名乗っていたのです。

それをどうにか解決したいと思った当時の天皇、聖武天皇の命を受けて、興福寺の栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)という2人のお坊さんは、遣唐使とともに唐の国へ渡ります。
その目的とは、きちんとした「戒律」を日本に教えてくれて、さらに、「授戒」の儀式を行ってくれるお坊さんを日本へ連れ帰ることです。

※参照:普照と栄叡はどんな人?年表も使って解説してみた

しかし、なかなかその願いを聞き入れてくれるお坊さんはいません。
なぜなら、当時、無断で国の出入りを行うことは唐の国の皇帝にも禁止されていましたし、海を越えて国を渡る船旅自体が本当に命をかけることだったのです。
おかげで栄叡と普照は、唐の国を探し続け、この目的を達成させるために、10年という長い時間がかかりました。
そして、10年目にして、やっと鑑真と出会うのです。

鑑真は、このとき、数千人もの弟子を抱える有名なお坊さんでした。
だからこそ栄叡と普照の頼みを聞いた鑑真は、弟子たちに誰か受ける者がいないかと問います。
しかし、2人の頼みを聞けば、おそらく命はないか、良くても二度と本国へは戻れないことになるわけですから、誰も引き受けようとはしませんでした。
すると、鑑真は自ら日本へと行くことを引き受けます。

日本に行くのはとても難しい! それでもあきらめず…

ここで慌てたのが弟子たちです。
鑑真1人では行かせられないと、21人の弟子がついて行くと名乗り出ました。
しかし、鑑真を心配し、絶対に行かせてはいけないと思った弟子の一部が、国へ密告。

そして、第一回目の渡航は失敗し、二度目の渡航は暴風雨にて失敗。
さらに三回目、四回目も密告されて失敗し、五回目の渡航も、航海中に嵐のために漂流。
なんとか台湾のさらに先、海南島までたどりつき、ふたたび日本を目指す旅を再開。
しかし、実はこのとき、唐の国へ来て16年目となる栄叡が、志半ばで亡くなってしまいます。
そしてさらに、鑑真も失明してしまうのです。

鑑真が日本へと向かう旅は苦難の連続であり、諦めても仕方ない状況ともいえました。
けれども鑑真は、弟子たちの心配も、皇帝の反対も押し切り、六度目の渡航に挑戦します。

そして遂に、鑑真は65歳という高齢の身で日本へとたどり着きます。
普照が日本を出て唐の国へ渡り、19年目の悲願が達成されたのです。

鑑真が日本でしたことは?

日本へやって来た鑑真は、早速、孝謙天皇から授戒の全責任者を任され、東大寺に住むことになります。
鑑真は、聖武太上天皇(元天皇という意味)をはじめ、400人への授戒の儀式を行いました。
このように、授戒を行える鑑真が来てくれたことで、天皇は、授戒を得た者だけを、国は僧侶として認めるという法律を作ることができたのです。

そればかりでなく、薬草や彫刻の知識も持っていた鑑真は、多くの有益なことを日本の人々に教えてくれました。
因みに、私たちが現在、ふつうに食べているお味噌や豆腐なども、この鑑真が伝えてくれたものです。

そして、天皇から皇族が持つ土地に住むことを許された鑑真は、そこに「唐招提寺(とうしょうだいじ)」というお寺を建てます。
多くの苦難を乗り越え日本へたどり着いた鑑真は、この「唐招提寺」にてその後の人生を終える約5年間、弟子たちや民衆の人々に「天台宗」「律宗」の教えや、さまざまな役立つ知識を授け続けました。

鑑真の生涯を小学生にもわかる簡単な年表にまとめて解説!

・688年(0歳)
唐(今の中国)の揚州江陽県という所で生まれる。

・700年(13歳)
父に連れられ大雲寺を訪れ、これに感銘を受ける。
その翌年、14歳で出家する。

・707年(20歳)
唐の大都市である洛陽(らくよう)や長安(ちょうあん)で仏教を学ぶ。

・720年(33歳)
生まれたところである故郷の揚州に戻る。
この地で、仏像や寺の建立、写経や戒律の伝授などの仏教に関する活動を行う。

・742年(55歳)
日本から唐に仏教を学びにきていた栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)に出会う。
二人の懇願により、日本へ行くことを決意する。

・743年(56歳)
一度目の渡航の失敗。
栄叡と普照が投獄される。
二度目の渡航を行うが、暴風雨にて船が遭難し救出される。

・744年(57歳)
三度目の渡航を計画するも密告されて失敗。
再び栄叡と普照が投獄され、二人は病死を装い脱獄。
栄叡と普照の熱意に感動した鑑真は、四度目の渡航を計画。
しかし、またも密告されて栄叡と普照が再び投獄されそうになり、二人は逃亡。

・748年(61歳)
再び栄叡と普照が鑑真の元へやって来て渡航を懇願する。
鑑真は2人の熱意に負けて、五度目の渡航を決意する。
しかし、順風で出発したものの海上で嵐に遭い再び遭難。
14日もの漂流の後、南海島にたどり着く。

・751年(64歳)
栄叡が志半ばで亡くなる。
同時に、鑑真も失明してしまう。

・752年(65歳)
20年ぶりに遣唐使がやって来る。

・753年(66歳)
遣唐使の帰国に便乗して、日本へ渡ることを決意する。
嵐に遭い、複数の船が難破する中、鑑真の乗る船は無事に日本へとたどり着く。

・754年(67歳)
2月4日、奈良に着いた鑑真たちは東大寺に入る。
天皇をはじめ、皇后、太子その他、440人ほどへ授戒を行う。

・759年(72歳)
唐招提寺(とうしょうだいじ)を建立し、ここへ移住する。
東大寺から、唐招提寺へと移住。

・763年(76歳)
唐招提寺にて円寂(えんじゃく)する。
(円寂:仏さま、または位の高い僧が亡くなること)

多くの弟子や信者を抱え、祖国で多大な尊敬を得ていた鑑真。
しかし、日本へ来てほしいと頼まれ、高齢の身でありながら、その願いを聞き入れました。

その後も、苦難の連続。今のように、安全もない中、六度も日本へ行く挑戦を行います。五度目には、失明までしてしまったのです。それでも、日本へやって来てくれた鑑真。日本へ来てからも、鑑真は多くのことを教え、人々を導きました。

日本での生活は、それこそ10年程です。そのわずかな時間でありながら、鑑真は、多くの人々を救い続け、生まれ古郷ではなく日本でその生涯を終えました。

鑑真がつくった「唐招提寺」とはどんなお寺?

唐招提寺(とうしょうだいじ)は、奈良県奈良市五条町にあります。
唐から日本へやって来た鑑真によって建立された、古い歴史を持つお寺です。

創建年は、759年。
ときの天皇より、鑑真へ皇族の旧宅が与えられ、そこに鑑真は唐招提寺を建立しました。
つまり、最初は鑑真の私寺として始まったのです。

鑑真は、この場所を、戒律を学ぶ人のために道場として開きました。
その当時は、講堂や旧宅を改造した経蔵や宝蔵がある程度で、現在のようなお寺ではありませんでした。
名前も、「唐律招提」という名であり、現在のようなお寺としての姿になったのは、8世紀後半。
鑑真の弟子の一人である、「如宝(にょほう)」の手によって金堂などが建てられ、唐招提寺は完成しました。

唐招提寺は、律宗の総本山であり、国の文化財として国宝、また、1998年世界遺産にも登録されています。

この記事のまとめ

唐で、名のある僧であった鑑真。
しかし、日本へ戒律などの正しい教えを広めるため、懇願されて日本へ旅立ちを決意します。

弟子たちから慕われていたからこそ反対され、邪魔されたりしました。
ときの唐の皇帝にも、行かれては困ると鑑真は妨害されてしまいます。
度重なる苦難、失明などを乗り越え、12年もの月日をかけて鑑真は日本へやって来ました。

そして、鑑真のおかげで、多くの人々が役立つ知識や、正しい教えを学ぶ機会を得たのです。