「歌祭り」で雨を晴らした話 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “歌なるものは実に霊妙なるもので、治国平天下の大道も歌の力によって遂げ得らるるものである。葛城王は采女の歌によって国司の罪をゆるし、菅原道真は小大進の歌によって濡れ衣を脱いだ。紫式部は歌によって貞操を全うし、和泉式部は歌によって赤繩(えにし)の絶えんとせしをつなぎとめた。

 「風吹かば沖津白波立田山山夜半にや君はひとり行くらむ」

の歌は覆水を盆にかえさしめた。

 「我もしか泣きてぞ」の歌は、後妻を追わしめ、大隅の郡司の歌は、国司の笞(しもと)をなげうたしめ、安倍貞任の歌は八幡太郎の矢をとめしめた。安倍仲麻呂の歌は唐人を泣かしめ、能因法師の歌は三嶋明神の神感を得、小野小町の歌は旱天に雨を降らしめたためしもある。

 ……されば神代の昔より人の世の今日にいたるまで高下貧富の別なくこの道を尊まぬものはないのである。……

と、聖師さまは「歌道」の一節で述べられています。

 私は先日楽天社の巡回講座で三重県へ参りましたが、主会長位田統一氏より右のお言葉を裏書きするような、歌によって雨を晴らし、雨を降らした事実談を聞きました。

 「昭和廿三年○月三重県員弁町の一帯は雨が四十日間も降り続いていたのであります。明けても暮れても雨、雨の悪天気で、河川ははんらんし畑のものは徒長し、種蒔、手入れも出来ない。人々の心も憂うつになってしまいました。

 私は当時、員弁町の農協理事をしておりましたが、この長雨を心配し、何とか出来ないものだろうか、このままでいつまでも自然に雨の止むのを待っているというような悠長なことは、もう一時も許されないと、いろいろ考えた末、聖師様のお言葉を思い出しました。そうだ神様に雨晴れのお願いをしよう。と決心いたししましたが、さてどういう形式にしたらよいものかと、いろいろ考えましたが、「歌祭」の形式で祭典をするのが一番良い。幸い天恩郷で「歌祭」を拝見している。これが良い。そして歌を奉る、歌をお供えして雨晴れをお願いしよう。聖師様は『まごころでお願いしたら何でもお聞き届け下さる』とあの席で仰せになった。

 が、真向から大本をひょうぼうしてやったものかどうか、一般の人の誤解を解く上に非常に良いことであるが、此の地方一帯の人たちに呼びかけて挙行しよう。もちろん中心は大本信徒として、それが良いと決心しまして町長以下有識者にこの事を呼びかけました。幸い皆賛成してくれ、進んでその準備にかかってくれたのであります。

 先ず一般有志から『雨晴れ祈願の歌』を募集しましたが、御二十何首か集まりました。会場は公民館として祭壇を設け献詠、献饌をし、祭典祝詞の後に朗詠するのでありますが、御降臨を願う神様は大本皇大御神様か、これは余りにも畏れ多い。色々考えた末、伊勢北の国魂神様と申し上げてご降臨を願おう、実際には何神様か分からないのですが、この土地をうしはぎ給う神様がいらっしゃるであろうと、仮に北の国魂神様と申し上げました。

 当日も朝からどんどんと雨が降っております。公民館一杯になる程参列者はありましたが、中には『何を大本さんやるのか』『雨が止んだらおなぐさみ』ぐらいの気持、冷やかし気分の人も混じっているのです。そうした雰囲気がよく分かり伝わってきます。『歌』でお願いしたら何でも叶えて下さるとは云いながら、今までにこうした祭典の行なわれたことを聞いたこともなし、ただただ聖師様のお言葉を信じて始めたのでありますが、これはえらいことになった、何としてでも聞きとどけて頂かねばならぬと、祭員一同真剣な気持になってきました。

 順調に祭典は進みまして献詠歌の朗詠に移りました。弓太鼓、八雲琴に合わせて一首一首を『ひなぶり調』で朗詠したのです。が、雨は中々止みそうもありません。朗詠も終わり撤饌にかかりました頃、少し雨は弱くなって来たように思われました。『かんながらたまちはへませ、かんながらたまちはへませ、々々々。』何卒々々大神様のお加護で雨を晴らして下さいませ。お願い申し上げます。お願い申し上げます。と、それはもう一生懸命でございました。

 伊勢北の国魂神様におあがりを願い、ようやく祭典も終わりました頃、雨は止みました。そして次第に雲がうすくなって行く。神様はお聞き届け下さったのであります。あのときの有難さ、嬉しさは言葉に尽くされません。夕方までにはすっかり空も晴れて美しい夕映となりました。さすがの長雨もこの時から止んだのであります。ぐうぜんと云う人は云え、私は信じました。聖師様のお示し下さった通り『歌の功徳』であります」

 位田さんは細い眼をしばたたいて当時のことを感激しつつ話して下さいました。

 ところがもうひとつあるのですよ、と面を上げて眼を輝かします。「次に雨乞い」をして雨を降らしていただいたのですと。

 「その翌年でした。今度は何日も雨が降らないのです。田植え前でしたのに旱つづきで田が干上がってしまい、植付けが出来ません。去年とは反対なのですが、もう一度「歌祭」の形式で雨乞いの御祈願をしようということになりました。『雨晴れの祈願』は経験済みですが、『雨乞い』は始めてですからやはり心配しました。町に計り一般から『献詠歌』を募るなど、その他の行事進行は前年の通りでありました。伊勢北の国魂神様にご降臨を願いました。この日は祭典が終わりましても雨が降りませんでした。人知れず心を痛めましたが、次の日の朝から雨が降り出したのです。そして大雨となり、一日一晩降り続きました。おかげですっかり田にお水を頂き植付も順調に出来たのであります。去年と今年と、『歌』でお願い事をするこうした祭典で私自身大変なおかげを頂きました。聖師様のお言葉に間違いはない、真剣な気持で実行したら何事も必ず実現させて頂けると云う信念が持てるようになりました」

 位田さんの体験談を聞いて、聖師様のお言葉が単に往古のことを例に引いただけではない、何時どこでも実践して誤りのない事実である、とあらためて思い直しました。

 ちなみに三重県の同地方は昔入江であったと、かつて日出麿先生ご巡教の時におっしゃった由でありますが、山裾には貯水池、溜池等が多くそれぞれ龍神様がお祭りしてあります。そうした池にかかわる靈異談も聞きましたが、これは稿を改めて書くことに致します。”

 

(「おほもと」昭和32年6月号 津田良則『歌祭りで雨を晴らした話』)

 

・「言霊と和歌の徳」

 

 “大神様にお願い事をするにしても、和歌を詠んでお願いするようにしなければならない。

 和歌というものは、和歌の徳によって天地神人を感動せしめ、鬼神をも哭かしむることが出来るのである。昔から例えば、源実朝が和歌を詠んで雨を霽(は)らしたこと、小野小町が歌によって雨を降らせたこと、また俳人宝井其角が「夕立や田をみめくりの神ならば」の一句によって雨を降らせた、ということも伝えられている。それに対して蜀山人が、「歌よみは下手こそよけれ天地(あめつち)の動き出してはたまるものかは」といっているように、一首の歌でさえ、天地を動かしめることが出来るものでる。

 大本の神業が今後発展してくれば、和歌により、神と人との交流交通を計り、そのみ心を和めなければならないのである。始めから和歌を作れといっても無理な人々には、大衆の親しみやすい冠句、沓句をやらせて、そのうちに和歌の境地に入ることが出来るように指導せねばならぬ。またそこまで進めなければならないのである。

 明光社は、そういう主旨によって生まれてき、作られたのであった。

 また、近頃、「作歌」ということをよくいうが、和歌は作るべきものではなく、詠むべきものである。ほんとうに自分の心に感じたこと、また目を通して心に映って来るままのことを、そのまま三十一文字の中に詠ましてもらうのである。

 考えて作った歌の中には、生きた歌は少ない。神人を感動せしめるような歌は、なんの技巧も加えない、腹の底からあふれ出るものでなければならない。

 これからの大本の人は、皆和歌を詠めるように精進しなければならぬ。和歌はすべて、善言美詞(みやび)の言霊によって森羅万象を美化し、人間社会ことごとくを美化せしむる。その徳を養わねばならぬ。

 

(「おほもと」昭和53年9月号 出口王仁三郎『言霊と和歌の徳』)

 

 

*出口王仁三郎聖師は、『もし、その土地の神様がどなたかわからなくとも、その場所の地名で申し上げればよい』と言われています。さすがに個人で「歌祭り」を行なうことは不可能ですが、祈ることであれば誰にでもできます。普段から住んでいる土地の神様に感謝申し上げ、繋がっておくことです。

 

・産土神について   〔出口王仁三郎聖師〕

 

 “産土神社はその土地の神様で、その土地を創造せられ、その土地へ永遠に御住居ます神様のことで氏神様とは異なる。

 それで産土の神様を拝みまたお祈りする時には、その土地の地名を始めにつけて、何々村の産土の大神様と唱えて奏上すれば、必ず御許に届くものである。世界中各地に産土神は居られるが、そこの地名をあげて申し上げればよいのである。

 

(「木の花」昭和26年1月号『聖師の言葉』より)

 

 

*ちなみに、源実朝が詠んだ「雨を晴らした歌」とは以下の歌です。災害級の大雨になりそうなとき、多くの人が神に祈り、この歌を唱えることで大難を小難にできるかもしれません。

 

  時によりすぐれば民の嘆きなり 八大龍王雨やめたまへ

(源実朝『金槐和歌集』)

 

 

*あと、道教の道士による雨乞いの話で興味深いものがありますので紹介させていただきます。私は道院・紅卍字会で、ある修方が「先天の坐」を実修していて起こった現象として、これに似た話を聞いたことがあります。

 

・道教の雨乞い

 

 “「錬金術師によれば、宇宙と物質を秩序づけるためには、まず自分自身に秩序をもたらさねばならなかった。『易経』の翻訳者であるリヒャルト・ヴィルヘルムはこのような考え方に触れて、次のように語っているが、なかなか興味深い。

 ヴィルヘルムは、かつて数ヶ月間きびしい旱魃に見舞われた中国の小さな村に滞在したときのことをこう述べている。その町の議会は、可能なかぎりのあらゆる魔術を試みたが、ついに雨乞い師を呼びよせることに決定した。まもなく道士が到着した。彼は三日間、誰にも邪魔されずに籠もれるような村はずれの家の小さな部屋を貸してくれるようにおだやかに頼んだ。三日目に雨が降った。道士は部屋から姿を現わし、帰路についた。ヴィルヘルムはこの出来事の不思議な成り行きに好奇心をそそられ、その道士に近づき、まさに西洋風ではあるが、どうやって奇蹟を起こしたのかと尋ねた。道士は、それはまったく簡単なことだと説明した。雨乞いに招かれる以前、彼はずっと「道(タオ)」の中にいた。旱魃の村に到着したとき、彼は道の外にいた。彼は自分自身を道の状態に戻せるよう、人里離れた場所に引き籠もった。彼がいうには、いったんこの状態が達成されれば、当然のことながら、自分のまわりのすべてが道の中に入るのである。

 

  (チャールズ・ポンセ「魔法遊戯 シンボルの宇宙図」(平河出版社)より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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