HBD in Liaodong Peninsula

ぶらぶら街歩き日記です。北京編4年目です。

法源寺 - 大化の改新と同年創建の古刹を訪ねる

2024-04-13 | 北京を歩く
北京で最も古い寺のひとつとされる法源寺を訪ねてみました。

牛街の東側です。



寺がつくられ始めたのは645年だそうですから、唐の第二代皇帝李世民が高句麗侵攻をしていた時代です。日本では大化の改新の年です。



中国語の文献によると、この寺の成り立ちにはこの高句麗遠征と関係があるようです。

遼の時代(916-1125年)の北京の中心地は、ちょうどこの辺りだったと伝わります。今は故宮を中心ににて南北の中軸線があって、東西に街が広がりますが、当時は違いました。

唐の時代からこの辺りが中心だったのでしょうか。

南側の山門をくぐると、樹高のある老木と広大な広場が出迎えます。右に鐘楼、左に鼓楼があります。

以降、北に向かって順に天王殿、大雄宝殿、観音殿、毘盧殿、大悲殿、蔵経楼とお堂が続きます。



法源寺の敷地内には中国仏学院と中国仏教図書文物館があり、多くの若い僧侶が行き交う姿がありました。

構内のいたるところに古そうな石碑が立っています。



北京でこの手の石碑を見かけると、たいていは乾隆帝のものですが、どうやらここのそれはそれ以前のものが多いようです。

風化で文字が読み取れなくなっているものもありますが、元や明代のものがあります。歴代皇帝から受けた信仰の篤さが伝わってくるようです。



このシロマツも古そうです。樹齢数百年はありそうです。

何気なく置いてあるこの大きな石鉢も古そうです。



風雪に耐え、動乱に耐え、よくぞここまで残ってきたものです。



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紫禁城 太和殿

2024-04-03 | 北京を歩く
太和殿は紫禁城の正殿です。





明と清の時代はここが天下の中心と考えられてきました。

ここが北京中軸線のさらに中心です。この国の人々にとっては神聖な場所です。

太和殿は大理石が積まれた3段の台座の上に建っているので、上ってみるとなかなか高さがあります。





現存する中国最大の木造建築だそうです。

歴代皇帝により様々な国事や祭事が執り行われました。

近づいてみると、その壮大さに圧倒されます。
現在、一般客は殿の中には入場できず、入口付近から眺めるしかありません。

映画「ラストエンペラー」のラストシーンで年老いて背中の丸くなった溥儀がここの玉座の後ろ側に隠しておいたコオロギの虫壺を取り出し、「おじさんも皇帝だったんだよ」と言いながら守衛の少年に差し出す印象的なシーンがありました。





映画では溥儀役のジョン・ローンがこの龍の石刻を登るシーンがありました。

太和殿は「蒼穹の昴」シリーズでもたびたび登場しました。

太和殿の前に広がる広場はかなり広大です。皇帝の儀式の際にはこの広場に官吏や宦官たちがひれ伏したのでしょうか。



「蒼穹の昴」では、科挙の最終試験である殿試を終えた梁文秀が、保和殿からここまで歩いてきて立ち止まり、空耳で母の声を聴きます。
そして亡くなった母を思い出をめぐらせ、石に膝をつき、両手を地につき、額を地に打ちつけ、涙を流しながら母に対する感謝の言葉を語りましす。とうとうやったんだと。自分は進士になったんだと。



これが文秀が額を打ち付けた太和殿前の広場です。



この土台の角に飾られている角のない龍のような怪獣は、「螭」とよばれる想像上の動物です。
よみかたは「ち」または「みずち」です。むしへんに璃のつくりです。

魔除けの役割でしょうか。雨が降るとこの獣の口から勢いよく水が飛び出してきます。



紫禁城のいたるところで見かけます。よく観察するとひとつひとつ微妙に違っていて、愛嬌があります。





鶴と亀は長寿の象徴です。いずれも銅製です。



これは日時計です。

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浙江興行銀行漢口支店旧址

2024-03-28 | 武漢を歩く
漢口の中山路と江漢路が交わる一帯は租界時代の歴史的建造物が集まるエリアですが、この左側の赤い瓦葺が目を引く優美なバロック風の建物はなんだったのででしょうか。



ここは浙江工業銀行漢口支店があった場所です。



行政が文物指定したことを示すパネルもありますが、調べたところ、実はこの建物は再建したものだそうです。

浙江工業銀行は1907年に設立されました。漢口支店は翌08年に設立しました。南四行とよばれる中国で最も初期の商業銀行のひとつです。

この地に銀行ビルが建設されたのは1925年です。



日本が武漢を占領すると、1940年5月、日本軍の計画支援で浙江興業銀行漢口支店は中江実業銀行となります。太平洋戦争が始まると銀行は閉鎖を余儀なくされました。

そして近代になった1995年に火災が発生し、ビルは取り壊しになりました。その後このビルを再建したというわけです。



古写真と比較すると、たしかに忠実に当時の姿に再建されていることがわかります。
かつての景観を守ろうとするこの意気込みには惜しみなく拍手を送らなければなりません。

ところで、浙江興業銀行漢口支店は清代の末から民国時代にかけて武漢で流通した「漢鈔」とよばれた紙幣を最初に発行した銀行です。

銀行は漢口に支店を設立してからすぐに漢鈔を発行しました。外国銀行の漢口支店もこれに続き、漢鈔を発行するようになりました。

1935年に国民政府が紙幣改革を行い、紙幣を統一すると、漢鈔の流通は次第に減っていきました。
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北京香港ジョッキークラブ会所

2024-03-22 | たべる
北京の金宝路に香港ジョッキークラブ会所とよばれる会員制のクラブハウスがあります。

この前を通るたびに、競馬ファンとしてはいつか一度入ってみたいものだと思っていたところ、幸運にもメンバーだった知人が招いてくれました。

香港競馬の主催機関である香港ジョッキークラブが運営する施設ですが、馬券を発売しているわけではなく、競馬を啓蒙している様子もなく、きわめて競馬色は薄い、セレブ向けのラグジュアリーな空間でした。









香港ジョッキークラブはなぜ馬券を発売していないメインランドにこんな施設を作ったのでしょうか。あれこれと考えを巡らせてみると、この国ならではのいろいろな事情があるのだろうな、と思わせます。

施設内には3つのレストランがありました。このほか、ボールルームや会議場、宿泊施設もあるようでした。

広東料理のコースです。とても上品な味わいです。









中庭では夏場になるとBBQも楽しむことができるのだとか。



図らずも、しばしの時間、セレブ気分を味わうことができました。





香港競馬の展示エリアです。



2020年12月の香港カップを勝った日本馬のノームコア(萩原厩舎)が紹介されていました。

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北溝沿胡同 梁啓超旧居

2024-03-19 | 北京を歩く
北新橋里エリアの北溝沿胡同にかつて梁啓超(1873-1929)が暮した家が残っているというので、出掛けてみました。

梁啓超は戊戌の変法(1898年)を主導した人物で、維新に失敗した後、日本に亡命しました。

ここは亡命生活を終えて1912年に帰国したときに暮した場所だそうです。

ネットで調べたところ、所在地は北溝沿胡同23号で、壁に「梁啓超旧居」という文物指定を示すパネルが嵌め込まれているようです。

そのパネルをよりどころにして探します。



北溝沿胡同は南北に300メートルほどあるようです。パネルがあるならすぐに見つかるでしょう。



ところが、一往復しても見当たりません。
僕の探し方が悪いのでしょうか。

おかしいな、と思ってスマホを取り出して地図アプリで23号を調べてみると、ここでした。



なんと、パネルが取り換えられていました。



僕が調べた情報が古かったようです。

たぶん、僕のように物見にきた観光客が住民が暮らす四合院の中に入ってきて迷惑になるから、という理由からだと思います。



さて、ともあれここが梁啓超が暮した場所です。





日本から帰国した梁は袁世凱から法部次官に任用され、新しい人生をスタートさせます。翌1913年には司法総長に任命されます。その後、14年に袁世凱と袂を分かつと天津に移ったとされます。

したがって、ここで暮したのはこの12年から14年にかけての2年間ほどだったのでしょうか。

解放後、ここは鉄道部の幼稚園となり、その後宿舎に改造され、鉄道部の職員家族が暮らしたようです。
梁啓超が暮したころは広い中庭があった四合院だったようですが、今は細かく仕切られており、70から80世帯の鉄道部関連の人たちが暮らしているそうです。

通りの向かい側(東側)には梁啓超書斎と記されたパネルがありました。





ということは、23号だけでなく向かい側も自宅にしていたのでしょうか。

そうだとすると相当広い敷地だったということになります。
まあ、当時梁は中華民国の閣僚だったわけですから、こういう待遇だったとしても不思議はありません。

梁啓超が天津で暮らした場所は、2024年2月24日の日記でご紹介しました。

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漢口 米国人記者アグネス・スメドレー / ルッツ主教旧居

2024-03-16 | 武漢を歩く
漢口の鄱陽街の旧租界エリアでアグネス・スメドレーの旧居だったという洋館を見かけました。





シンプルなレンガ造りの2階建てです。

アグネス・スメドレー(1892-1950)は共産党に共感して中国で取材活動を行った米国人ジャーナリストでした。

中国での暮らしの拠点は上海でしたが、1938年に日中戦争を取材するため、ここで10か月間を暮したことがあったようです。
当時、ここは漢口聖公会の米国人宣教師だったルッツ主教の邸宅でした。

スメドレーはミズーリ州の農家出身で、幼少時代は貧しさゆえ教育を受ける機会に恵まれなかったものの、長じてから師範学校で特待生として修学し、学内で学生新聞の編集といった課外活動を行いました。

やがてインド人の共産主義者との出会いをきっかけに運命が動き始め、ドイツを経て上海に拠点を移すことになります。上海ではソ連のスパイだったゾルゲと関り、尾崎秀実を紹介したとされます(この話は諸説あるようです)。

そして1930年代から40年代はじめに中国国内の共産主義者に密着し、国共内戦や日中戦争の取材を行いました。

スメドレーは武漢での滞在中、在武漢米国総領事や英国大使に対し、赤十字社の救急隊を編成して八路軍を医療支援するよう粘り強く説得し、その道筋をつけたとされます。

没したのはロンドンですが、墓は北京の八宝山墓地にあります。それだけ近代中国に愛され、大事にされた人物ということでしょう。



湖北省の文物保護単位になっていました。

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溥儀の妹(愛新覚羅韞穎)旧居

2024-03-13 | 北京を歩く
什刹海エリアの前井胡同を歩いていたら、こんな案内板を見かけました。



この胡同には溥儀の妹だった金韞穎(1913-1996)が暮らした家があるそうです。

1959年に溥儀が特赦を受けて釈放されたされた後、一時的に暮らしたとも書かれています。

通りの15号だそうです。ふむふむ、それは一度見ておかなければなりません。さっそく15号を探してみました。



ここです。





案内板から南側に50メートルほどの場所でした。

金韞穎のもともとの名前は愛新覚羅韞穎でした。父は醇親王載灃、母は正妃だったグワルギャ氏幼蘭で、溥儀と同じです。溥儀にとっては3番目の妹でした。

韞穎は1913年生まれですので、溥儀より7歳年下です。異母きょうだいの存在が珍しくなかった時代に同じ母だったということもあって、溥儀は特に可愛がったそうです。

1924年、溥儀を紫禁城から追放され、日本の支援を受けて天津に移ると、韞穎も同行しました。韞穎は毎日日本語を学び、溥儀ら兄弟たちと暮らしました。

19歳のとき溥儀のすすめで婉容の弟だった郭布羅潤麒と婚約しました。

1931年、満洲国が樹立して溥儀が長春に移ると、韞穎はまたも同行します。
そこで潤麒と結婚すると、その直後、溥傑と潤麒は日本に軍事留学することになります。韞穎は同行し、日本で2年間を暮らします。
韞穎は日本の皇族に囲まれるようになり、昭和天皇の義理の妹に中国語を教えたりしたそうです。

この義理の妹とは誰でしょうか。
秩父宮の勢津子さまか高松宮の喜久子さまか三笠宮の百合子さまのいずれかになりますが、年齢的に考えて勢津子さまか喜久子さまでしょうか。

韞穎にとって日本での暮らしは窮屈だったらしく、溥儀にたびたび手紙を書いたそうです。

1933年、韞穎は長春に戻ります。潤麒も帰国し、以降長春で暮らします。
1945年に日本が降伏すると、韞穎は溥儀らとともに通化に逃れますが、溥儀はソ連軍に囚われます。

1949年に北京が解放されると潤麒は北京に戻ることを許され、3人の子供と義母と暮らしはじめます。
1951年に父親の醇親王が逝去するとわずかな遺産を受け取り、古い部屋を借りて生活を始めました。

1956年には撫順戦犯刑務所に収監されていた溥儀への面会が実現します。

そして1959年、溥儀が釈放されると、溥儀は一時的にこの家に身を寄せることになった、というわけです。



ここでどの程度の時間を暮したのかは正確ではありませんが、決して長い時間ではなく、その後東単に移動したようです。

そうであったとしても、溥儀にとってこの場所は撫順戦犯刑務所で長い辛酸の時代を過ごして最初に得た安住の地であったのではないでしょうか。



北京はこの発展を極めた現代になってもなお、当時の胡同を面影を残している場所がたくさんあります。

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紫竹院公園 - 皇帝が頤和園との往来時に休憩した場所

2024-03-10 | 北京を歩く
海淀区の紫竹院公園に行ってみました。

ここは紫禁城から北海、什刹海、積水譚から南長河を経て頤和園の昆明湖に至る水路のほぼ中間ぐらいに位置する公園です。

歴代の皇帝たちは離宮である頤和園に行く際に水路が使われましたが、ここが行宮となって休憩を取ったといわれます。

広大な公園の約3分の1は湖です。





南長河と双紫渠が園内を貫いています。明代以降ここに紫竹院という寺院があったのが名前の由来だそうですが、その名のとおり園内のいろんなところに竹が植生しています。





50種類以上の竹があるそうですが、これは最近のことでしょうか。
竹は本来温暖で湿潤な気候を好みますので、寒冷で乾燥した北京には向かないはずです。よく育つものだと思います。



頤和園に至る水路は元代の有名な水利土木の技術者だった郭守敬が引き込んだとされます。



今でも北京動物園から紫竹院を通過して頤和園へ向かう水路沿いを歩くと、往時を偲ぶことができます。



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天津旧日本租界 段祺瑞旧居

2024-03-07 | 天津を歩く
天津の旧日本租界の鞍山路に、固い扉で閉ざされた曰くありげな大型の邸宅がありました。

ここは日本租界時代は宮島街とよばれていました。溥儀が暮らした張園のすぐ近くです。

外壁に貼られた文物保護のパネルによると、民国時代に国務総理を務めたかの段祺瑞(1865-1936)が暮した邸宅だったようです。北洋三傑です。



今は開放されておらず、何に使われているのかわかりませんが、厚い鉄の扉の下側に少しだけ空いていた隙間にスマホを差し込んで撮影してみました。



手入れが行き届いた立派な洋館です。左側にレノボの看板があります。

1920年の竣工という記録があります。

もともとは段祺瑞の義理の弟が資金を出して建設したようです。
当時は「段公館」とよばれ、当時の天津日本租界で最も豪華な私邸だったそうです。

1階と2階にそれぞれルーフテラスが張り巡らされていて、シンガポールにありそうなコロニアル風の外観です。

唐山地震で一度損傷したものの、補修したようです。

段祺瑞(1865-1936)は李鴻章と同じ安徽省出身です。早くから袁世凱とともに北洋軍で活動し、袁世凱が死去した後は安徽軍閥の実権を握ります。対ドイツ宣戦をやったりします。しかし、1920年に安直戦争に敗れると下野し、天津日本租界に逃げ込みました。

その後一時的に復権しますが、1926年に馮玉祥に追放されると、再び天津に戻ってきます。
そのときに暮したのがこの邸宅だったようです。

記録によると段は1933年まで天津で暮らしました。

満洲事変が起きると、段は日本の諜報部門からの接触を避けるため、国民党からの誘いを受けて上海に移りました。
段が上海で暮した邸宅は今の在上海日本総領事公邸として現存しています。

段は1936年に病でこの世を去りました。

つまり、天津のこの場所で暮らしたのは実権を失い引退した60代の頃の数年間だったようです。
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紫禁城 隆宗門 - 李自成が放った恨みの一矢は今も残っているか

2024-03-04 | 北京を歩く
紫禁城の隆宗門にはおもしろい逸話があります。

小説「蒼穹の昴」は、夜の路地裏で安徳海が春児に向かって「言い伝え」だと断った上でこんなエピソードを打ち明けるシーンがありました。

1644年、農民を動員して明国を滅ぼし紫禁城を乗っ取った李自成は、天子のみしるしである龍玉を探します。しかし、城内を探しても探しても見つかりません。

そうこうしているうちに清の満洲八旗軍は長城を越えて北京になだれ込んできます。
龍玉を探しあぐねた李自成は追い込まれ、城に火を放ちます。

そして、自らに天命がないことを悟ると、恨みをこめて馬上から隆宗門に矢を射込みます。その矢は扁額に命中し、梁にまで達しました。まさに一矢を報いたというわけです。

この伝説は「地球の歩き方」北京編でも少し紹介されています。

その恨みの矢が現代となった今でも扁額に刺さったまま残っていると。

本当でしょうか。実際に観察してみました。

隆宗門は外朝と内邸を隔てる重要な境界です。乾清門前広場の西側にあります。



これです。

最初に門が造られたのは永楽帝時代の1420年で、その後何度か再建されているようです。

これが扁額です。東側を向いています。





目を凝らすと、左側に鋭利な矢か釘らしきものが刺さっていることがわかります。



言い伝えが事実なら、380年前に放たれた恨みの一本ということになります。なんとも興味深い話です。

しかし、ネットで調べてみるとこの矢には諸説あるようです。

とある文献は李自成説を否定しています。

いわく、これは1813年に嘉慶帝が巡行に出かけて北京を不在にした間に発生した天理教の農民反乱軍と清国軍の激しい戦闘の痕跡なのだとか。のちにこの出来事を知った嘉慶帝が、下部に対して常に危機感を煽るために矢尻を残すよう命じたのだそうです。

さらに違う説もありました。

義和団の乱を鎮圧した8か国連合軍が北京でゲームをしていたときに矢を残していったという説です。

他にもあります。清朝が滅亡した後、紫禁城に取り残された溥儀が練習としてこの扁額を的にして矢を放ったという説もあるようです。その頃の溥儀はやけになっていたでしょうし、もはや内廷の制御も効かなかったでしょうから、これもあり得そうな話です。

いやはや、どれが事実だったとしてもおもしろい話です。この外観からすると矢は人為的に撃たれたものである可能性は高いように思います。

なんとも興味を掻き立てられます。

こういう伝説は深く追求せずに、分からないままにしておいた方がよいと思います。

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旧漢口明治尋常高等小学校校長邸

2024-03-01 | 武漢を歩く
漢口の旧日本租界付近にある「武漢天地」とよばれる近年リノベーション開発をしたと思しき商業エリアを歩いていると、漢口明治尋常高等小学校校長の邸宅だったというレンガ造りの3階建ての洋館を見かけました。







今は戸建てのレストランとして使われているようです。外観からはリノベーションをしたような形跡がありますが、基本的には往時の姿ではないでしょうか。

漢口明治尋常高等小学校は日本が租界地に置いた教育機関です。

ここから西側約200メートルの場所にありました。今の武漢第二中学の場所です。

文献によると、漢口に初めて日本人向けの小学校が設立されたのが1907年です。
設立者は日本人居留民団で、文部省から在外指定学校の指定を受けました。翌1908年に明治小学校となり、辛亥革命による一時閉鎖を経て1913年に明治尋常小学校になりました。
幼稚園も併設されており、幼稚園を含むと8学年があったようです。

児童数は1918年の124人から5年後の1923年には246人に倍増したそうです。
小学校の教員は1940年には17人の教師が所属したのだとか。小学校は1941年に漢口日本国民学校と名前を変え、そして終戦とともに閉鎖されました。37年の歴史でした。





校長の宿舎は1930年代の設立と紹介されています。こんな立派な新築一軒家で暮した校長は鼻が高かったことだと思います。

当時の官報を調べてみると、この校長の異動情報が掲載されています。きっと文部省から派遣されたのだと思います。



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漢口 メルヒャース洋行電力工場事務所旧址

2024-02-27 | 武漢を歩く
漢口の江岸区の川沿いを伸びる沿江大道にこんなレンガ造りの洋館がありました。



歴史建築を示すパネルには、ドイツ商メルヒャース(Melchers)洋行電力工場事務所と紹介されています。



どんな会社だったのでしょうか。紐解いてみます。

1806年、カール・メルヒャース(1781-1854)とカール・フォッケは、帆船の海運と貿易を行う会社としてブレーメンににフォッケ & メルヒャーズ社を設立しました。
1854年に創業者が亡くなると、長男のローレンツ・ハインリッヒ・カール・メルヒャースが経営を引き継ぎました。

同社は1860年代以降、アジアに進出すると大きな成功を収め、中国国内に12のオフィスを開設し、2000人以上の従業員を雇用しました。

そして戦禍による変遷を経て第二次世界大戦まで、同社は複合企業として様々な業態のビジネスで中国大陸を舞台に活躍したようです。



この電力工場もその多角化ビジネスの一つだったのでしょうか。

時を経て、メルヒャースグループは今でも香港を拠点として中国で多角的なビジネスを展開しています。
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天津旧イタリア租界 梁啓超旧居

2024-02-24 | 天津を歩く
天津の旧イタリア租界を歩いていると、こんな立派な建物に多くの観光客が出入りしている様子が見えてきました。



なにかの博物館でしょうか。

玄関に掲げられている表示をみると、ここは梁啓超の旧居で、梁の博物館にもなっているようです。



梁啓超(1873-1929)は清代末期と民国時代に活躍した活動家です。
浅田次郎の「蒼穹の昴」シリーズに登場する梁文秀のモデルになったとされる人物です。

本当にこの人物をモデルにしたのかどうかは浅田先生本人に聞かなければ分かりませんが、小説のあらすじや年代、生い立ちから考えると重なる部分が多いので、たぶんそうなのだろうと思います。名前も同じ梁ですし、同じ変法運動の主導者だった康有為や譚嗣同が小説に実名で登場するのに対して梁啓超は出てきません。楊喜楨の語りの中で少し触れられるだけです。

梁啓超が天津に移り住んだのは1914年という記録がありますが、それがここだったのでしょうか。
その後はよくわかりませんが、1927年に王国維が北京で死去した際、天津から駆けつけたという記録がありますので、晩年は天津で暮らしたようです。



今回は時間がなかったので入場しなかったのですが、次に天津を訪問する際には博物館を見学してみようと思います。

梁は清代末期から民国にかけての激動の中国を生き、日本で暮らし、その間目まぐるしく主張を変えた思想家です。和製漢語をたくさん中国伝えた人物としても知られます。
きっと内外の情勢の変化を敏感に感じ取る能力が高かったのだと思います。

いつかゆっくりと著作を読んでみようと思います。

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天津旧イタリア租界 湯玉麟旧居

2024-02-21 | 天津を歩く
天津の旧イタリア租界で湯玉麟の旧居を見かけました。

湯玉麟(1871-1937)といえば張作霖の盟友で、奉天派の軍人です。





浅田次郎の傑作「中原の虹」に登場します。

役どころは張作霖馬賊の四当家でした。新民府と奉天城の清国正規軍との連絡役です。
小説では「麒麟当家」、「麒麟攬把」ともよばれていました。

総攬把の張作霖が湯玉麟の先導を受けて奉天に赴き、徐世昌東三省総督に仕事の報酬を直談判するシーンがありました。交渉が難航するとみるや、湯は徐世昌の眉間に銃口の狙い定め、その状態で紅鬼子の首を取った代償として10万元を脅迫するという緊迫の場面です。浅田次郎のこういう緊迫のシーンの描き方は特に印象に残ります。

このやりとりは創作だと思いますが、この頃の湯は36歳ぐらいです。

また、終盤で王永江が張作霖が山海関を越えて北京に攻め入ろうと画策していると疑ったのに対して、思い過ごしだぜ、と諫めます。これは駆け引きなのだと。
これまたカッコいいシーンです。

史実によると、湯玉麟はその後も基本的には張作霖とともに行動し、1926年からは熱河省の行政を司りました。その後日本軍が熱河を奪うと、1933年にこの天津に逃亡してきました。





湯玉麟がここで暮らしたのは1933年から没する1937年までだったようです。ときに湯はすでに60代になっていました。

このルネサンスとバロックが融合したような洋館は1922年の竣工です。いかにもイタリア租界の建物です。当時は北洋政府交通局長の邸宅として建設されたのだとか。イタリア人建築士の設計でしょうか。

今は何の用途に使われているのか分かりませんが、保存状態はとても良好そうに見えます。

個人宅としてはずいぶん立派で広い家です。激動の時代を生きた湯にとって、天津での暮らしはどのようなものだったでしょうか。

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武漢長江大橋を自転車で渡ってみる

2024-02-18 | 武漢を歩く
武漢に行ったからには長江の大きさ自分の足で実感してみたいと思い、武漢長江大橋を自転車で渡ってみることにしました。



武漢長江大橋は1955年から2年がかりで建設されました。開通は1957年です。長江に架けられた最初の橋です。





当初はソ連の技術協力を得て設計や建築を進めたものの、二国間関係が悪化してソ連の専門家が引き揚げてしまったため、その後自力で完成させたと。
この話は中国国内の古いプラントなどでよく聞きますが、この橋もそうなのですね。

いずれにせよ、中国にとっては民族魂の結晶みたいな大事業で、超一級の歴史的土木建築物と言えるでしょう。

1962年に発行された紙幣(2角)のデザインにも採用されました。

武漢長江大橋は2階建てになっています。上が車両と歩行者、下が鉄道用です。
この1階と2階部分をトラス構造の鉄骨が支えています。

橋の長さは1670メートルもあるそうです。
レインボーブリッジは800メートルだそうですから、2倍です。

しかし、この橋を渡るためには、その1.4キロほど手前の交差点まで回り込む必要があります(左岸から渡る場合)。

えっちらおっちら、自転車を漕いで橋までの坂道になったアプローチ部分を上ります。



ようやく橋台に着きました。
いやはや、高いです。

武漢三鎮が一望できます。欄干から下をのぞくと足がすくみます。
高さは35メートルあるのだとか。12階建てビルぐらいでしょうか。



走っても走ってもなかなかゴールが見えてきません。

長いです。
地図をみるとこの辺りが一番川幅が狭そうなので、橋を架けるにはここが都合がよかったのだと思いますが、それでも長いです。



この下を鉄道の線路が走っています。
頑丈そうです。70歳の大きな老橋、なかなか立派です。

この橋を歩いて渡っている人たちの姿がありますが、相当時間がかかると思います。

この高さを自転車で通過する経験はこれまでないので、ハンドルを持つ手に自然と力が入ります。
なかなか浮遊感とスリルのある時間が続きます。



10分ほどペダルを漕ぐと、ようやく右岸に到着しました。

真正面に黄鶴楼が見えてきました。



辛亥革命の一端となった武昌蜂起が起きたのもこの辺りです。

ふう、なんとか渡り切りました。

2007年頃だったか、南京長江大橋を歩いて渡ったことがありましたが、それ以来の長江の自力渡河となりました。
よい思い出になりました。

橋は全国重点文物保護単位だそうです。それはそうでしょう。
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