伊奈利社
風土記に曰はく、伊奈利と稱ふは、秦中家忌寸等が遠つ祖、伊侶具の秦公、稻粱を積みて富み裕ひき。乃ち、餅を用ちて的と爲ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊禰奈利生ひき。遂に社の名と爲しき。
其の苗裔に至り、先の過を悔いて、社の木を拔じて、家に殖ゑて祷み祭りき。今、其の木を殖ゑて蘇きば福を得、其の木を殖ゑて枯れば福あらず。
(神名帳頭註)

鳥部里
山城の國の風土記に云はく、南鳥部の里。鳥部と稱ふは、秦公伊呂具が的の餅、鳥と化りて、飛び去き居りき。其の所の森を鳥部と云ふ。
(河海抄卷第二)

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言わずと知れた伏見稲荷大社の起源伝承。

柳田はこの稲荷起源伝承を古風土記に並ぶ古さがあるものだと考えていたようですが、その根拠はよくわかりません。「稲荷」という新しい表記ではなく、「伊奈利」という古い表記を使っているからでしょうか?
しかし岩波の日本古典文学大系『風土記』では「存疑」(古風土記の逸文かどうかは疑わしい)と分類されています。

この伝承が記載されている『延喜式神名帳頭註』とは一五〇三年吉田兼倶によって書かれた『延喜式』の注釈書。
伏見稲荷大社の創建は和銅年間(708-715)ですから、だいぶ後になって文章化された起源伝承だと言えます。

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一方、「鳥部里」地名由来を紹介している『河海抄』は貞治年間(1362-1368)に成立した『源氏物語』の注釈書。著者四辻善成は平安末期以降の所説を整理した上で、自身の註釈を加えているそうなので、それなりに信憑性はありそうな気もします。

こちらも『岩波日本古典文学大系』では「存疑」になっていますが、「鳥部里」の地名由来を捏造する必然性もなさそうですから、平安期には普通に語られていた話だったのではないかと思います。どうでしょうか?

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伏見稲荷大社の「二月初午」は稲荷社創建を記念した祭です。
『枕草子』『今昔物語集』などの平安文学にもしっかり登場し、都人の信仰対象になっていたようですが、その起源伝承についてはあまり関心が向けられていなかったのか?

両書の描写を見るに、厳粛な祭というより、ある種の野外イベント的な雰囲気もありますから、現代日本人の初詣ような感覚だったのかもしれませんね。

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今回の「餅の的」は「稲荷社の起源」、つまり祭祀起源伝承であり、既に紹介した「長者の没落」「不毛な土地の由来」とは大きく異なります。
一目瞭然、その差異は後段にありますが、一応頭から見ていきましょう。

・「秦中家忌寸等が遠つ祖、伊侶具の秦公、稻粱を積みて富み裕ひき。」

秦氏、つまり家にまつわる伝承ですから、その点では「長者の没落」型に近いでしょう。
「稻粱」の「粱」は「大粒の粟」を表す漢字だそうです。

・「餅を用ちて的と爲ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊禰奈利生ひき。遂に社の名と爲しき。」

「餅を的にしたら、白鳥に化して飛んで行った」とここまでなら他の事例と共通しているのですが、稲荷社起源伝承の特異な点はその鳥の行き先が明記されていることです。

そして山に降り立った白鳥が稻になったことを記念して、神社に「イナリ」と名づけたといいます。祭祀起源伝承でもあり、聖地発見伝承でもありますね。

「長者の没落」「不毛な土地の由来」と比べると、「稲荷社の起源」事例は前二者から発展したもののようにも見え、「後世の改変ではないか?」という見方もあるかもしれません。

ただ不思議な出来事が生じた時に、その原因を不問にする/特に追求しない場合と、原因を探ろうとする場合、どちらも記紀風土記の中に普通に並存しているようにも思います。

例えば荒ぶる神を鎮めようとして、祭祀地を探り、祭祀を始めるという伝承。このブログで既に取り上げた事例だと『肥前国風土記』「姫社の郷」があります。
交通妨害をする神の類ですが、他の事例では必ずしも祭祀されるとは限りません。むしろ風土記では祭祀する事例は少ないかもしれません。




しかし「餅を的にしたら、白鳥になって飛んで行った」という出来事は、不思議ではあっても、何を意味するかを即座に判断するのは難しかったのかもしれません。

ネット上で見つけた富山「餅の敷石」の事例(「福娘童話集」HP記載)によると、長者は敷石にした鏡餅が白鳥になるのを見て「縁起が良い」と喜んだといいます。一方で使用人達は呆れて、次々に辞めていったとも。
大分県「朝日長者」の事例でも、餅の的が白鳥になって飛び去ったのを見て、周囲の人々は「あの白鳥は長者家の氏神である白鳥神社の神ではないか」と噂したといいます。しかし朝日長者はそれ以後も益々増長し、没落していくことになります。

つまり他の長者没落事例と異なり、「稲荷社の起源」では「餅の的が白鳥に化した」ことの神意を見出せたために、秦氏は没落することなく、稲荷神祭祀を始めることができた、というのが稲荷社起源伝承の読み方だと思われます。

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まあ「秦伊侶具は餅の的が白鳥になったのを見て、驚き、その後を追いかけた!」という描写があるわけではないので、あくまでも推測です。

しかし「白鳥の行方」に興味を持つ伝承が山城国にはしっかり存在しています。
それが上に引用した『河海抄』の「鳥部里地名由来」伝承です。

「鳥部里」伝承自体は秦氏自身が伝えてきた話ではないかもしれませんが、「稲荷社起源」伝承が平安末期にはこの地域で共有されていただろうということの証左になりえます。「餅の的」は白鳥に変化して飛び立ちますが、人々はその向う先にしっかりと興味を持っていたわけです。

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ヤマトタケルが死後白鳥となった時も、人々はそれを茫然と見送っていたわけではありません。記紀で
その行き先は異なっていますが、どちらにしてもその行き着ついた場所には陵墓が作られています。
また民間でも、白鳥と成ったヤマトタケルが降り立った場所には「白鳥神社」が建てられている。

「白鳥を追いかける」伝承としては、記紀垂仁天皇条に載るホムチワケ伝承も挙げられるでしょう。白鳥を捕まえたことで、ホムチワケの言語障害の原因が出雲大神の神意だったことがわかります。

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「餅が白鳥になって飛び去る」という異変を目の当たりにして、「へえ、不思議なこともあるもんだね」で済ませてしまうというのは、それ自体が既に傲慢な態度であったとも言えるでしょう。

非日常的な不思議なことが起こった時、そこに神を見出すか否か。
神の存在、神の意志を感じる方が、より原初的な心性のようにも思います。

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次に注目すべき点は「白鳥が山の峰に下りて、稲が生えた」という部分です。

この「伊禰奈利生ひき」には、「稻が生えた(=白鳥が稲に化した)」という解釈意外にも、幾つか説があったように思いますが、正直覚えていません。覚えていないということは、たぶん私自身それらの説が腑に落ちなかった結果だと思うので、今回はスルーして、普通に「稻が生えた(=白鳥が稲に化した)」と解して話を進めます。

『豊後国風土記』には「餅の的」と「白鳥化餅-薯」が並存していますが、「餅の的」の方が注目されていて、後者はあまり注目されていないようにも思います。しかし「稲荷社の起源」においては非常に重要な部分です。

とは言え「動物が植物に変化する」というモチーフは、『日本昔話通観』モチーフインデックスではないようです。「死体から植物が生える」という死体化生的なものは存在していますが。
また「D420 変身‐動物から物へ」で検索をかけても、ヒットする事例は全て、狐狸或は妖怪的な蛇の変化に関するものでした。

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飛び来った白鳥が稲に変化する。
だいぶ前に読んだのでうろ覚えですが、大林太良『稲作の神話』ではこのモチーフは所謂「穂落神」神話/信仰と関係があるのだろうと書かれていたと思います。

穂落神神話とは、鳥が最初の稲穂をもたらし、稲作が始まったという作物起源神話です。単純に稲穂が天から落ちてきたという伝承も多いようですが、鳥が介在する事例も多数。中山太郎「穂落し神」では、その鳥を「鶴」としている事例をいくつか挙げていますね。
「白鳥」そのものが稲に変化するという事例は稲荷社起源伝承以外にはないようですが、「白鳥と稲」との関係性の強さはやはり確認できると思います。

「白鳥と稲」の関係性については、柳田も「餅白鳥に化する話」で言及していますが、それについてはまた別にまとめたいと思っています。

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「餅→白鳥」「白鳥→稻」の変化という超常的な現象に比べると地味ですが、「山の峰に稲が生える」ということも普通はありません。

日本の稲は自生していたものではなく、栽培作物として大陸から導入されたものです。しかも縄文時代末期には既に水稲耕作が始まっています。
陸稲耕作もありますから、絶対にないとは言えませんが、やはり普通に考えて山の上に自然に稲が生えることはほぼありえないでしょう。

しかしだからこそ、普通生えないような場所から稲が生えた場合は、ある種の「吉兆」と考えられたこともあるようです。

『日本書紀』天智三年十二月条に次のような記載があります。
「是月、淡海國言「坂田郡人小竹田史身之猪槽水中忽然稻生、身取而收、日々到富。栗太郡人磐城村主殷之新婦床席頭端、一宿之間稻生而穗、其旦垂頴而熟、明日之夜更生一穗。新婦出庭、兩箇鑰匙自天落前、婦取而與殷、殷得始富。」

淡海國の坂田郡と粟太郡の話。
坂田郡では「猪槽水中」から稲が生え、その実を取ったら、段々と金持ちになったと言います。
粟太郡では新婦の枕元に一夜のうちに稲が生えて実り、翌日もまたもう一株増えた、と。新婦が庭に出ると二つの鍵が天から落ちてきたので、夫に渡したところ、夫は金持ちになったと言います。

稲が一本や二本生えただけで、金持ちに成れるか?という疑問は湧きますが、「稲が自然に生える」ということがそれだけ特殊なことだと考えられていた、ということなのでしょう。
そしてそれは確実に「吉兆」と考えられていたということがわかります。

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「稲荷社の起源」は「稲が生えたので、それに因んで社名をつけた」という部分で完結はしています。しかし更に「験の杉」の起源が語られる。

私は「稲荷社起源」伝承において、この最後の「験の杉」の部分が非常に重要だと考えています。
なぜならこの最後の部分があってこそ、「稲荷社の起源」に、他の「餅の的」説話事例とは異なる特殊性が生じていると思うからです。

・「其の苗裔に至り、先の過を悔いて、社の木を拔じて、家に殖ゑて祷み祭りき。今、其の木を殖ゑて蘇きば福を得、其の木を殖ゑて枯れば福あらず。」

「験の杉」は秦伊侶具の苗裔=子孫が過ちを悔いて始めたことだと言います。
それが今では「験の杉」を植えて息づけば福を得て、枯れれば福を得られないという「験」を表すようになったと言いますが、ここに「稲荷社の起源」神話の儀礼化を見出すことは容易でしょう。

富み栄えていた秦氏の餅が白鳥となり、白鳥が稲荷山に降り立って、稲となって根付く。
その稲が根付いたように、稲荷の社の杉が家の庭に根付いたら、その家にも福が来る。

「秦伊侶具が独占していた福徳が、稲荷山を経由して、多くの人々に再分配されるようになった」と要約するとわかりやすいかもしれません。
また他の事例と異なり、秦氏が没落しなかったは、伊侶具の苗裔達が「先の過を悔いて」その「再分配」を真っ先に行い、伏見稲荷大社の禰宜として、その信仰を広めてきたからだと言えるでしょう。

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ただ伝承事例中の「稲」が、実際の習俗としては「杉」によって再現されているというのは、スルーしていいものかどうか?

もしも「稲」にこだわるなら、伏見稲荷大社が神田を作り、稲穂なり苗なりを信者に分け与えるということも可能だったかもしれません。或は「稲」を大量に揃えるのが大変なら、「米」でも可だったのでは?と思わなくもありません。
なぜなら杉の葉はどう見ても稲と似ていないからです。まだ茅・薄の方が似ていますが、稲荷山には生えていなかったか?

稲荷社が信徒に分け与える「験」の呪物が、「稲荷社の起源」で霊異を示した「稲」ではなく、稲荷山に元々生えている「杉」であるというのは、その信仰が単純な稲作文化のみに由来しているわけではないということを暗示しているようにも思います。

現在日本民俗学において、「田の神と山の神」についてどのような議論がなされているのか?私は全く把握していません。
しかし「田の神/山の神交代説」が説かれていなかった地域であっても、平地に住む人々は山を神聖視していました。
当然「水源としての山」という認識は強かったでしょうが、季節による容貌の変化などは平地に暮らしていても印象深い。狩猟までいかなくとも、山菜などを摘みに山に入るなら、野生動物にも出会うでしょうし、平地とは異なる植物相、雰囲気を体験することになります。
古代においては、平地に暮らす農耕民も日々の経験から、「山のエネルギー」=自然或野生の力を認識していたはずです。

「稲荷社の起源」伝承を読み解くに当たっては、その「山」という観点を無視してはいけないと思います。
より正確言うなら、「平地」と「山」を行き来する「エネルギーの往還」とでも言うか。

「長者の没落」「不毛な土地の由来」には、「平地」と「山」という観念は現われません。
両者の白鳥はただ飛び去るのみでその行き先は不問とされ、物語は「平地」だけで起きた出来事として完結しています。
「不毛な土地の由来」は現実には農村と山との中間的な場所が舞台となる可能性が高そうではありますが、ストーリーの中では「山」は全く登場していない。

「稲荷社の起源」において、「餅の的=白鳥」は秦伊侶具が積み上げた「稻粱」の一部であり、富貴の象徴でした。それは人間の手によって栽培された作物であり、「平地のエネルギー」の象徴だったと言えます。
その白鳥が稲荷山に降り立ち、稲となって根付いた。それは人に富貴をもたらす「平地のエネルギー」が稲荷山に宿ったということを表していると考えてよいでしょう。
「平地のエネルギー」が「山」に宿り、そのエネルギーは稲荷山に自生していた杉=「験の杉」によって、多くの「平地」の人々に分配されていく。

しかし「稲」に象徴される「平地のエネルギー」が、単純に再分配されているわけではありません。稲荷山を経由することによって、それは「山のエネルギー」に変換されている。
稲と杉の象徴的差異についてまとめてみると、その差異が見えてくるかもしれません。

稲-平地/人が栽培した作物/見た目の変化が大きい(稲・米・餅)
  ※人の富の象徴ではあるが、その移ろいやすさも暗示しているか?

杉-山・森林/自然の樹木/見た目が変化しにくい(常緑樹)
  ※自然の力の象徴であり、その永続性を示している。

「※」に挙げた両者の特徴はあくまでも私の解釈ですが、「稲」や「米」を授けるのではなく、「杉」が授けられることの意義を考えると、そこには「安定的な豊かさ」を求める願いが込められているのだと思います。

しかし一方で「其の木を殖ゑて蘇きば福を得、其の木を殖ゑて枯れば福あらず」という不確定性?「運試し」的な性質があるというあたりは、やはり「自然の力」の両義性・不確実性が表れているようにも感じますね。



「稲荷社の起源」伝承の解釈については以上で終わりですが、最後に伏見稲荷大社についてずっと昔から気になっていることを少し書いておきたいと思います。

それは「稲荷信仰の根源は、本当に純粋な「稲の神」「農耕神」だったのか?」ということです。

名前に「稲」とついていますし、起源伝承でも「稲が生ったからイナリ」とはっきり言っている。
一見疑う余地はないようにも感じますが、どうも違和感があるのです。

まず「験の杉」の説明は、「蘇きば福を得」「枯れば福あらず」と言っています。「作物が豊作になる」とは言っていません。「福を得る」と言っている。

また上に引用した『日本書紀』天智三年の記事でも、稲が生えたことを吉兆として「富を得た」と言っている。「稲だから農耕」という単純なものではなく、既に稲を「豊かさの象徴」として捉える発想が生じていた可能性も高いと思います。

また祭祀者が渡来氏族である秦氏であるという点も気になる所です。
秦氏は先進的な大陸の農耕技術を導入し、各地を開拓して勢力を伸ばして行ったとも言います。「農業を発展させたから、農耕神の祭祀者たる資格があるのだ」という理屈は理解しますが、その「農耕神」というのは「秦氏以前の農耕神」と同じものなのか否か?という疑問も生じます。

後世生じる稲荷と狐との関わりや、多方面への発展を考えると、稲荷信仰は元々厳密な農耕神ではなく、多様な信仰を受けいれる「福徳の神」「運気を司る神」としての性質を原初的に持っていたのではないか?とも感じます。

豊作を願って、太陽や水の神を崇拝するのとは異なる信仰ようにも思うのですが、どうでしょうか?

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稲荷信仰の原義を探るには、今回扱った「稲荷社の起源」伝承を読み解くだけでは当然不十分です。
歴史的な変遷も踏まえる必要があるので、文献資料を改めて確認する必要があるでしょう。

また「穀霊・稲魂」「農耕神」という見方以外に、「食物神」という側面もありそうですが、それらは同じ物だと捉えてしまって良いものか?こちらは他の神、信仰との比較が必要になりますね。