夜祭幻想 | さびしいときの哲学

さびしいときの哲学

大切なひとを失った方、一人ぼっちで寂しいと思う方へのメッセージ

昨夜、市内の神社仏閣での屋外アートとライトアップの催事に行ってきました。

 

日中は来る人を浄め癒す神社仏閣も、夜は門を閉ざし、また閉ざさないまでも、立ち入るのを拒むような気に充たされる空間になります。

 

それはそうした場が、夜には、現世のものではないものにとっての空間となるからでしょうか。

 

ただ、祭りの日は、人間とカミが、そして生者と死者が行き交い、出会う場となるのでしょう。

 

 

私は、あの日から今まで、本当に悲しみ苦しんできたんだろうか。そして悲しみや苦しみに向き合ってきたんだろうか。してはいけないことをして、グリーフについて、いろいろと考えを巡らしながらも、肝心の自分はグリーフから最も遠ざかったところにいたのではないのだろうか。

 

自分はちゃんと悲しんだのだろうかという思いは、今もあります。

 

夫を亡くしたとき、今までもそんなに秩序があったわけではなく、波風のない穏やかな人生を送っていたわけでもないけれども、そういう環境から、一転、混沌に投げ込まれたような感覚がありました。

 

そういう私を救ってくれたのは、夫を家に連れて帰り、お通夜まで寝かせておいた居間の横のキッチンで、布団を並べて共に一夜を過ごしてくれた弟でした。

 

雲散霧消しそうな意識の中から「なんとかやっていくよ」と必死に発した言葉に、弟は応じてくれた。なんと応じてくれたか具体的な言葉は思い出せないけれども、呼びかけに応じてくれた弟の存在が、当時の私を救ってくれました。

 

もっとも、彼の夫に対する見方は、批判的ではありました。けれども、遺品に夫のささやかで愛おしい営みを感じて、不意に涙をこぼし、「ずるいよ、こんなもの見たら、、、」と横を向き、声を詰まらせた弟ではありました。

 

10年経って、今、私はあの時のような混沌に投げ込まれているような感覚があります。あのときに、他に気が削がれて向き合えなかったものに向き合うときがきたのかと思います。

 

生者と死者が交わる祭りの夜、帰宅してのしかかるような疲労感のなか、そういう自分に気づきました。

 

けれども、それは全くの闇ではなく、穏やかな明るい夜にいるような気分でもあります。

 

秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があって、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射しているのでありました

 

陽といっても、まるで硅石か何かのようで、
非常な個体の粉末のようで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもいるのでした

 

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでいてくっきりとした
影を落としているのでした

 

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもいなかった川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れているのでありました……

 

           一つのメルヘンー中原中也「永訣の秋」

 

ハイデッガーの『形而上学とは何か』に、「不安の無の明るい夜」という表現があります。

 

混沌にいる自分に気づいたとき、不安でありながらも、そこにいる自分、そこから何かを発しようともがいている自分がいる。呼びかけているのは、さらさらという音ですが、それは自分から発せられた音でもあります。その音に気づいた時、その音が自分からの呼びかけに応じた音となって聴こえてくる。

 

あのとき、夫と弟と私が、根底でつながったのだと改めて思いました。

 

けれども、祭りの夜に、今まで覆い隠してきた混沌が顕れてきました。本当はそれは心の奥底にありながら、誤魔化してきたこと。

 

秋の夜にさらさらと射す陽。不安の無は、決して闇ではなく、混沌にある自分を物哀しく、けれども心地よく照らすものがある明るい夜。その灯りは、実は自分から発せられたものであり、更に言えば、自分の根源にあるものから照らされたもの。

 

わたしは、今そこに在る。小石の上に、蝶はいつとまるのかわからないけれども。