キリストの降誕 〔カタリーナ・エンメリック〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・福者アンナ・カタリーナ・エンメリック(18世紀、ドイツ)の幻視より

 

 “二人は崩れた城壁の間を通り抜けて道を歩いて行った。丘の前にはさまざまな木が立ちならび、その丘に一つの洞穴があった。そこがヨゼフの考えていた場所であった。近くには人家もなく、その洞穴の一方は荒壁になっていた。ヨゼフはこれまでベツレヘムでは親切にもてなされるだろうと何度も話していたので非常に悲しみ、また心の中で恥ずかしく思っていた。

 洞穴の前には庇(ひさし)があった。その下にヨゼフはろばを入れ、またマリアのために心地の良い場所を用意した。

 二人がここに来たのは八時頃で、既にあたりは闇に閉ざされていた。ヨゼフは灯をつけて洞穴に入った。入り口は非常に狭かった。

 蘆のように太い、いろいろの種類の藁が厚く壁に立てかけてあり、その上に褐色のむしろが掛けてあった。そのさらに奥の洞穴の部分はまったく乱雑であった。

 ヨゼフはその中でマリアの寝場所となるだけの広さを片付けた。マリアは敷物の上に坐り、自分の荷物を脇に置いてそれによりかかった。

 ろばも中に入れられた。ヨゼフはランプを壁に掛けた。

 マリアが腰を下ろしてから、ヨゼフはふたたび野原に行き、水嚢に水を満たすため小さな流れに浸した。それから町へ行って、小さな鉢と旅袋をたずさえてきた。洞穴の入り口で火をたき、また水を満たした水嚢を持ち帰って食事の用意をした。食事がすんでからマリアは蘆のしとねに敷物を拡げてやすんだ。ヨゼフも自分の寝床を洞穴の入り口に設け、もう一度町へ出掛けて行った。かれは洞穴の入口をすき間風が入らないようにすべてふさいだ。

 マリアはひざまずいて祈ってから敷物の上に横になり、荷物の上に両腕を添えて頭をもたれかけた。

 

 ヨゼフは町から衣類や干した果物を持ってきた。かれがもどって来た時、マリアはわたしの時が今夜に近づいていると言った。そしてヨゼフに、宿を貸そうとしなかった薄情な人々のため一緒に祈ってくれるよう頼んだ。ヨゼフは町に行って二、三人の女の人を頼んで来ようと言ったが、マリアはそれを断り、出産の助けは一人もいらないからと答えた。それでかれはマリアを残し、自分の寝場所へ行った。

かれは自分の場所に行く前にもう一度ふり返った。マリアは寝場所にひざまずき、顔を東の方に向けて祈っていた。かれは洞穴が光に溢れるのを見た。マリアはまったく焔に包まれているようであった。それはあたかもモーセが燃えさかる茨の叢の中をのぞき見た時のようであった。かれは祈りながら顔をおおってひれふし、もはやふりむこうとはしなかった。

 マリアの周囲の輝きはますます増していき、ヨゼフが取りつけた灯は消えたようになった。マリアのゆるやかな白い衣は地上に延びひろがっていた。十二時頃マリアは祈りの内に脱魂状態となり、体が地面から引き上げられ、体の下の地面が見えてきた。周囲の光がいよいよ輝きを増した時マリアは幼児(おさなご)イエズスを産んだ。マリアの膝の前の敷物に置かれたその幼児の輝きは他のすべての光にまさっていた。

 マリアはなおしばらく脱魂状態であった。かの女は幼児の上に布をかけたが、手では触れなかった。しばらくたつと幼児は動きだし泣き始めた。マリアはやっとわれにかえり、幼児を胸に抱き布で包み、全身をベールでおおって坐っていた。天使達がその周囲を取り巻いて、伏し拝んでいた。

 マリアがなお祈りつづけるヨゼフを呼んだのは、出産が終わって一時間程たった後であったろう。ヨゼフはマリアに近づくと、祈る心が外にあふれて喜びと尊敬のあまり膝をかがめた。マリアは天よりのとうとい贈り物をよくながめるようにと言った。ヨゼフは幼児を自分の腕に抱き取った。

 それからマリアは幼児イエズスを小さな腕の下までくるんで、秣槽(まぐさぶね)の中に置いた。

マリアはこの秣槽に蘆やそのほかの柔らかい草をいっぱい入れ、その上に敷物をひろげた。マリアが幼児を秣槽にやすませると、二人は涙のうちに賛美歌を唱えてその側に立った。

 マリアは少しも病人らしくなく、また疲れてもいないようだった。かの女は出産の前後とも白衣を着ていた。

 わたしはこの夜不思議な喜びを多くの土地に、遠く離れた土地にさえも見た。多くの善意の人にとっては憧れが喜びのうちに満たされた。一方悪意の人は不安に駆られていた。またたくさんの動物がうれしそうに飛び廻り、多くの泉が湧き出で、各地に花が咲き、草や木がかぐわしい香をただよわせていた。地元ベツレヘムでは空がどんより曇り、陰うつな赤い光がただよっていたが、羊飼い達の谷や秣槽のまわりにはさわやかな輝く靄(もや)が立ちのぼっていた。

 

 小屋や野原には家畜の群れがいた。小屋の前に立っていた三人の羊飼いはこの不思議な夜に心を打たれ、あたりを見廻すと秣槽の上の明るい輝きが目に入った。その時ひとむらの光雲が三人の方に降ってきた。その雲の中に満ち満ちたものがゆれ動き、甘美な静かな賛美歌の声が近づいてきた。羊飼い達ははじめは恐れていたが、間もなく神の栄光を歌う愛らしい輝く天使達が前に立つのを見た。またほかの羊飼い達にも天使が現れた。

 最初に三人の年老いた羊飼いが贈り物をたずさえて秣槽の所に来た。洞穴の入り口で、かれらはヨゼフに向かい、天使から知らせを受けたこと、そして神の約束の幼児を礼拝し、捧げ物を献上するために来たことを告げた。ヨゼフはその捧げ物を受け取り、幼児イエズスを膝の上に抱いているマリアの前に案内した。羊飼い達は地にひれ伏し、うれしさのあまり涙を流して、甘美さに浸りながら長い間そこに留まっていた。かれらは天使賛歌と詩篇を歌った。そして帰るときになるとマリアは幼児をかれらの腕に抱かせてくれた。

 次いで別の羊飼いがその妻や子供をつれ、捧げ物をもって訪れて来た。かれらは秣槽で非常に愛らしい詩篇と短い詩を歌った。その詩のことばは次のようである。

   ああ、赤いばらのような童(わらべ)よ

   先ぶれのように走り出て。

 この者たちは鳥や卵や蜜や、色とりどりの撚り糸を持ってきた。三人の老羊飼いは代わる代わる訪れて、洞穴の中を居心地よくするためヨゼフに手を貸した。”

 

(「カタリナ・エンメリックによる 聖家族を幻に見て」(光明社)より)

 

*以前、イエスの生まれた日は12月25日なのに、なぜ24日のイブの方を盛大に祝うのか?という質問をされたことがあります。これは、ユダヤでは日没をもって一日の終わり、始まりとしているので、24日の日没から既に25日となっており、つまり我々の暦では24日の夕方から25日の朝にかけての真夜中に降誕されたと伝えられているからです。

 

*福者アンナ・カタリナ・エンメリックは、数々の幻視を書き残していますが、メル・ギブソン監督は映画「パッション」の製作に当たり、彼女の幻視の中のイエズス・キリストの御受難に関するもの(「イエズスのご受難を幻に見て」光明社)を参考にしています。この映画はイエズス・キリストが処刑されるまでの最後の12時間を描いたものですが、セリフもすべてアラム語で、かなり生々しく、非常に良くできていると思いました。ちなみにアラム語は、2000年後の今もシリアのマアルーラやサイドナヤという村(確かダマスカスから車で1時間くらいです)で話されていたのですが、数年前に過激派に占拠され、村にあったギリシャ正教の修道院(聖テクラの聖地でもあります)も閉鎖されてしまいました。現在はシリア政府が奪還し、徐々に復興しつつあるようですが、ぜひともこの貴重な言語を伝え続けてほしいと思います。

 

 “ところで、その地方に野宿して、夜、羊の群れの番をする羊飼いたちがいたが、主の栄光があたりを照らし、主の天使が近くにあらわれたので、かれらは大いに怖れた。すると、天使は、「怖れることはない。すべての人々のための大きな喜びの知らせを、私はあなたたちに告げよう。今日、ダヴィドの町で、あなたたちのために、救い主がお生まれになった。すなわち、主キリストである。あなたたちは、布に包まれて秣桶(まぐさおけ)に寝かせてある嬰児(みどりご)を見るだろうが、それがしるしである」と言った。するとたちまち、天の軍勢の大軍が天使に加わり、「いと高き所には神に栄光、地には善意の人々に平和あれ」と神を賛美した。”(ルカによる福音書)

 

聖なるかな。

聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主。

主の栄光は天地に満つ。

天のいと高きところにホザンナ。

ほむべきかな、主の名によりて来たる者。

天のいと高きところにホザンナ。

 

 

 

 

 

 

 

 


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