墓と風水 (祖霊との感応) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “……風水説では地中を流れる生気と先祖または父母など死者の気(鬼神といわれる)、それに死者を祭る子孫(生者)の生気とかがこもごも感応する。それによって子孫は繁栄する、あるいは加護される、と考えられている。そこで中国人は墓を重視するのである。”

 

 “「易」咸卦の彖辞に、「柔上にして剛下なり、二気感応してもって相与す。(中略)天地感じて万物化生す。聖人人心を感じて、天下和平なり」とある。感応という語の、おそらく最も古い例かと思われるが、ここでは陰陽二気(男女・天地・聖人と人)が感応し和合して万物を生み出したり、天下の和平がもたらされることを説いている。この感応は異類の陰陽二気によるものである。前漢時代の董仲舒(前一七九-前一〇四)は、同類の気の感応を説いて、これによって雨を降らせたり止めたりできるという。

 天地には陰陽の気があり、人にも陰陽の気がある。天地の陰気が起こると、人の陰気もそれに感応して起こる。人の陰気が起こると天地の陰気もそれに感応して起こる。その道理は一つだ。このことに明らかになれば、雨を呼びたいなら、自分の陰気を動かせば、天が陰気の状態になり、雨をやませたいなら、自分の陽気を動かせば、天が陽気の状態になる。それゆえ、雨をもたらすというのは、神秘的なことではなくて、神秘的に見えるのは、その道理が微妙玄奥だからだ。(『春秋繁露』同類相動篇)

 董仲舒は儒学の国教化を提言した学者として知られているのだが、彼の伝記によると、求雨・止雨の術を思いのままに操ったといい、呪術者でもあったことが分かる。

 先に引用した郭璞『葬経』の説明で、亡くなって葬られている父母の鬼神(気)が、生者に感応するという点を補足説明すると、この両者は同一の気であるからこそ感応するといえる。もし他人を祀ったとしても、そこに感応は生じないだろう。『呂氏春秋』精神篇に、「父母と子とは、一体のもので両(ふた)つに分かれているのであり、同じ気でありながら息が異なっているのだ」とあるが、父母の気と子の気とは同類の気として連続しているのである。後世、朱子もこういう。「問。子孫がその誠敬を尽くせば祖考(先祖)がただちに感応するというばあい、(そのときの気は)空虚にある気でしょうか。それとも吾が身の気でしょうか。 答。自分の気にほかなりません。思うに、祖考の気は己れと連続しているのです」(『朱子語類』巻二五)と。

 このように感応の概念は、呪術・占星・風水・祭祀などといろいろな面にわたって「気」の重要な性質をなしているといえる。ユングの共時性の概念によく似ていると思われるかもしれない。特に先祖の気の感応というばあいは、子孫の下意識において、先祖と通じあっていると考えるべきだろう。”

 

(「季刊AZ 29号【特集】ユング こころの神秘」(新人物往来社)/ 坂出祥伸『方術の種々相――「気」の占方』より)

 

 

・道教の道士による雨乞い (天地との感応)

 

 “……宇宙と物質を秩序づけるためには、まず自分自身に秩序をもたらさねばならなかった。『易経』の翻訳者であるリヒャルト・ヴィルヘルムはこのような考え方に触れて、次のように語っているが、なかなか興味深い。

 ヴィルヘルムは、かつて数ヶ月間きびしい旱魃に見舞われた中国の小さな村に滞在したときのことをこう述べている。その町の議会は、可能なかぎりのあらゆる魔術を試みたが、ついに雨乞い師を呼びよせることに決定した。まもなく道士が到着した。彼は三日間、誰にも邪魔されずに籠もれるような村はずれの家の小さな部屋を貸してくれるようにおだやかに頼んだ。三日目に雨が降った。道士は部屋から姿を現わし、帰路についた。ヴィルヘルムはこの出来事の不思議な成り行きに好奇心をそそられ、その道士に近づき、まさに西洋風ではあるが、どうやって奇蹟を起こしたのかと尋ねた。道士は、それはまったく簡単なことだと説明した。雨乞いに招かれる以前、彼はずっと「道(タオ)」の中にいた。旱魃の村に到着したとき、彼は道の外にいた。彼は自分自身を道の状態に戻せるよう、人里離れた場所に引き籠もった。彼がいうには、いったんこの状態が達成されれば、当然のことながら、自分のまわりのすべてが道の中に入るのである。

 

(チャールズ・ポンセ「魔法遊戯 シンボルの宇宙図」(平河出版社)より)

 

 

*本場の中国では、「風水」で最も重視されるのは、先祖の墓を何処につくるかということでした。日本でも墓相というのがありますが、親や先祖がいなかった人など存在せず、先祖と自分の「気」が同一であるならば、必ずそこに感応がありますし、もし先祖の霊が苦しんでいるとしたら、ほぼ自動的に子孫も苦しむことになるわけで、ならば子孫が幸せになるためには先祖の墓の場所や供養が何よりも優先されねばならないのは当然です。そして、儒教において「修身・斉家・治国・平天下」と説かれるように、単なる個人や家族の幸福にとどまることなく、血縁とともに地縁というものも考えれば、どうしてもその地域にある神社を大切にせねばなりません。日本の神社はもとは古墳だったところが多いですし、官公の墓所に建てられた太宰府天満宮のように、結局神社のほとんどは古代の英雄や聖人を祀ったもので実質的に墓と変わらず、神社のお祭りとは、彼らの供養祭でもあります。そしてさらに国家全体の幸福について考えるならば、必ず「国魂」のことが問題となり、その「国魂」と国民の感応ということであれば、当然出口王仁三郎聖師が言われたように、国祖大神との『マツリ』が何よりも重要となります。以前にも書きましたが、出口聖師は、天皇陛下や皇室のために祈るときは、亀岡の天恩郷でではなく、自ら出雲大神宮まで行かれ、そこで祈りを捧げられました。側近から理由を尋ねられて、「大国主の神様であるから、日本の一大事の時にはここへ来るのが本筋だ」と答えられたことが伝えられていますが、京都府亀岡市の出雲大神宮には「国祖国常立尊の御神陵」があるのです。

 

・国魂による世界秩序

 

 “「民族自決」の言葉が第一次欧州大戦の平和会議で日本から提案されたとき、一応否決されたが、既にそれより以前に、出口聖師は、

―― 国魂を源流として民族というものが発展したのであるから、国魂を混合したり、無視したりしたら、世界は治まるどころか混乱する。真の平和な世界をつくろうとすれば、国魂によって民族は自決し、国魂に基づいた国家の形成ができなくてはだめだ。将来民族問題は大きく紛争を繰り返して、如何な大国が力をもって統治しようとしても、どうにもならぬことになる――

と主張されていた。

 『わしは平和の世界をつくるには垣をとれといって来た。その垣というのは一つは民族と民族の垣だ。優秀な民族だの、劣等民族だのと、時代の盛衰によって征服されたり、征服したり、民族の発展期のものと眠りにおち入ったものとを表面から見て批判し優劣をきめるようでは平和は来るものではない。神性の解放、魂の解放によって、相互が平等に、互いに尊重し合うようになれば平和の世界は期せずして出現する。わしの平和論は根源を神性に発しているのだから、近代思想などから結論される平和論とは本質において異なっている』

といっておられた。

 そこで、

 「神意によるみろく世界の構想は、それでは国魂の国家形態でなくてはならないのですね」

と念を押して尋ねてみると、

 『そうだ、国魂を無視して、いかに国家形態をつくり、力で統治していても、いつかは反抗して争うことになる。世界に流布されている思想も、その国魂の反抗や不平等から変形的に発生するものが思想の形をとって現われたものもあるから、その点を注意して見ないと、思想だけを見たのでは判らないところがある。だから歴史というものも、国魂の動きと関連して見るようにしなくては真実をつかむことはできない』

ということであった。

 国魂ということになると、これは容易ならぬ問題であって、世界の創造の歴史にさかのぼってゆかなくてはならなくなる。しかし、そうした研究資料というものは無いといってよいのだから、どうにもならないことになる。

 「国魂の歴史を研究するには、どういう文献によったらよいのでしょうか」

 『それは古い宗教書によることになるが、それだとて断片的だ。そこでわしは霊界物語で国魂の配置や、そのかんながらの性格や、動き方について比喩的に発表しておいた』

 「霊界物語に国魂のことは出ていますが、なかなか判りません」

 『知識的に見ても判るものではない。神的英知によったら判る』

 神的英知ということになれば、普通人としてはあり得ないことである。不可能に近いのであきらめるより仕方はない。そこで、

 「研究は不可能ですね。われわれには神的内流はないのですから」

 『ある。信仰信念によって身魂を浄化向上させ、天的な相応の状態になれば、おのずから英知は輝いて来る』

 「そうすると、みろく世界の構想も、真の世界平和のあり方も、すべて宗教的根源から研究しないと判らないことになるのですね」

 『そうだよ。みんなは宗教的宗教的というが、神の創造した世界で神の守護にある以上、神意、神則を見ないで、世界の構成や発展が判るはずがないじゃないか。しかし神ということが判らぬから宗教的にゆかなくてはならないだけのものであって、神の世界ということが判っているものには、宗教的とか信仰的とかいう言葉が、いかにもつけ足したように感じられる。要は宗教的に進んで行くことが真実をつかむのに早いだけであって、神の世界ということが確かになっている者には、みろく世界も、平和世界も、メシヤの降臨する世界も一つで、国魂によって人類はその位置を得、互いに協力一致すれば、それが神代なのだ』

 「そうですか、元の神代にかえすぞよといわれるのは」

 『元の神代の元ということには国祖という意味もある。現代は神をないものにして、人間主体となっている。元切れて末続くと思うなよという神諭もあるが、すべての元、根源に一応帰一して、そこから一切の眼鼻をつけなくては、神的の順序が違うのだよ。外流ではものはなりたたない。内流が外へと流れて形体ができるという根本がつかめておれば、わけなく理解されるじゃないか』

 「知恵や学では世は治まらぬというのですなあ」

 民族問題については、霊界物語の山河草木の卯の巻にも出ていることであるが、出口聖師の民族論も、国家再編成というみろく神世の構想も、神的秩序による根源からいわれるのであって、平和論のごとき、時には誤解を招いたこともあるが、時代思想から批判すると間違いが起きるのもうなずけるのである。”

 

      (「おほもと」昭和32年8月号 大国以都雄『出口聖師と現代社会』より)

 

 

・マツリの真義 (神人感応の連鎖)

 

 “……西行法師が伊勢神宮に詣でて、「何事のおはしますかは知らねども忝けなさに涙こぼるる」と詠じましたが、我国民の君父に対する至情は道理や理屈の上から割り出して忠孝を尽くすのではない。其の大本性が先天的に克く忠にして克く孝なのでありまして、何事の有無を問はないのであります。故に我神国たる日の本の国には古来外国のやうな複雑な政治学も法律学もなく、宗教道徳などの言葉も無かったのであります。彼の万葉集の十三に「蜻嶋倭之國者神柄跡言學不為國云々(あきつしまやまとのくににはかんながらことあげせぬくにうんぬん)」などありまして、後世の如き喧しい言議言論説は無かったのであります。然しながら其の実際に至っては政治も法律も宗教も道徳も至極完備していたのであります。

 今一々各方面に渉って述べる暇はありませんが、要するに我神国は敬神の思想によりて結合されているのであります。即ち神は我等の祖先であり、宇宙の創造者摂理者であり、又君は神の直系即ち吾等の本家であらせらるるといふ観念が、純忠にして至孝なる国民の本性と相結合して成り上がってをるのであります。故に政治は即ち祭事でありまして国語では政治も祭事も共にマツリゴトと訓みます。義は奉事(まつりごと)で物にもせよ心にもせよ此方より彼方へ致す義であります。故に祭礼は人が敬虔思慕教願の情を致し冥々の裡に於ける神の感応を求むるのであります。尚此の言を廣く考へますと臣(たみ)が君を思い子が親を慕ひ婦(つま)が夫を恋ひ弟が兄を憶ふなど皆その至情を致す時は矢張りマツリであります。此れに因って又君親父兄が愛撫の情を垂れるのは所謂感応であります。此の感応に因って更に又敬虔思慕の情を致すに因って更にまた感応を垂れると言ふ風に、マツリの真義が神人の間に始まって万事万端に及ぼし行く時は、家に風波が起こったり国に騒乱が起こる様なはずがないのであります。”

 

         (「このみち」大正5年4月21日号 『皇国の敬神思想』より)

 

・出口王仁三郎聖師の出雲大神宮ご参拝について

 

 “……夜中にも参詣されていたようだ。ハイヤーで乗りつけ、運転手を鳥居の側で待たせた総髪、白衣姿の王仁師は、真っ黒闇の中を拝殿により正座。宿直していた人たちの目撃談によると、毎回はげしい帰神があったらしい。その天地をゆるがさんばかりの感応ぶりを目にするたびに、運転手又当直者は震えおののいたという。

 

 “さて、大本指導者のかくまで頻繁なる往還があったのは、比較的に近いところということもあろうが、もう一つ大きな理由が伏在する。それは社殿の脇に美しく寄り添う御影(みかげ)山がご神体山として古来から崇められており、国常立尊の陵と一般に伝えられているからだ。その典拠は、あるいは富士古文書にあるのかも知れないが、ともかくこの山は典型的な神体山の形を成している。今の社殿建築ができたのは後代になってからで、もとはこの山が神であった。

 御影山は禁足地で、人の手のつかない神々しさを保ち、山頂にはストーンサークルに囲まれた三層の磐座もあるという。王仁師は、当時の宮司の許可を得て登攀されている。

 

   仰ぎ見るさへも畏き御影山は 国常立尊の神の隠れ処(が)

 

   御影山汗しぼりつつ登り見れば かわきを癒す石清水あり

 

   胸突きの坂登りして石清水 むすぶも嬉しき御影山かな

 

   神影山のぼりて見れば亀山は 遠くかすみて壁白く映ゆ

 

(「人類愛善新聞」昭和57年7月号 『丹波一の宮・出雲大神宮 花祭り』より)

 

 

*その他、伊勢や出雲、皇室(天皇霊)の重要性についても、我々はもっと深く考えねばならないように思うのですが、わが国の起源を辿っていくと、結局は伊邪那岐命、伊邪那美命まで遡ることになります。あれこれと検索しておりましたら、伊邪那美命の御神陵のある島根県伯太町の比婆山久米神社では、奥宮の老朽化した拝殿や参道を修繕するために、現在クラウドファンディングを実施中であるというHPを見つけました(3月末まで)。私も昔、ここへ参拝に訪れたことがありますが、確かにかなり山奥にあり、かくも人口の少ない過疎地で神社を維持するのは大変であろうと思いました。実は昭和五年、出口王仁三郎聖師が山陰地方を御巡教になられたときに、比婆山が放つ異様な光をご覧になって、この比婆山久米神社の奥宮こそが、伊邪那美命の御神陵であると断言しておられ、そのうえ当時の比婆山久米神社の宮司は皇道大本で修行された方で、さらに比婆山付近は神代に出雲王朝のあった場所でもありますし、もしかしたら、ここも重要な経綸の地の一つなのかもしれません。もちろん、他にも伊邪那美命の御神陵とされるものはいくつかありますが、古代においては重要人物の墓が各地に複数つくられるのはよくあることで(所持品などを埋葬したそうです)、他の場所が間違いというわけではありませんが、いずれにせよ、伊邪那美命は『国の母』であり、ならば伯太町の御神陵の状態は『子』である日本国民全員の運命にも関わってくることになります。もうあまり日にちも残り少ないようですし、ぜひ、このクラウドファンディングのことを多くの方に知っていただきたいと思います。

 

(山陰中央新報 2024/01/12)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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