夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『お盆の日』、改めて私が住んでいる地域は、古来より8月1日、やがて思い馳せて・・。

2022-08-11 14:43:32 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の77歳の身であるが、
今朝、テレビのニュースを視聴していた時、
お盆を古里や行楽地で過ごす人たちの帰省ラッシュが本格化し、

各地の駅や空港は11日、家族連れなどでにぎわっている、
と報じられていた。

私のふるさとは、今住んでいる近くに生家があり、
三男坊の私としては、長兄宅が実家となっている。

そして私はこの地域には結婚前後の5年間を除き、73年ばかり住んでいる。



このような事情もあり、毎年私は帰省の方たちを見かけると、

少し羨(うらや)ましいのが本音である。

こうしたことは過ぎし一年の思いを秘めて、ふるさとの親、親族、そして友人たちに再会して、
共に語る合う情景が浮かび、
どうかご無事で行かれ一族再会のような親愛を深めて下さい、と思ったりしてきた。


そして3年ぶりに新型コロナウイルス対策の行動制限がなく、
お互いに待ち焦がれただろう・・と思い馳せたりした・・。 



このような心情を重ねたりすると、私の『お盆の日』を過ごしてきたことに、
思い馳せたりした・・。


私の住んでいる処は、世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域であり、
生家に近く、古来より8月1日のこの日は『お盆の日』となっている。

私は今住んでいる近くに生家があり、1944年(昭和19年)の秋に、

農家の三男坊として、生を受けた。

やがて私が地元の小学校に入学した1951年(昭和26年)の春の当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、

程ほど広い田畑を耕していた。

そして生家が所有していた田んぼの片隅の中には、湧き水もあり、

小川も流れていたし、
田んぼの外れに半反ぐらいの150坪前後の広さの蓮(ハス)専用の水田があった。
          
或いは竹林、雑木林も母屋の周辺にあったりした。

そして母屋の宅地のはずれに土蔵)、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。


少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖と小学校の先生たちは称していた。




私は父、そして祖父が亡くなる小学三年生の頃までを思い浮かべて、
 この当時の『お盆の日』を思い馳せていたが、遠い70数年前のことであるので、
後年に母、父の妹の叔母、叔父、長兄などから、私は訊(き)いたりしていたことも重ね、
心の片隅に残された記憶のかけらを頼りに思い馳せたりした・・。



               
【迎え火】の前には
7月30日の午前中のひととき、
父か仏間にある仏壇から位牌と仏具一式を取り出した後、仏壇の扉は、このお盆の期間だけ閉じられ、
この前に畳一帖ぐらい台に盆棚と称せられたこのお盆の時だけの棚が設置された後、
この盆棚に移された。

そして盆棚の中央の奥に位牌を置き、周辺に野菜、果物を供えられ、
胡瓜(キュウリ)に割り箸のような足を付け馬を見立て、
茄子(ナス)も同様な形で牛に見立てたものを飾っていた・・。

後年になると、叔父さんから、馬は祖先の霊に乗って、この世にに戻り、
牛はお墓に戻る時に乗って帰られる、と私は教えられたりした。

そして台の手前は、座布団を敷き、その脇に桶に水を入れ、蓮(ハス)の葉に茄子(ナス)を小さく刻んだのを浮べ、
淡いピンクのミソ萩を小箒(こぼうき)のように作ったのを、水にしたし、清めていた。


そして台の左右に、この時節の百合(ユリ)の花などの草花を飾り、この中で蓮(ハス)の花が中核となっていた。
               
この日の夜から、お盆の送り火が終えるまで、
朝昼夜に水とご飯、そしてボタ餅を供えたりしていた。




【迎え火】の当日は
この日の夕刻になると、稲の藁(ワラ)で作った松明(たいまつ)の灯りを祖父か父が持ち、
先頭に立って、家族一同で祖先が埋葬されているお墓に行った。

帰路は参列者の家族は、おのおの手を後ろに組み、あたかも祖先を背中に乗せて、帰宅した後、
盆棚の前で手を解き、祖先を安置する。
こうしたことが、この地域の迎え火の暗黙のしきたりとなっていた。




【お盆の日】の当日は
午前中のひととき叔父、叔母をはじめとする親戚、縁者が来宅して頂き、
盆棚で各自お線香を上げて頂き、盆棚の近くの広間で、煮しめ、ボタ餅を食べながら、
世間話をしたりて、帰宅して頂く。


この間、僧侶を招き、読経をして頂くのが、恒例となっていた。

【送り火】の当日は
お盆の日の当日の夕刻、家族は盆棚の前で、各自に手を後ろに組み、あたかも祖先を乗せて、
お墓に行き、手を解くのが、送り火と定められていた。

その後は、盆棚は整理され、位牌、仏具などは、いつものように安置している仏壇に納められる。

このような『お盆の行事』に関して、

生家は少なくとも江戸時代の中期の頃から継続されていたが、
このように現在として記憶しているが、遠い昔の出来事であるから、
定かでないが、心に残っている。
               
ここ40数年、社会状況は大家族の風習は崩壊し、核家族化が進展している中、
生家も『お盆の行事』は簡素となっている。




私が2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後になると、
翌年の8月1日の『お盆の日』からは、家内と共に朝の9時半前に、生家の実家となる長兄宅に行っている。

そして簡略となった盆棚でお線香を上げ、長兄夫婦と談笑した後、
この後に来宅された親戚の叔父、叔母たちに、私の少年期まで何かとお世話になったので、
この当時の頃の話を、私は話題にしたりすることが多く、私が知らなかったことが多々あり、
私は微苦笑しながらも教示を受けたりしている。





この後、私たち夫婦は長兄宅を辞した後、お墓参りに向う為に、
自宅に戻り、お線香、お米を持ち、途中で花屋に寄り、

生前の母が好きだったお花を買い求めたりしている。

やがてお寺に着くと、境内は広く、大きな樹木が数多くある上、

平日の日が多いので一層に静寂となる。

そして外気は、暑さを樹木の枝葉がさえぎっているので、幾分涼しげとなる・・。


ときおり、蝉(セミ)の声が境内と墓地の間の大きな樹木から聞こえるのが、
毎年の習性のような情景となる。




私は少なくともお墓参りは、生者の慰めと知っているが、
亡くなった父と母、そして祖父に守られ、こうして私は生きてこられてきたのは、
まぎれないことであるので、私は感謝の一心で、お墓参りをしている。

家内と母との長き25年近い歳月、ある程度の遠慮がお互いにあった上、
何かと心身の波長が合い、私は今でも家内と母に秘かに感謝している。

お墓に行き、墓石を水で清め、お花を挿して、お米を備える。
そして、お線香を奉げる。
私はお参りをするたびに、母のおもかげがよぎる。
               
私の場合は、父が私の小学校の2年の時、
その一年後に祖父も死去されたので、何かと母の存在が多かった。


このためか、ときたま生前の母のわずかなしぐさ、言葉づかいが想いだされる。


お線香の煙が芳香を残して、空中を彷徨(さまよ)うように立ち昇りながら、やがて消える・・。

その後、水屋の周辺の大木の樹木の中、
蝉(セミ)の鳴き声が響きかせながら、盛大に聴こえることが多いのである・・。

このように私は、旧来からのこの日の『お盆の日』を迎えている。




しかしながら、2020年の2月、新型コロナウイルスの襲来に伴い、
お互いに感染が怖くて、やむなく実家の玄関先で、挨拶する程度となっている。

小説、映画に『風と共に去りぬ』があるが、アメリカの南北の内戦を描き、
特に南部は敗戦後、社会、文化など多岐に消え去っている内容である。

新型コロナウイルスは、世界の各国が多大な悲惨な状況となったりしているので、
新型コロナウイルスの襲来以前の経済、社会、文化に戻れるのは、
夢幻と思いながら、私は過ごしたりしている。

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