ご無沙汰しましたとご報告 | さびしいときの哲学

さびしいときの哲学

大切なひとを失った方、一人ぼっちで寂しいと思う方へのメッセージ

ご無沙汰しております。忘れずにお訪ねくださって、ありがとうございます。

 

ブログを書かなかった間、色々なことがありました。まず、左眼が網膜剥離を起こしてしまい、急遽手術をすることにあせる

 

でも、早く発見してもらったおかげで、剥離を起こしたところも、手術できれいに塞がりました。

 

だけれども、左眼にずっとガスが注入されていて、見えない状態。しかも、右の方を向いて寝ないでくださいと言われ、何とも奇妙で不自由な生活でした。

 

PCの画面って、とっても眼が疲れるというのを改めて実感した次第です。

 

ようやく眼も使えるようになってきたかなと思ったら、今度は、母の物忘れの度合いが早まって・・・

 

母の実姉が亡くなった前後から、一人暮らしが限界みたいなことを言い始めて・・・けれども、実姉は94歳で亡くなって、認知症で施設に入っていたから、何年も行き来はしていなかったのだけれど。身近な人の死というのは、無意識のうちに影響されるものなのでしょうか。

 

とりあえず、今後のことを、帰省して話し合うつもりでした。ところが、私が網膜剥離になってしまったものだから、母もかなり動揺してしまいました。

 

でも、私は術後なので、長距離の移動はできないし、なんとももどかしかい思いをしました。

 

そういうとき、助けてくれたのは、実家の両隣のご近所さん。長年のお付き合いで、そのうちの一軒は、母も私もお姑さんが高校生の息子さんがいた頃から知っていたお家。

 

だから、同居した息子さんのお嫁さんの苦労は言わずともわかっていて、母はいろいろと聞いてあげたり、父も友達とゴルフに行くとき、夫婦で誘ってあげたりしたのが、嬉しかったと言ってくださって、毎日、訪ねてくださったり、異変に気づいて、かかりつけの病院に連れて行ってくださったりとかしてくださいました。

 

本当に本当に、有難い(有ることのほうが難しいという意味もあるのですが)とはこのことだと、母と共に手を合わせる日々です。

 

術後の状態も回復し、お盆前に、帰省しました。母も、日々共にいると落ち着いてきました。介護も、認定が下りる前に、前倒しができるんですね。もちろん、認定が下りなければ、自費で払わなければなりませんが、帰省している間に、いろんな手続きをしたり、訪問をうけたりしなければならず、バタバタして、休む間もありませんでした。

 

が、家の諸々の管理のことを考えると、自分と母の二世帯分を、遠く離れたところからするのは私もきついので、いずれ、Uターンしようと思っています。

 

当座は、実家との往復を月1か2でしなくてはならず、ブログを書く時間もどうかな?というところです。

 

そのうち、介護日記みたくなるかもしれませんね。

 

ただ、あんなにてきぱきして、自分も他人も律していた母が、なんだか子どもみたいにマイペースで、ゆったりしているのを見ると、どちらかと言えば、子どもの頃そうだった私と、今は逆転しちゃったな、と思います。

 

母の子どもぶりに、泣き笑い(ってこんなもんだと初めて知りました)したこともあったけど、貴重な体験をしているのかな、とも思っています。

 

体験とは、ひとりの人間が、存在するという事実をめぐって得ている知識を、狂熱と不安のなかで疑問に投ずること(試練にかけること)である。この狂熱のなかで、人間がなんらかの理解力を持つに至るしても、彼には、「私はこういうものを見た、私の見たのはしかじかのものだ」と言うことはできない。「私は神を、絶対を、諸世界の底を見た」とは言えない。言えるのはただ、「私が見たものは知力を絶したものだ」 ということだけだ。そして神、絶対、諸世界の底は、もしそれらが知力のカテゴリーに属さないものなら、何ものでもありはしないのである。(ジョルジョ・バタイユ『内的体験ー無神学大全』、出口裕弘訳、平凡社)

 

神、絶対、諸世界の底、というのは、透徹した境地そのものなのだろうと思います。試練にかけられて、ふとそうした境地に達することはあります。それは知力では到達しえないものであり、それこそが、体験 と言えるものなのでしょう。喪失の体験は、まさにそのようなものだと思います。

 

またいつブログを書くかわかりませんが、時折、開いてくださったら、嬉しく思います。

 

 

 

 

 

ときめきが続く、お花の定期便bloomee(ブルーミー)