二ヶ領用水宿河原堰の下流1㎞ほどのところに広がる石の河原。住所は宿河原5丁目あたり。川幅が狭くなり、流れは深く速い。
対岸の狛江市駒井町あたりは、やや切り立った崖に近い地形でテトラポットが置かれている。地盤がえぐられないようにしてるのだろう。この崖の上には民家が立ち並んでいるのだ。
宿河原という地名は古く、14世紀、吉田兼好の「徒然草」に登場する。
その第百十五段はこんなふうに始まる。
「宿河原といふ所にて、ぼろぼろ多く集まりて、九品の念仏を申しけるに、、、、」
(「新訂 徒然草」岩波文庫)
「ぼろぼろ」とは「非僧非俗の無頼乞食の類で、徒党を組み、山野に放浪した類の人々。」
と脚注されている。そんなぼろぼろの集まる念仏道場が宿河原にあったらしい。その道場に「いろをし」というぼろを訪ねて「しら梵字」という者が来て、殺された師の恨みを晴らしたいと言う。仇討ちである。
「いろをし」はいさぎよく、道場を汚すことはできないから前の河原でと答え、ふたりは河原で「心行くばかりに貫き合ひて、共に死にけり。」とある。
兼好は何を考えたのだろう?
「世を捨てたるに似て我執深く、仏道を願うに似て闘諍を事とす。放逸・無慙の有様なれども、死を軽くして、少しもなずまざるかたのいさぎよく覚えて、人の語りしままに書き付け侍るなり。」
世を捨てたように見えて我執深く、念仏修行するとみせて闘争を事とする、そんな破綻した者が、どういうわけか死ぬことを何とも思わない、そのこだわりのない生き方がいさぎよく思われて書き付けたというが、その「いさぎよさ」を称賛するでなく、非難するでもなく、感心したわけでもあきれたわけでもないだろう。そのあたりの兼好自身の機微には触れていないように読める。ある種、言葉にならない複雑な感情を、言葉でどう表現すればいいのか。論評のしようがないから「人の語りしままに書き付け」るよりほかなかった。そういうことなのだろう。
小林秀雄はその名文「徒然草」の最後を、
「徒然なる心がどんなに沢山な事を感じ、どんなに沢山な事を言わずに我慢したか。」という有名な一文で結んでいる。
言えることを言わずに我慢したのではない。どれだけ言葉を紡いでも伝えることのできぬ思いなら、言葉にしないほうが良い。無理やり言葉にしたところで誤解の種をまくだけのことだ。だから我慢したのではなく、我慢せざるを得なかったのだと、私はそう思う。物書きがする言葉との「格闘」がそこにある。
誰でも気楽に発言できる現代、言葉にできないことも安直に言葉にしてしまう時代。何かを言ってるようで、結局は何も言えていない、そんな無意味な文章があふれかえる時代に私たちは生きている。
「いろをし」と「しら梵字」が「心行くばかりに」切りあった河原はこんな石の河原だったか、葦の生い茂るような河原だったか、写真を撮りながら、そんなことを考えていた。