般若心経は般若菩薩の御真言 〔空海〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

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 “空といえば般若心経である。あらゆるものには固定した実体がないと認識することによって煩悩を脱する。最も戒められるのが、空への執着である。涅槃に執着せず、むしろ生死即涅槃の認識が尊重される。

  般若心経は長大な般若経のエッセンスである。唯一、異説を唱えているのは空海だ。般若菩薩の真言が般若心経だという解釈である。般若の知恵の源が般若菩薩という女神だというのである。それだけでなく、普賢菩薩(華厳宗)、文殊菩薩(三論宗)、弥勒菩薩(法相宗)、観音菩薩(天台宗)の要点すべてが般若心経に含まれている、と空海は言う。思想の背後に神霊存在を想定するのが秘教的・密教的発想である。

 渡印を目指す玄奘が看病した僧が、

 「われに三世諸仏の心要の法あり、これを誦持して、その旅中の災厄を脱がるべし」

と言って梵文・般若心経を伝授した、と伝えられている。釈迦の十大弟子の迦葉が書いた梵文・般若心経を達磨が中国にもたらし、それを小野妹子が請来して法隆寺に収めたというが、どうだろうか。”

 

(「心霊研究」2009年7月号 西川隆範『瞑想と儀式-その由来・発展・未来像を探る(肆拾)』より)

*一般的に、「般若心経」は最初に『観自在菩薩行深般若波羅蜜多時……』とあるように、観世音菩薩の悟りの境地を説いたお経とされていますが、弘法大師の「般若心経秘鍵」には、観自在菩薩とは『もろもろの教えを学び修行する者(観在薩埵は諸乗の行人)』のことであり、『大般若波羅蜜多心経というのは、大般若菩薩のさとりの心髄となる真言の教えである。(大般若波羅蜜多心経と謂ぱ、即ち是れ大般若菩薩の大心真言三摩地法門なり)』と説かれています。この般若菩薩は、空海が請来した胎蔵界曼荼羅においては、中央にある中台八葉院の中に描かれています。

 

*「般若心経」を学ぶのであれば、当然その解説本を読まねばなりませんが、聖典の解説とは本来はその聖典を著した人物と同等の境地に至った者でなければできないはずです。故に、この弘法大師空海による「般若心経秘鍵」は必読です。もちろん、「般若心経秘鍵」をただ読んだからといって、それだけで「般若心経」を理解することなどできません。聖典の勉強というのは一生涯かけて行うものです。

 

*「般若心経秘鍵」には、

真言は不思議なり。観誦すれば無明を除く。一字に千理を含み 即身に法如を証す(真言の功徳というものは、実に不思議なものである。真言を観想しあるいは読誦したならば、苦のもととなっている無知の闇が除かれる。真言のわずか一字の中に、無量の真理がふくまれる。そうして、真言を観想し読誦することによって、汚泥の中のこの身のままで真理を現出して悟ることができる)。」とか、

一字一文法界に遍じ 無終無始にして我が心分なり(般若心経の一字一文は仏さまの世界に遍満して、終わりも始めもなく私の心の中にある)。」などの数々の貴重な教えが説かれています。そして、これらのことは他の聖典にも当てはまることだと思います。

 

*巻末の「上表文」に以下のように書かれている通り、この「般若心経秘鍵」は、弘仁9年(818)に全国各地で疫病が流行し、その悲惨さに心を痛められた嵯峨天皇が、大師の勧めにしたがって『般若心経』を奉写され、そのときに大師が、御前において『般若心経』について密教の立場での講義を示されたものであり、故に疫病を退散させる力があるともいわれています。

 

「時に弘仁九年の春、天下大疫す。ここに帝皇自ら黄金を筆端に染め、紺紙を爪掌に握って般若心経一巻を書写し奉り給う。予購読の撰に範って、経旨の旨をつつ゛る。いまだ結願のことばを吐かざるに蘇生(そしょう)の族(やから)道にたたずむ。夜変じて日光赫赫たり。是れ愚身が戒徳にあらず。金輪の御信力(ぎょしんりき)のなす所なり。但し神舎に詣でん輩(ともがら)は此の機鍵を誦し奉るべし。昔予鷲峰説法の筵(むしろ)に陪(はんべ)って、親(まのあた)り是の深文(じんもん)を聞き。豈(あに)其の義に達せざらんやまくのみ。

入唐沙門 空海上表」

 

『般若心経秘鍵』に学ぶ (大覚寺のHP)

 

「般若心経秘鍵」について

 

 “この書(般若心経秘鍵)ひとたび発表されて以来、一の経典の如くにわが真言宗においては朝夕の勤行には必ず欠かさず、わけても神祇等への法楽の時 この秘鍵を読誦し、疫癘等の厭わしきこと起こりしとき、あるいは一国の戦乱の起ったときなどにはこの経を読んで怨敵退散を祈ったものである。(小林正盛「般若心経秘鍵講義」)」

とあるように、古来ことあるごとに神社等でこの般若心経秘鍵が盛んに読誦されてきたという歴史があります。”

 

(「福聚講」のHPより)

 

・「福聚講」のHP

 

 

・「聖言(みことば)」について  〔スウェーデンボルグ〕

 

 “私は聖言について天使たちと時々話して、それはその単純な文体のために或る者からは軽蔑されており、その内意については全く何ごとも知らされておらず、そうした理由からその中にはそれほど多くの知恵がかくれているとは信じられてはいないと言った。天使たちは、聖言の文体は、文字の意義では単純なものに見えるものの、それでも、神的な知恵が、たんに文章各々の中にかくれているのみでなく、また各語の中にもかくれているため、いかほどすぐれたものでも、それにたとえることのできるものは一つとしてないほどのものであり、またその知恵は天界では輝きでできていると語り、以下のことを明らかに伝えるようにと望んだのである。すなわち、

  聖言は神的真理であるため、天界の光である。なぜなら神的真理は天界では輝くからである(一三二参照)。彼らはまた言った。こうした聖言がないなら、この地球上の人間のもとには天界の光は何ら存在しないであろう、かくて天界は彼らと連結もしないであろう。なぜなら天界の光が人間のもとに現存するに応じて、人間は連結をもち、同じく聖言を通して神的真理を啓示されるからである

と。人間が聖言の自然的な意義に相応したその霊的意義によりこうした連結が在ることを知らない理由は、この地球の人間は天使たちの霊的な思考と言葉については何ごとも知らず、またそれは人間の自然的な思考と言葉から相違していることも知らず、そしてそのことを知らないかぎり、内意の何であるかを全く知ることができず、またその内意によりそうした連結が与えられることができるということも知ることができないからである。

 彼らはまた言った、

 もし人間がそうした意義があることを知り、聖言を読むとき、その知識から考えるなら、かれは内的な知恵に入り、さらに天界と連結するであろう、なぜならかれはそのことにより天使たちの考えに似た考えに入るからである

と。”

 

(イマヌエル・スエデンボルグ「天界と地獄」(静思社)より)

 

*スウェーデンボルグによれば、聖言(みことば)には文字通りの意味とともに内的・霊的な意味があり、主はその中に内在されます。ならばどの聖典や経典も単なる書物としてのみ見做されるべきではなく、それらの聖句や経文の内部あるいは背後には、人格を持った神的な存在が御坐しますことを意識すべきであるように思います。

 

・「聖言」による内流

 

 “「霊界物語」を拝読するとき、神の言葉を今承(うけたまわ)っているのだという心構えであれば、魂の中に入るけれども、何か小説でも読んでいるような心構えであれば、得るものが少ないのである。

  声を出して読めば、自分の耳に神のお言葉が直接響いてくる。神の御声を聞きつつあるという心で読めば内流となるのである。

 神は現実の世界に住む者に対しては直接内流はくださらぬ。そこで聖言に依って内流するのである。「霊界物語」は瑞霊の教であり、聖言なのである。これによって生命の糧は与えられるのであるから、物語を常に拝読するように心がけなくてはならぬ。物語の中に神は坐しますことをさとらなくてはならぬ。”

 

(「愛善苑」昭和25年7月号 大国以都雄編『瑞言録』)

 

 

 “「霊界物語は私の血であり命である。私の霊が全部この中に入っているのだ」

と聖師さまはおっしゃった。”

 

(「おほもと」昭和48年6月号「天界に通じる法」大国以都雄)

 

 

・「読んでさえおけばそれでよい」

 

 “(聖師さまは)「『霊界物語』を読まない人は、なんぼ肉体はわしの側にいても魂は遠い所に離れているのと同じだ。また、その反対に、物語を読む人は、肉体は遠くに離れていても、魂はわしの側にいるのと同じだ」

と、お示し下さいました。”

 “聖師さまはしばらくしてから真面目なお顔をなさり、

 「もうわしの言うことは全部「霊界物語」と「神霊界」に言い尽くしてある。神典として残してある。だから、わしが恋しくなったら物語を読め。」

とおっしゃいました。そこで私は、

「読んでも、片っぱしから忘れてしまいますので……」と申し上げました。すると、

 「忘れてもかまへん。読んでさえおけば、それが血となり肉となって、まさかの時にご内流となってでてくるのだから、読んでさえおけばそれでよいのだ」

と申され、……” 

 

     (三浦玖仁子「花いろいろ 出口王仁三郎聖師側近七年の記録」より)

 

*あくまで私個人の感想ですが、「般若心経」を読誦する際にも、『素晴らしい教えが説かれているお経を読ませて頂いている』と思って唱えるのと、『般若菩薩様の御真言を承っている』と思って唱えるのとでは、受ける内流が違うような気がします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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