三原氏物語

賢くて可愛くて、誰もが憧れる無敵の障害者を目指すアラサーの闘病記

命に価値があっても、この世に未練みたいなものがない

嘘だろ??

 

雑談

年が明けて1週間が経ったらしい。信じられない。今年こそは毎日ブログを更新するんだ!と思っていたのに、まだ2本しか書いていない事実。

 

いい加減現実を見ろ、そうこうしている内に誕生日(5月)を迎えるぞ、あっという間にお盆が来るぞ、今年もまたクリスマスがやってくるぞ・・・・

 

仕事(とは言っても所詮バイト)をそれなりにこなしているだけで、気づけば一週間が終わる。給料日だ!٩( ᐛ )وと喜んでいたら1ヶ月が終わる。一体いつまでこんなことの繰り返しなんだ?

 

やがて2年が経ち、35歳になると自分の可能性がほとんど無くなる未来が訪れる。「35歳限界説」は近い。

そしてアタイにとっての死に頃である45歳も、すぐにやってくる。

果たして12年後の自分は何をやっているのか、想像もつかない。今の職場もテナントの契約が5年程度なので、あと2年くらいしたらどうなってしまうのかすら分からない。

 

いつだって現場に決定権は無い。決めるのはいつも上。このイージーゲームな労働も、いつまで続けられるのか考えただけで不安になって死にたくなる。

 

今の職場をクビになる可能性は低いが、職場自体はいずれ無くなるかもしれない恐怖。そうしたら次は何をして働けば良いのだろう?楽で稼げる仕事を失ったら、泣く泣く一人暮らしを諦めて再び実家に戻るのか。やめてくれ、勘弁してくれ、ここが一番居心地が良いんだ。今更他所ではやっていけない。

 

現在令和5年。32年生きてきた。それでも今が最も幸福で、気が安らいでいて、孤独でもどこか満ち足りている。若返りたいとは常に思っているが、これと言って戻りたい過去は無い。今が一番幸せなのだ、夢ならば醒めないでくれ。

 

正月ボケを引きずって1週間が経過して、ハッとした。いつまでこの平穏が続くのだろうかと。

 

 

去年の3月に大学を卒業し、その後一つだけ資格をとった。後は仕事に関する勉強をちょこちょこっとこなしていくだけで出勤以外にはほぼノルマが無い人生になった。

圧倒的に楽だ。しかし三原は確実に駄目になった。知恵も体力も無くなり、何かオーラのようなものが消え去ってしまった。

 

年末に掃除をして、年明け最初の掃除は今日行った。ただ部屋で本を読んで、後は布団を敷いて寝るだけの生活なのに随分と埃っぽいな、と思った。たった6畳の部屋を隅々まで掃除し、同時並行で洗濯もする。それだけで夕方になる。入念に風呂も掃除した。いつもより長めにシャワーを浴びたからなのか、酒を飲みたくなる。

 

近所のスーパーにビールを買いに行って、1人自宅で肉を焼きながら飲む。掃除して風呂に入った後のビールは格別に美味い。そして気がつけば夜も遅くなる。更にツイッターを閲覧するだけで軽く1時間が経過する。

 

贅沢をしなければギリギリ生きていけるレベルの賃金を貰う程度の労働量をこなしている。貯金を切り崩してまで生活はしていないが、それでも業務に支障の出るような病気や怪我を患ったら、人生は詰む。

 

もう大人なのだから、誰も助けてくれない。不安を払拭するように、ゴクリとビールを喉の奥に流し込む。随分と腹が出てきたな、と思った。自分を鏡で見る度に「ひでぇな」と感じる。

人としての魅力が微塵も無いのである。

 

このままじゃマズイ。いつも脳裏にある言葉が、今日は一段と強かった。

 

「まぁ今週から通常通りの業務が始まるんだ、1週間を通してどう行動するのか様子を見てみよう」。一応趣味の1つに「記録」がある。1週間一体何をやっていたんだ?と、過去のデータを遡ってみると、やっぱり椅子に座って考え事をしている時間が圧倒的に多かった。

 

明日こそは、来週こそは、来月こそは、来年こそは・・・!!

 

こんな調子で2022年は終わった。新年が明けても何も変わらなかった。正月にご馳走を食べ過ぎたせいで見事に太って東京に帰ってきた。出だしからこんな感じで新年が始まってしまっていいのか。

 

休みボケ。ぼーっと考え事をしている場合ではない。どうしてこんなことばかりしているのかというと、人生に特に目標や目的が無いからだ。これと言ってやりたいことが見つからない。

 

昨年の12月になった辺りから、漠然と「来年はどんな年にしようかなぁ」と考えていた。それだけ時間をかけたにも関わらず、結局年明けから1週間が経ってもまだ決断に踏み切れていない。

 

夢を描くのは案外難しいことなのだ。三原にとっては。

 

幸い月曜も休みなので、気分転換も兼ねて初詣に明日は行く。その後どうするかは、今日掃除をしながら考えていたが、やっぱり思いつかなかった。前回のブログに書いたように、体力の限界まで遠出でもしてみるか?

 

既にビールを飲んでしまったが、今日から改心して一生懸命になれることを探していこうか。

何もしていないよりかはマシだろう。

 

 

 

 

ってなわけで、

 

アクティブログ(活動記録)

特にこれと言って日常に変わりは無いのよね。今の職場って。来る客も9割型同じだし、業務内容も毎週同じワークスケジュールで動いているし。

 

だから「仕事でこんな面白いことがあったよ!」という報告は現在の職場になってから、ほとんどしていないはず。それに加えて週に3日ある休日は1日が掃除と洗濯、1日がぼーっとして終わり、もう1日が読書か考え事をしていて終わるサイクルなのね。

 

そうよ、そういう意味では哲学者のカント並みに決まった時間に決まった行動をしているのさ。だからシフトの調整で出勤の曜日が変わると調子が狂うのね。決まった時間の電車、決まった閉店時間、決まった接客。

 

さて、今年も年賀状は一通も来ませんでした。実に嬉しいです。無駄だもん。個人情報が書いてあるから処分にも困るし。

 

そしてあけおめメッセージ。毎年アタイからは、敢えて2人くらいにしか送りません。何故かと言えば、これでメッセージが来なければ「ああ、この人はアタイから離れていったのね」と分かるからよ。合理的でしょ。

 

LINEの連絡先も、半年近くメッセージが来ない相手は全て「非表示」にしているのよ。ブロックするほどじゃないけれど、こちらからはもう用事が無いなと感じる人だよね。

 

こうしてリアルタイムで連絡を取れる相手は親族を含めて20人を切りました。その構成内訳は面倒だから書かないけれど、それでも今年は3人からあけおめメッセージが来ました。まぁ嬉しいわね。

 

全員が大学の頃の人だった。今どうしているのか、ちょっと気になったのとアタイみたいな奴にも律儀にメッセージをくれる事を嬉しく思ったので、月末に食事に誘ってみたわけさ。

 

これが全員集まるかは不明。まぁ1人は向こうから「飯行きましょうよー」と言ってくれたので、場合によっては彼1人とサシ飲みでも良いかなぁと割り切っているのね。

 

日程だけは向こうに決めさせて、ここからが不思議なのだがどういうわけか何処で何を食べるかを決めるアタイは意外にも決断が早かったんだよね。謎。

 

こうしてアタイにしては珍しく、友人と出かけるというイベントが発生したわけよ。こんなの去年のオクトーバーフェスト以来じゃないかしら。去年分のグーグルカレンダーとか振り返ってみても、頭の病院での診察とバイト以外にほとんど予定なかったからね。それで仕事熱心かというと、そうでもないし。

 

このコロナ禍というのを一体いつまでやるのか不明だし、どうせ何も自分に出来ることは無いからマスクだけはつけているものの、食事や飲み会くらいならば特に規制しなくてもいいのではないかなぁと思っています。況してやその場で自分で焼く、焼き肉ならば換気も出来ているし加熱しているし「何が問題なんだ?」って感じはしないかしら?

 

だから3人を飯に誘う時も「感染が怖いならば来ないでね」とは書いておいた。もしかしたら本当に来ないかもしれないが。

 

知り合いがコロナ病棟で看護師をやっていて、普通に休日にディズニーとか行っている時点で「自粛もクソもねぇじゃん」って悟ってしまったわけよ。焼き肉の方がリスク低いだろ。

 

考えてみれば仮にコロナに感染して死んでも、最後が楽しかったなら死に際が苦しくても満足して死ねるような気はしないか。自粛とか言って1人で自宅に籠もって考え事をしていたって、罹る時は罹るんだよ。その場合、結局苦しんで死んだらアタイの人生なんだったのさ!ってなるじゃない。アイツは最後まで読書をしていて真面目なやつだったよ・・・ ってそんな評価をされても嬉しくねーじゃん。

 

仮に将来的に糖尿病になって人工透析が必要になるくらいだったら、潔く身体に悪くて美味いものを食べまくってさっさと死にたいと本気で考えている。どうせ治らないのに延命のために食事制限をして、週に2回くらい、しかも一度に4時間くらい機械の横にいるために病院に行かなければならないとか、そこまでして生きたいか?ってならない?

 

話は逸れたが、楽しんだ方が勝ちだと思うのよ。人生だって一番コスパ良いのは早く死ぬことだからね。人には迷惑をかけず、尚且つ自分は楽しんで早く死ぬ。理想じゃない?

 

結局看護師の知り合いだって、無症状だけど感染していたしさ。それで隔離が終わったら平然と友達と遊びに行っているんだし、感染者が多くて病棟は大変、忙しい!って言われたって「だってお前が選んで就いた仕事だろ?」って話だし。

 

アタイみたいなバイトなんて幾らでも代わりが見つかるけれど、看護師は大学を6年通うか、専門学校に行くわけでしょ。なりたくて、頑張ってなったのならば、アタイから言えるのは「お勤めご苦労さまです」しかなくて、仮にも消去法で「私看護師くらいしか出来そうな仕事がないから看護師になった・・・」って人はほぼいないと思うのよね。

 

楽な仕事じゃないのは重々承知だけど、その分給料は貰っているんだし休みもあって、しかもコロナ病棟勤務でも休日の外出制限が無いならば、アタイだって友達と焼き肉くらい食べる権利あるだろうと。

 

 

 

今頃になってコロナがどうでも良くなってきたのは、慣れという問題じゃなくて命の軽さに気付いたからなのよ。根本的にはアタイがそもそも障害者という、治らない病気を抱えているわけだから、そこまで自分の命を尊重する必要も無いと本気で考えているのさ。他人に迷惑をかけず、誰にも命令されずに自分というコマをどう使おうが自由だろうに。

しかしながら好き勝手に生きると言っても、適度に精神が病んでいて好きなことや、やりたいことが出てこないわけよ。そんなに面白いことが無いのに生きているってのが理解出来ないところでさ。

 

考えてみれば精神科の自立支援だって、ある程度の精神科医療費、処方薬の代金が安くなるという、めちゃくちゃ有り難い制度だけれど、あれのお陰でアタイは生かされているようなもんなんだよな。

 

一体自立支援ナシで精神科に関わったら幾らかかるのか想像もつかないが、自分みたいな奴でも然程生きている価値が無いと割り切っているのに、本来妄想と鬱に押しつぶされて自殺しているはずの人間が投薬によって延命されているのを客観的に見るとさ。

 

治らないんだったら、さっさと死ぬ選択肢もあってもいいんじゃないかなぁって思うわけよ。役所で手続きをすると50万円くらい貰えて、「それでは2週間後のこの時間に指定の病院にお越しくださいねー」とか告げられて残り2週間くらいを50万円で好き勝手に使って遊んで、感受性が低下していて美味いものを食っても大して味が分からないし、高級なホテルに泊まっても枕が合わなくて寝れねぇじゃん、みたいな状態なりにも「まぁこういう人生の終わり方も悪くねぇな」とか思いながら死んでいく方が楽でしょうと。

 

そりゃあ普通に働ける程度のバイタリティとメンタルを兼ね備えているならば、ちゃんと常人と同等に働くわよ。それが出来ないから、こうしてバイトの身分で生きているわけでして。

 

 

 

いや、あのね、最近生命倫理の本を読んだのよ。それを読んでいて例えば脳死状態の人はドナーにされるが、それでいいのか?みたいな問が出てくるわけね。

 

世界中で臓器が不足しています。

 

ってワケわからねぇだろ。生まれつきどこか内蔵が欠けていたとかならば、まだ分かるよ。まぁアタイに欠けているのは知能か。

 

脳死は生物的には、まだ肉体が生きている状態なのよ。もう意識は絶対に戻らないし、このまま延命させてもしょうがねぇべ、だから臓器を提供しよう?みたいなノリなんだけれどさ。ほら、日常でいつ事故って脳死状態になるか分からねぇじゃん。それで脳死になった場合に、生きている臓器は資源として見做されるんだけれど、これってどうよ? という問いかけがあるわけさ。

 

自分の身体なんだから、自分で決めたいじゃん。普通なら。勝手に自分の臓器が他人の体内で生き続けることになるんだけれど、その時にはもう意識が無くて拒否権もないのよ。

 

こういう流れに加速するように、人間の臓器を持つブタの開発とかが進んでいるそうな。話を聞いただけで寒気がするんだが、このブタから臓器を人間に移植することが出来たらかなりのローコストで多くの人の命を助けられる。じゃあ人間が生き延びるためにブタはどうなってもいいのか?という問がまた発生する。

 

アタイは臓器を提供するつもりもなければ、誰かから臓器を受け取るのも気持ち悪くて無理だよ。この本にはどこにも書いていなかったが、アタイがずっと疑問に思っていたのは「どうしてそこまで生きたいのか?」だったのね。

 

アタイの婆さんは5年位前に心臓の大動脈の手術をしたんだけどさ。聞いた話じゃ心臓を仮死状態にさせた状態で大動脈にメスを入れるという、めちゃくちゃ高度な手術だったそうだ。それでも医療費の負担ってのは保険が適用されるみたいだな。

 

こうして無事に手術も済んで、今は特に大きな病気もなく生活している。もう80歳を越えているのかな。まだ自力で歩けるし、1人で暮らしているくらいだから介護が必要無いのも何よりの救いだが、こういう高度な手術を受けて「失敗したら死ぬ」みたいな境地から見事に蘇ったにも関わらず、じゃあ婆さんは普段何をしているのかと聞いてみるとさ。

 

ただゴロゴロしながらテレビを見ているだけなんだよ。

 

特に医者から心臓に負荷のかかるような動きはしないでくれ、とは言われていないらしい。

にも関わらず、高齢者で年金暮らしでそれこそ何もノルマが無い。死ぬまで夏休み状態だ。

 

こういうのを見ると、本来死ぬはずだった人間が延命した意味ってあるのかなぁと、実の祖母ながらにも考えてしまうのよ。ずっとゴロゴロしているから家は埃っぽいし、なんかベタベタしている。てっきりこういう手術で命の大切さが分かって「一日一日を無駄にしないように今を生きよう」とか改心するのかと思いきや、案外何も変わらないんだなぁとよく分かった。

 

結局ダラダラ過ごす余生が延長されただけだった。娘や孫が帰ってくること以外に何のイベントも起きない人生。毎日毎日ダラダラダラダラ・・・・

 

それでハッとしたわけよ。待てよ、アタイにはバイトがあるだけで本質的には婆さんと大して変わらないんじゃないかと。婆さんの生活だって年金があるから成り立っているわけで、たまたま同じ血が通っているにしても、この婆さん生きている価値あるのかなぁと真剣に考えるわけよ。

 

この心臓の手術が移植だった場合なら、また婆さんも違う考えを持ったかもしれないがその辺は分からん。

 

たまに「もしもジョブズが生きていたら」みたいな議論が上がるが、彼みたいなイノベーターがまだ生きていたら、もっと想像もつかないようなデバイスが発明されていたのかもしれない。しかし婆さんは延命しても何も変わっていないわけだ。

 

アタイの通っていた大学には最高齢で確か90歳超えの学生がいたと思うが、ウチの婆さんの方が10歳も年下なのに、まるでそのうち死ぬのを待っているかのようだった。

 

婆さんはもうこの世に未練が無いのだろうか。まぁアタイに関して言えば、ほぼ未練が無いわね。アタイは統失以外には大きな病気を患っておらず、一度も入院・手術をしたことがない。

強いて手術と呼べるのは親知らずの抜歯くらいだ。骨折すらしたことがない。

 

この世に未練が無い。果たしてこれは健全なのだろうか。言い換えれば、いつ死んでも良いことになる。まだウユニ塩湖も見ていない、エジプトのピラミッドも、アフリカのサバンナも。ヴァチカンにも行っておきたいかなぁ とはちょっと思ったが、現時点では「仮にお金があっても行くのが面倒くせぇなぁ」の感情が強い。

 

どうも働くモチベーションが、生きるため だけにある気がしてならない。正直なことを言うと、大学の頃の友人と飯に行くというのも、「出費がかさむ・・・」が念頭にあり、あまり楽しみではないのだ。

 

病んでいるだけなのだろうか。変に苦しくないのがまた不思議でもある。

 

どうもこの一族は人生の目的に乏しいようだ。