前回、北京忠霊塔の痕跡探し(2022年5月20日の日記)の際に参考にした横山篤夫氏の論文「日本軍が中国に建設した十三基の忠霊塔」(2014年)には、かつて石景山区に靖国神社が建設されていたという中国人の証言が紹介されています。
以下引用します。
石景山区の一角には、日本人の「靖国神社」があった。紅光山の麓にある人工的に作った新しい村の東北隅に設けられた。1943年秋にこの神社は落成した。落成の祭典は非常に盛大だった。
いかがでしょうか。
紅光山は北京市内から西側約27キロメートル、八宝山の忠霊塔跡地から9キロの場所にあります。
すぐ西側は盧溝橋に繋がる永定河です。
当時の在留日本人の居住区からはずいぶん離れていますが、本当にこんなところに神社を作ったのでしょうか。
とにかく、現場に行ってみました。
何か手掛かりが残っているかもしれません。
これが紅光山です。高さは100メートルほどでしょうか。
さて、「麓にある人工的に作った新しい村」とはどこでしょうか。
紅光山の麓には東側、西側、北側に集落がありますので、このいずれかということだと思いますが、ここは西側と推定しました。
「村の東北隅」と説明しているところがポイントと考えました。
麓の東側や北側であれば紅光山からだいぶ離れてしまいます。そうなると、紅光山ではなく、別の座標を挙げるのではないかと思います。
紅光山を挙げたのであれば、神社は山から遠くない場所にあったのではないかと考えました。
北側の集落から山に入ります。
痕跡を見落とさないように、周囲に目を配りながら坂道を歩きます。
さわやかな春の風が頬を撫でます。痕跡探しの目的がなくても、こういうハイキングは楽しいものです。なにしろ北京は坂道のない平坦な街ですから、こういう起伏は懐かしい場所に帰ってきたような気分にもなります。
これは山の北側に広がる住宅群です。
さて、15分ほど登ると、頂上付近に来ました。
頂上の東角には、こんなレンガ造りの構造物の跡がありました。
これは何の痕跡でしょうか。
アンカーの一部が覗いています。
ここからは眼下にかなり遠くまで北京市内を見通すことができますので、軍事的な観測拠点だったのかもしれません。
南側一帯は首鋼集団の工場群です。
今年行われた北京冬季五輪のフリースタイルスキー/スノーボード・ビッグエアの会場になったビッグエア首鋼も見えます。
その向こう側は永定河で、10キロほど下ったところが盧溝橋です。
これは西側です。
「麓にある人工的に作った新しい村」とは、この集落と睨みました。
新しいマンション群の計画があるらしく、古い家屋がすべて撤去され、緑色のシードで覆われています。
つまり、「人工的に作った新しい村」が80年の時を経て老朽化したので、潰してマンション群にすることになった、というストーリーを考えてみましたが、いかがでしょうか。
「村の東北隅」というと、この辺りです。ここには山の斜面を背にして、古そうな集合住宅が何棟か並んでいます。
一部山を削って宅地造成をしているようです。
神社があったのはこの辺りでしょうか。
地形的には、いかにも神社が作られそうな場所のように感じます。
何か痕跡が残っていないか、丁寧に見て歩きましたが、結局何も見つけられませんでした。
大連や旅順もそうですが、1940年代に建てられた建築物や記念碑というのは、なかなか文献や写真が残っていないものです。足取りをつかむのは難儀します。
いつかこの証言者に会うチャンスでもあればいいのですが、存命なのかすらわかりません。
以下引用します。
石景山区の一角には、日本人の「靖国神社」があった。紅光山の麓にある人工的に作った新しい村の東北隅に設けられた。1943年秋にこの神社は落成した。落成の祭典は非常に盛大だった。
いかがでしょうか。
紅光山は北京市内から西側約27キロメートル、八宝山の忠霊塔跡地から9キロの場所にあります。
すぐ西側は盧溝橋に繋がる永定河です。
当時の在留日本人の居住区からはずいぶん離れていますが、本当にこんなところに神社を作ったのでしょうか。
とにかく、現場に行ってみました。
何か手掛かりが残っているかもしれません。
これが紅光山です。高さは100メートルほどでしょうか。
さて、「麓にある人工的に作った新しい村」とはどこでしょうか。
紅光山の麓には東側、西側、北側に集落がありますので、このいずれかということだと思いますが、ここは西側と推定しました。
「村の東北隅」と説明しているところがポイントと考えました。
麓の東側や北側であれば紅光山からだいぶ離れてしまいます。そうなると、紅光山ではなく、別の座標を挙げるのではないかと思います。
紅光山を挙げたのであれば、神社は山から遠くない場所にあったのではないかと考えました。
北側の集落から山に入ります。
痕跡を見落とさないように、周囲に目を配りながら坂道を歩きます。
さわやかな春の風が頬を撫でます。痕跡探しの目的がなくても、こういうハイキングは楽しいものです。なにしろ北京は坂道のない平坦な街ですから、こういう起伏は懐かしい場所に帰ってきたような気分にもなります。
これは山の北側に広がる住宅群です。
さて、15分ほど登ると、頂上付近に来ました。
頂上の東角には、こんなレンガ造りの構造物の跡がありました。
これは何の痕跡でしょうか。
アンカーの一部が覗いています。
ここからは眼下にかなり遠くまで北京市内を見通すことができますので、軍事的な観測拠点だったのかもしれません。
南側一帯は首鋼集団の工場群です。
今年行われた北京冬季五輪のフリースタイルスキー/スノーボード・ビッグエアの会場になったビッグエア首鋼も見えます。
その向こう側は永定河で、10キロほど下ったところが盧溝橋です。
これは西側です。
「麓にある人工的に作った新しい村」とは、この集落と睨みました。
新しいマンション群の計画があるらしく、古い家屋がすべて撤去され、緑色のシードで覆われています。
つまり、「人工的に作った新しい村」が80年の時を経て老朽化したので、潰してマンション群にすることになった、というストーリーを考えてみましたが、いかがでしょうか。
「村の東北隅」というと、この辺りです。ここには山の斜面を背にして、古そうな集合住宅が何棟か並んでいます。
一部山を削って宅地造成をしているようです。
神社があったのはこの辺りでしょうか。
地形的には、いかにも神社が作られそうな場所のように感じます。
何か痕跡が残っていないか、丁寧に見て歩きましたが、結局何も見つけられませんでした。
大連や旅順もそうですが、1940年代に建てられた建築物や記念碑というのは、なかなか文献や写真が残っていないものです。足取りをつかむのは難儀します。
いつかこの証言者に会うチャンスでもあればいいのですが、存命なのかすらわかりません。