心の中にある戦争の芽に気づく時、キリストの愛を知る-クリスチャンの私から

人が自分の嫌なところを目の当たりにするのは、幸福な時ではない。
それは、身体的であれ精神的であれ、逃れることの出来ない苦しみの最中にある時だ。
少なくとも私はそうだ。苦しみを嘆くだけでは足りず、人を憎む。

視覚障害のせいで、人混みの中を歩くのが私にとってはとてもしんどい。スーパーで買い物をすると疲れ果てる。生まれた時から40年以上付き合ってきた障害であっても、しんどさは変わらない。そんな時、腹の底からこみ上げてくる「人間たち」に対する憎しみ。周りの人が皆、自分を嘲笑っているような錯覚に陥る。その場の人間が全員いなくなってくれればよいのに、とさえ思う。

視覚の不足を補うために研ぎ澄まされ、研ぎ澄まされ過ぎて過敏になっている聴覚のせいで、私は人々の会話の声色から、自動的に感情を読み取ってしまう。「聞かなければいいのに」と言われそうだが、耳はふさげない。人々の態度や息づかい、発する匂いからも、たくさんのことを読み取る。さまざまな「自分を守る方法」を試した。どれも効かなかった。なぜなら、私の場合それを行うことは、危険から身を守るために働いている感覚をマヒさせることであり、アクセルとブレーキを同時に踏んでいるような状態になるからだ。

結局、外出が辛くなる。電車に乗るのが、外で食事をするのが辛くなる。そして、人間たちが嫌になる。皆が自分を攻撃しているかのような錯覚に陥る。家に帰って来ると、シャワーを浴びながら声を上げて泣く。疲れと怒りと、楽しいはずの外出が自分にとっては苦行でしかないことに対する悔しさと、何よりも、人を憎んだ自分の心の醜さに。

でも、私には救いがある。
泣きながら、私はイエスさまに心のすべてを話す。私が話さなくても、イエスさまはすべてご存知だ。だから何一つ隠す必要はない。怒りと悲しみと嘆きを、一つ残らず吐き出す。有名な讃美歌「いつくしみ深き」の歌詞のように。

「いつくしみ深き 友なるイェスは 罪、咎(とが)、憂(うれ)いを 取り去りたもう 心の嘆きを つつまず述べて などかはおろさん 負える重荷を」

人を呪う言葉を吐きながら、自分の心の中にある戦争の芽、殺意の種を、私ははっきりと自覚する。それは、確かにそこに在る。どんな悪人にも劣らず、どっしりと根を下ろしている。疑いようもなく、弁解のしようも、否定のしようもなく。

「イエス・キリストはすべての人の罪を背負って十字架の上で死に、復活した。」

自分の罪の深さを見るたびに、イエスさまが十字架に釘を打たれて流された血潮の尊さを噛みしめる。私の心の中の戦争の芽を、殺意の種を、跡形もなく洗い流してくれる、その血潮の尊さを。そして、清き者、尊き者として私を見つめ、友として、手を握ってくれるイエスさまの愛の深さを。

「でもやっぱり赦せないよ。私を侮辱した人たちのこと。」
ずっと昔に過ぎ去った出来事をふと思い出して、私はつぶやいた。
その時、イエスさまが隣に座ったのを感じた。
「解るよ。」
一言、そうおっしゃった声を聞いたような気がした。
涙があふれた。

彼こそ、一生人々から憎まれ、嘲笑され続けた人だ。自分が十字架の上で味わうであろう苦しみを、一日たりとも忘れることなく、それを一人で抱えて生きた人だ。

イエスさまを救い主と慕いながら生きるこの人生が、私は好きだ。
もしこの救いを知らなかったら、私はとっくに死んでいただろう。
少なくとも、魂は。

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