当ブログで初めて「名言シリーズ」をテーマにした時、自分はいくつかの名言を書き連ねた後、末尾に「 名言、格言というのは、普通はいつの時代でも人々を納得させる普遍的なものとされる。しかし、時代とともに価値観が変わっていく中では、名言が絶対普遍的なものとは限らない。なので自分が取りあげた名言の中にも揺らぐ名言が出てくる可能性はある」と書いた。これが2年と半年前の2021年6月のことだ。この2021年6月から今回書いている2023年12月上旬現在まで自分的には生活が大きく変わっていないと思うし、世間的・時代的にも大きく変わっていないと思うのだが、過去に書いた名言の大幅な修正が必要だと思っている。「揺らぐ名言が出てくる可能性はある」揺らぐどころか名言の内容が180°変わると言っていい。名言が失言に変わるとも言える。やはり名言は普遍的なものじゃない。これは、「時代とともに価値観が変わる」というよりも、名言は所詮人間が発した言葉だから(自分の発した言葉も含めて)確固たるものにはならないということである。この2年と半年という年月の間で「自分的には生活が大きく変わっていないと思う」と書いたが、殊、自分の中でものの見方が大きく変わったのは確かである。その原因は、コロナ禍の馬鹿騒動にあると思う(コロナ禍については、当ブログでも自分の見解をいくつか書き連ねているので(書き殴っていると言っていい)そちらも参照していただきたい)。人災であり、4年経ってもいまだ日本でだけ続くコロナ禍の馬鹿騒動はそんなわけで社会や政治といった広義なスケールのものから各人の生活や考え方といった個人的な領域まで甚大に、見るも悲惨に変えた。この悲惨な変化に頓着がない人間は極めて鈍感か平和ボケした人間であるか、コロナ騒動が終わると都合が悪い人間だろう。ということで今回の名言シリーズは今まで書いた名言(名言シリーズ1~9)の大幅修正・改定である。

 

 

 

 

「生物学的には男のほうが女より高等な生き物である」by 自分 ・・・・・女は下等動物だと思う。勿論、すべての女ではない。殊に日本女性の場合は、現在(いま)は質、性格ともに優れている女は稀だ。自分は現在のコロナ時代において日本人女性が全世界の女性の中で特に性格が最低、最悪だと思っている。総じて日本人女性ほど性格が汚れ切った女性は世界を見渡してもそうそうないと思っている。特に女性の場合、男性よりも群れることを好み、一匹狼というのはなかなか成り立たないから女から女へとどんどん伝染し似たようなクローン女が増殖していくのだ。質、性格ともに優れている女性は稀だ。少数派はいつの時代も市井に埋もれる。そんな日本人女性の性格の悪さや汚さがコロナ禍によって露呈してしまった。顔を隠したいなどというクソな理由で女どもが皆一様にマスクののっぺらぼうになってしまうといったことはいい例だ。女のほうがマスコミや医者といった者に洗脳されやすいというのもある。かくて日本では外を歩けば、辺りを見渡せばマスクをした口裂け女どもが街を闊歩するという世紀末の時代となってしまった。この名言は、過去の名言シリーズで「生物学的には女のほうが男より高等な生き物である」

・・・・・by 自分の見解、と記したものと真逆のものである。自分はこの名言の中で「但し美人に限る。 かわいいは正義、美人は正義、つまりそういうこと。 」と記した。これについても修正しなければならない。日本人の場合、美人でも性悪で心根が汚い人間は山ほどいる(これを性格ブスという)。世界を見渡した時、確かに性悪な女、ビッチは世界のどこでも存在する。だが昨今その比率は日本人女性が最も高いと思うのだ。多くの世の男性は多かれ少なかれこのことに心当たりがあると思う。自分は結婚したことがないからわからないが、結婚なんて実際は当初はお互いの本当のところなんていうのはわからないのかもしれない。このことは昨今の日本における離婚率が高いことが如実に証明している。離婚した夫婦あるいは離婚の危機に瀕している夫婦、あるいは結婚前の破局を拝見するに、男側の女側に対する恨み節~一緒になってしまったことへの後悔の念または積年の怨みのほうが圧倒的に多い感があるのだ。個人的にも、ロクでもない女に引っかかってしまった男は何人か知っている。かわいそうに。自分の場合、過去に姓名判断で「女運がない」と判断されたことがある。姓名判断の類にも信用できるもの、インチキまがいのものとあるだろうが、その姓名判断は自分の性格と照らし合わせてみて気味が悪いほど自分の性格や行動の数々がズバリ当たっていた。自分以外の人たちもこの姓名判断を行い、こちらもおそろしいほど各自の性格を言い当てていた。姓名判断は、一部の占いに見られるようなまやかしではなく、統計学であるため事実を言い当て、信用に足るものである(勿論、インチキの姓名判断もあるが)。そんなわけで自分には女運がない。このことは、今まで日本の馬鹿な女やロクでもない女に引っかからなかったということで自分は他の男よりも比較的いい境遇にあるということで幸福であると思うべきなのだろう、ということを最近とみに感じている。

これに関連することだが、昨年のコロナウイルスの感染法上の分類が5類に移行した以降、徐々に数人がマスクを外し始めたが、その比率は女よりも男の方が多いと思う。ここでひとつの疑問が頭をもたげてくる。「なぜ世の男たちは女たちのマスクの異常さ、奇妙さを指摘しないのか?」ということである。現在、感染対策でマスクをしている人間は極少数と類推する。自分には信じられないことだが「人に顔を見られたくないから」が理由の多くを占める様である。これは自分の身近な人に実際聞いた話なので間違いない。このことを異常と思わない人間とはもはや話すことはない。果たして、なぜ男たちは、社会は、この異常さを問題にしないのか?

上に書いた多くの男たちの女に対する恨み節に関連して、世の多くの男たちは「そんな女なんか放っておこう」と思っているのではないかと思う。それはマスクしたブス女たちが強姦に襲われようが、通り魔に遭おうが、そんな女のことなんか助けないよ、ということである。そう考えれば、自分も男である。そんな男たちのそんな心情に共感せざるを得ない。昔から、何か大きな集団災害や集団事故(例えば船の遭難など)があった時、まず助けるべきは女、子どもからという不文律があった。子どもは相変わらず助けるべきだが、出来の悪いブス女たちは助けないのである。いわんや、女の質が高く、優秀であれば助けるのである。今日び、質が高く、優秀な女は稀である(いつの時代もそうだったのかもしれないが)。まあ、稀だからこそ貴重な存在であり、印象深いと言えるが。いわゆる「希少な存在」というやつである。またそういった女性はまたぞろ殊勝であり、印象深いといっても少数派はいつの時代でも市井に埋もれていく。

また、昨今の世にも馬鹿げたコロナ禍だが、100%人災の、集団ヒステリーである。ヒステリーというのは女のひとつの特性を揶揄する言葉だ。つまりコロナのヒステリーは女が中心になって起こしているという見方ができるのである。更に女のほうが圧倒的にテレビを視聴し、メディアの情報や印象操作を含んだ表現というのを何の疑いもなく吞み込んでしまう傾向が強い。加えて、女という生き物は理論が通じない。このことは、自分的には過去には女というのは人間という生物におけるプロトタイプとして称えてさえいた。だが現在は、女というものは甚だ理論が通じない下等な生き物という悪評価に180°転じている。

またこの過去の名言(失言)と関連して自分は「女のほうが男より尊い」by 自分と記した。これも失言として撤回しなけらばならない。しかしながら、だからといって「男のほうが女より尊い」とも思わない。いってみれば、男女どちらも「卑しくて愚かだ」が正解ということになる。

 

 

 

「人はいとも簡単に機械になる」by 自分・・・・・これは過去の名言シリーズで「もう機械になりたい」との名言を記し、添付文として、「 無論、人が機械になれるわけがない。いくらコンピューターと同化しようとしても。この先、時代がさらにテクノ化しようとも。この先500年後も千年後も(と思う)。 」と記したことへのこれも真逆の意趣返しである。人間はいとも簡単に機械になってしまうのである。昨年の3月にマスクの着用が個人の判断に委ねられる前の日本は一億総マスク状態であり、その異世界の様は誰もがマスクカオナシロボットに見えた。

そもそも人間の行動がパターン化すると往々にして行動が機械的になることがよくある。テンプレを読んだり記したりするのもそうだ。政治家のテンプレを読んでいるような弁論がその典型例だ。先日、アマゾンのプライム会員にさせる手段がえげつないことについて文句を言ってやろうと思い、アマゾンサポートセンターに電話したのだが、電話口の「こんばんは、アマゾンサポートセンターです。今回はどういったお困りごとですか?」の第一声が最初ロボットがしゃべってるように聞こえた。テンプレ化し過ぎてるというか、甚だ機械的だったからである。テクノロジーやデジタル化の弊害を顧みずむしろそれを是とする日本人のような国民は容易に非人間化してしまう。ヨーロッパでいえば、ドイツ人なんかにその傾向があると言えるだろう(それでもまだまだ日本よりはマシだ)。その点、イギリス人、アメリカ人などはテクノロジーの進歩によって非人間化し、人間がロボット化してしまう危険性をよく承知しているのである。これらの国ではデジタル化への大きな抵抗勢力が根付いている。社会の至る所でアナログな所が散見される。勿論、AIがもたらす倫理的な問題にも中心となってメスを入れる。

 

 

 

「人間は尊いものではない」by 自分・・・・・これは上でも書いたが、過去の名言シリーズで「女は男より尊い」by 自分とした発言の大幅修正である。そう、人間などおおよそレスペクトに値しない。自然が尊いのであって人間は尊さからは程遠い

 

 

 

「女が男を必要としているほど男は女を必要としていない」・・・・・これも過去の名言シリーズのひとつ、「男が女を必要としているほど女は男を必要としていない」の180°転換の意趣返しだ。

 

 

 

 

 

 

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今、twitterにポストしたことを少々の追加文を加えて引用します。

 

今は顔の見えない交流が当たり前に行われている時代だ。このtwitterだってそうだし、youtubeのチャットも5ちゃんねるもそう。SNSと呼ばれている類は概ねそうだ。昔であれば、電話や手紙がそうだった(友人や家族、親戚、会社の知り合い、取引先、顧客等顔を知っている人以外と通信する場合)。 かようにネットは顔を見せず匿名の交流を可能にした。それこそがネットの最大の特徴であり魅力である。顔を見せないことや匿名がネットのニーズのひとつだったか?ネットが生まれた当初はそんなことはなかったはずだ。なぜならインターネットはアメリカ産だからである。 アメリカ人の多くはネット上で顔を出すことを厭わない(匿名の願望は多分にあると思うが)。またFacebookというものがある。これは原則実名投稿が基本だ。

だから、公でもマスクして顔を出さずに人と交流するの???違うだろ。二次元、三次元ってわかる?リアル(三次元)ではちゃんと顔を出そうよ。相手に失礼だし、不審者そのものだ。 ファッションと言うんなら悪趣味極まりないよ。顔を見せたくないなら外(社会)に出ないことだよ。公では堂々と顔を見せるか、公に出ず完全に顔を見せないかはっきりしよう。 もうマスクで顔を隠し不審者然とした人間が多く街を徘徊する光景は見たくない。

 

 

 

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世の中の事象、戦争でもパンデミックでもいいがそれらに対し音楽アーティストは無力であると言われる。ここで言う音楽アーティストとは、音楽アーティストの中でも取り分けメッセージ色が強いアーティストのことである。政治的メッセージでも、社会的メッセージでもいいけど、そういった音楽家は社会派アーティスト、社会派バンドと言われる。具体的にどんなミュージシャンかといえば、ここでは例を挙げない。国内外問わず、各人が好きなミュージシャンとしか言いようがない。これは、私のお好みのミュージシャンを明かしたくないとか言ってるわけではない。私は音楽ジャンルやカテゴリーで畑を分けて派閥を作り音楽の視野を狭めたくないからである。私はクラシックからロック、歌謡曲、邦楽、洋楽とお気に入りのものであれば分け隔てることなく何でも聴く。そして自らも音楽を奏でる。パートは、ドラム、ギター、キーボードを演ってきた。殊に、誰々の音楽は世界最高だ、誰々の音楽はクソだ、と言い合って罵り合うのは聴き専に多い。聴き専自体は、けなすつもりもないし、揶揄するつもりもない。音楽は(ミュージシャンは)、聴き手(受け手)がいなければ成り立たない。自分の場合、音楽を奏でる上で聴き専の感想、声は大いに参考になるものだ。また、○○のようなジャンルこそ全音楽の中で最も崇高なもので、○○のようなジャンルは低俗だとのたまう人間もいる。私の知る限りではそういう傾向はジャズ好きに多い。そして低俗だったり、「売れ線」のミーハー音楽としてこきおろされてしまう対象は歌謡曲だったり、アニソンだったりすることが多い。そう言った考え方はあからさまな音楽的差別とでも言うべきものでナンセンスだと思う。更に、ひとつのジャンルの中でも誰々こそ神の音楽だ、誰々の音楽こそ本物だ、誰々の音楽は偽物だと言って罵り合ったりする。例えば、モーツァルト派はベートーベンをけなし、ベートーベン派はモーツァルトをけなすといった具合である。音楽は完全に好みであって、両者のどちらが勝ってるという論争は永久に平行線であり不毛でしかない。

世の中の事象、問題に対して音楽アーティストは無力であるか、否か?数多の人々に影響を与え、神、カリスマと崇められ、政治的、社会的な問題をテーマにした音楽を奏でるミュージシャンは問題の解決には無力なのか?直接的には無力だと思う。しかしである。カリスマと崇められるアーティストの作品は聴き手各人の思想を育む多大な影響力になっているはずである。言うまでもなくその思想は各人の行動のインセンティブになっているわけで、アーティストの間接的な力は大である。

例えば、あるミュージシャンのメッセージに感化されてある種の犯罪を企てるといったことは、ミュージシャンの多大な影響力の証である。このようにミュージシャンの影響力が、人に犯罪思想を植えつけるといった負の影響も少なくないが、逆に「Love&Peace」のように反戦思想につながる影響力もある。

翻って、「世の中の事象、問題に対して音楽アーティストは無力である」と言われれば、ミュージシャンは「はあ?俺達は音楽を演ってるんだ。政治家でもフィクサーでもないよ」と言うかもしれない。あるいはこう言うかもしれない。「俺は神でもないよ」と。

何かとコロナだ、パンデミックだと茶番が騒がれる世紀末じみた狂った世の中の昨今、そんなこと(ミュージシャンの放つメッセージは実際の社会問題、政治問題の解決には無力なものだということ。何も音楽には限らない。アニメ好きにはアニメが当てはまるだろうし、映画好きには映画が、小説好きには小説が当てはまるだろう)を考えている。

固く、ださい言い方に聞こえるが、音楽は芸術である。「芸術はどこまで行っても芸術であって、現実の世界と照らし合わせて接するものではない」と言う人がいる。私もアニメファンのようにアニメの世界にどっぷり浸かって現実から逃避したいという思いがないわけではない。しかし自分の場合は芸術作品に接する際(アニメが芸術と呼べるのか、映画やドラマが芸術と呼べるのか、小説が芸術と呼べるのか(文芸とは呼ばれているが)は持論を持たないが)、そのような現実世界から著しく乖離したような接し方はできない。自分自身夢想家のようなところは多分にあるが、常に現実と夢の狭間で葛藤するような生き方をしてきたし、芸術作品の接し方にもそれが色濃く表れているような気がする。殊に、今の時代のような、コロナにまつわる様々な狂った事象を見せつけられている状況では、まさに「事実は小説より奇なり」の時代であり、ミュージシャンの伝えるメッセージが強く現実とオーバーラップするのである。

 

 

 

 

 

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スーパー等で売ってる乾麺そばを食べ比べて見た。味の差はあるのだろうかと。

 

Ⓐ「みなさまのお墨付き 信州そば 自家挽きそば粉を使用」~株式会社おびなた(長野県長野市戸隠2640)製造、西友販売

 

Ⓑ「トップバリュベストプライス 香りとのどごし そば」~滝沢食品株式会社倉科工場(長野県千曲市大字倉科1335)製造、イオン販売

 

販売者を見ればわかるように西友、イオンの両大手スーパーの取り扱い販売となっている。製造はどちらもそば処長野である。

Ⓐはいつも食べているそば。今回はざるそばで食べ比べてみた。つゆは「ヤマサ」の「昆布つゆ お得な3倍濃縮」である(自分は、いつもつゆはかつおだしや昆布だしの1L容量のタイプを使っている)。具は、今回は食べ比べということであげ玉のみにした(具に関しては、自分はいつもかけ、ざる問わず、定番のねぎの他、あげ玉、オクラ等を使っている。)。

自分の場合、そばについては、生めん、乾麺のこだわりがない。とはいえ、生めんのそばの、いわば「肉体労働者のためのそば」のような「ジャンクフード」感覚が忘れられないのであるが(「肉体労働者のためのそば」のような「ジャンクフード」感覚といえば、昔横浜に住んでいた時によく食べた横浜駅西口交番前の「きそば 鈴一」を忘れるわけにはいかない。立ち食いそば屋で、確か生めんを使っていたと思う(おばさんが一杯につき一袋そばを出して釜に入れていたのを見たので、多分)。店の雰囲気は、入口の戸は開け放しており、カウンターのみで半露店といっていいだろう。カウンターは横に一列のみで、カウンターは10人も陣取れば満席になってしまう。だからどんぶりを持って外で食べている人も数人いた。まさに「労働者のためのそば屋」という感じで、失礼ながら朝夕の通勤サラリーマンが店に群がって貪り食う様は、残飯を貪り食うネズミの集団といった感じである。味の方は、しかしこれが旨いのである。つゆ、だしの選択、それらの水との分量比、そしてめん、と絶妙の加減が合わさって独特の妙味になる。結局のところ、家系ラーメンもそうだが、横浜という街ならではの、労働者が好む味ということなのだろう。何の上品味もなく、即席感が漂い、つゆも家系ラーメンにありがちのような多少脂がにじんだような関東風の濃い味なのだが、一日の仕事で疲れ、帰りに一杯といった気分の体にガツンと心地よく来る味なのである。水も水道水から汲んだ水に違いないはずだが、このそばを食べている最中、あるいは食べ終えた後にはなぜか美味しく感じるのである。「エビアン」だ、「六甲のおいしい水」だ、そんなものはお呼びではない。ここまで読んでいただければお分かりかと思うが、そう、自分は食べ物に関しては高級志向ではないのである。例えば、高級ホテルで何万もする上等な高級料理を食べたいとはまったく思わない。

さて、そんな「きそば 鈴一」なのだが、2年くらい前に小旅行で横浜に行ったついでに横浜駅に寄ったらまだ健在で営業していた)。

 

さて味比べである。味に関しては自分の下では差がないと感じた。それよりもコシという面で(そばの場合、実はこの部分が一番重要なのかもしれない)Ⓑの「トップバリュベストプライス 香りとのどごし そば」のほうがあるように感じた。まあ、市販の乾麺のそばなんてどれも大差ない感じだろうか。「機械量産」の限界という気がする。手打ちのそば専門店に敵うわけないか。

しかしどんな料理も料理する人が違えば一変するのである。料理は「腕」プラス「センス」である。めんのゆで加減、水切りから盛り付け、具の選定に至るまで料理の上手い人は何か自分流のコツがあるようである。つまりまったく同じ素材を使っても人によって味に雲泥の差が出るのである。

 

今回は唐突に乾麺そばの味比べをざるそばでしてみた件の話をしたが、ざるそばといえば最近はざるそば専用の四角い器の中に竹すだれを載せてその上にそばを盛って、という食べ方をしなくなった。料理ってこういう雰囲気作りも大事だと思う。容器ひとつで味に格段の違いが出る(勿論、見た目だけではなく機能的にも味に影響を与えるのだが)。そうそう今回忘れたが、ざるそばといえば上にきざみ海苔である。そして肝心な薬味としてわさびも忘れてはならない。と言ってきたが、自分はいまだに食べた後にそばつゆにお湯を入れて飲む意味がわからないのであるが。   

今日、地元の最も人が集まるであろう浜松駅周辺に行ってきた。なるほど、最近あちこちで言われるように、以前と比べてマスクを外した素顔の人が多くなってきた。しかしながら多くなってきたといっても、多く見て2割程度、悲観的に見たら1割程度にすら見える。とはいえ、3月12日(この日以降政府の通達によりマスク着用が個人の判断に委ねられる形となる)以前の、見渡す限り誰もかれもがマスクマスクマスク、マスクをしてないのは自分と、他に数えるほど、といった世にも奇妙な光景に比べたら格段の変化と言えるだろう。浜松という所は、政令指定都市となっているものの、中堅どころの地方の一都市といったスタンスは否めない。最も近い大きい都市というと名古屋、あるいは同じ県内の静岡市ということになるが、この2都市のマスクの状況はどうなのだろう。また、東京、横浜、大阪といった大都市のマスクの現在の状況も気になるところだ。聞くところによると、大きな都市ほど脱マスクが進んでいて、田舎になればなるほど脱マスクが進まないそうである。また、東京よりも大阪の繁華街、道頓堀や梅田といった場所の方がドラスティックに脱マスクが進んでいるそうだ。これはいかにも自由闊達な大阪の街らしい状況と言える。しかしながら、大きな都市の方が脱マスクが進んでいるといっても、東京は進んでいるとか、名古屋は進んでいるとか、浜松は進んでいないなど、一概に言えない。県単位どころか、市単位であっても、くくりが広すぎるのである。例えば、浜松を例にとるならば、自然が豊かな観光地ほどマスクをしていない人は増えるだろうと思う。浜松の観光地と言えば、浜名湖、弁天島、中田島砂丘、また浜松ではないが、浜松から日帰りで行ける御前崎などが挙げられる。

上で、「多くなってきたといっても、多く見て2割程度、悲観的に見たら1割程度にすら見える」と書いた。また、上で書いたように、場所によってマスク率に多少の差はあるといっても、いってしまえば、どこも似たり寄ったりだろう。コロナ禍以降、マスクの着用をはじめコロナウイルスに対する考え方や自治体の方針は全国的にどこも足並みが揃っているという感じでほとんど差がないからだ。なぜ、まだまだ脱マスクの動きが鈍いのだろうか?理由はいくつか挙げられる。まず、どこの企業もいまだ従業員にマスクを着用させているということ。これは結構大きい。自分はマスク着用が個人の判断になって以降、何度も指摘しているが、そもそもマスク着用が個人の判断になったにもかかわらず、いまだ従業員にマスクを着用させているのは間違っている。従業員の個人の判断はどこに行ったのだろうか?最近になってようやくマスク着用の強制が解除された会社もちらほら散見されるようだが、日本人は大層マスクがお好みらしく、会社ではいまだ大半の人間がマスク着用。そんな状況の中、それに合わせて、マスクを外したい人間も引き続きマスクをするという状況になってしまうようだ。つまり強制でないと言っているが、半強制みたいなものなのだ。

もうひとつ脱マスクが鈍化している理由なのだが、この3年間でどっぷりと習慣化してしまった生活スタイルからいまだ切り替われない人間が多くいるということ。まあ、何も考えていない人間も多いのだが。

そして、脱マスクが思うほど進まない最大の理由が紛れもなく「同調」である。その場の空気に合わすと言い換えてもいい。これは自分の中で確信がある。確信の理由を述べる。さる5月3日から5月5日、地元の大きなイベントである浜松まつりに参加した時のことだ。浜松まつりも、他の地方の有名なまつりの例にもれず、コロナ禍以降、3年間(2020年、2021年、2022年)、行動制限の中での催しが続いていた。行動制限やいくつかの規制があったとはいえ、完全に中止になることもなく、開催に至ったのは大いに賛同できるところではあるが、行動制限下の浜松まつりは多かれ少なかれテンションが上がらないことは確かで、参加者にとってはとても満足の行く3年間とは言えなかっただろう。それが、ようやく今年に入って、コロナを取り巻く時勢も変化し通常モードの兆しが見えたということで(3月12日にマスク着用が個人の判断になったことも大きいが、5月8日にコロナウイルスの感染法上の分類がインフルエンザと同じ5類になるということで希望的観測に加速が付いたことも大きいだろう)ほとんどの行動制限が解除され通常の浜松まつりの開催に至ったのである。すなわち、メインイベントである中田島砂丘での凧揚げ合戦も例年通りのスタイル、繁華街の夜を彩る屋台の引き回しも通常通り、浜松まつりならではの、激しい練りも一切の制限なし。たったひとつ、飲酒がダメという不可解な規制があった。祭り気分の中で未成年が飲酒に及ぶというのはそれはそれで問題ではあるが(何も今年に限ったことではないが)、コロナ禍が始まって今年に至るまでの行動制限や規制がコロナウイルスの感染対策に起因するということであるならば、なぜ飲酒だけがアウトなのかまったくもって理解できないところである。これについては、まつりの主催者側、参加側をはじめ、酒販売業者など多方面から市長に異議が寄せられたらしい。

さて、飲酒以外は例年通り開催の浜松まつりに参加して感染対策に関係する制限はなしということであれば(アルコール除菌の設置はあったようだが)、マスクに関してもほとんどの参加者が着用していない。体感的にノーマスクは100%に近かった。加えてマスクをしていないのは法被を着たまつり参加者だけではない。浜松まつりを見に来た一般の観覧者もほとんどがマスクをしていないのである。祭りの最中は当然ながらたくさんの人でごった返しとなる。凧揚げや屋台の引き回しもさることながら、練りでは、文字通り、「密」の中で大声を出しての練り歩きとなる。まさにコロナウイルスどこ吹く風。騒がないで、大声出さないでまつりなんてやってられるか、というところだが、浜松まつりの場においては参加者も観覧者も、誰もコロナ感染のことなんか気にしていない。日頃のマスク着用や感染への懸念とは一体何なのか?このことを今現在のこの国の状況で真面目に問うのはタブーであり、嫌われる可能性もあるのでリアルで表立っては言わないが、「一体この国はどうなっているんだろう?」と、他国の人間でもない日本人の自分は、唖然、不可解の念を通り越して笑うしかない心境である。そう、まさにまつりという非日常的なカーニバルの時だけの儚い浮き世なのである。まつりが終われば元の木阿弥、またぞろ日常モードに戻るのである。多くの人がマスクを着け始める退廃の日常モードに。

まつりの時だけ参加者も観覧者も大半の人がノーマスク姿。日常に戻れば辺りをうかがいながらマスクを着け始める。分かり切っていたことだが、完全に「同調」が支配しているのである。これまでも自分はさんざん指摘したことだが、昨今のマスク着用理由にも様々なものがある。「コロナがまだ怖くて本当に感染対策でマスクしている」という原理主義的な理由から、「顔を隠したいから」「恥ずかしいから」「ブス隠し」「化粧が面倒だから」「マスクしてないと不安になるから」・・・・・・といったクソな理由まで様々だが、最大、最多は「その場の空気に合わす」=「同調」なのである。

この「同調」は、「その場、その時に空気に合わす」といった方がわかりやすいかもしれない。浜松まつりで起こった現象がまさに典型的な例だが、その場その時の群集心理にほとんどの人は流されるのだ。昨今よく言われる「マスクはTPO」といったことも同じことである(TPOなど自分にとっては「マスク美人」「マスクはドレスコード」と同レベルくらいにアホらしいことだと思っているが)。会社帰りに飲み会に行く。社内ではほとんど全員がマスクをしている。飲み会が行われる飲み屋までの行き路もそれまでの惰性で何となくマスク、マスクして店内へ、宴が始まればマスクを外して飲み食っちゃべり、会計の時はまたご丁寧にマスク、帰り路もマスクといった世にも笑えないコントもさんざん見せつけられてきたが、これもTPOといってしまえばその通りである。マスクがマナーであるということも関係しているが、外ではマスク、対して家ではマスクなど外しているに違いないが(ごく一部の真正のバカを除き)、これもTPOということになるのだろう。

自分の家をはじめ、会社や店等の施設内以外の屋外でも依然としてマスクをしている人間は多い。電車内に関しては、内か外の線引きが微妙なものとなる。無論、物理的には屋内である。しかしながら今に至っては電車内だからといって感染対策が過剰になっているわけではない。電車内については、依然として、医師会をはじめとした医療関係者がコロナ禍を終わらさんとすべく、「引き続き混雑した電車内ではマスクが望ましい」と過剰に煽り続けているだけである。ここで言っている内か外かというのは、物理的なことではなく、家の外か中かということである。となれば電車内は外ということになる。ここで何が言いたいかというと、電車内や通りで(通勤、通学、店に物を買いに行く、どこかに遊びに行く等々、何でもいい)のマスク着用についてだ。

この場合、通りすがりの人はほとんどが見知らぬ人ということになる。いわんや、「家からお外に一歩出たら危険がいっぱい」、ことによったら危ない人もヤバい人も歩いているかもしれない。特に女性にとっては重要なことかもしれない。周りが見も知らない人間ばかりなのだからマスクして顔を隠しても全然OK、もっといえば顔を隠した方が都合がいいくらいの感覚になってしまっている人間が一定数いるのではないだろうか。これもいってみればTPOに基づいた行動と言える。かくしてこの3年間、外を歩けば駅の構内も、繁華街の通りも、電車内も、見渡す限りマスクマスクのカオナシ集団の大道行列という世にも奇妙な光景が展開される世の中となってしまった(世界広しといえどもこれほどまでの珍妙な光景というのは日本をおいて他にないであろう)。まあその光景も、文頭に書いたように、ようやくここに来て1割から2割ほどが素顔と、随分マシになってきているが。

通勤、通学等の通り道や電車内では周りはほとんど見も知らぬ人、だからマスクして顔を隠しても(不審者然としていても)全然OK、そういうつもりなのかもしれない。しかしである。通り道や電車内であってもひとつの社会なのである。公の場=パブリックと置き換えてもいい。マスクをしてカオナシになって不審者面していることが失礼だ、甚だ不気味だという感覚は、通りを歩いていたって、電車内にいたって、会社内で同僚や上司といる時や、どこかで親しい人と会っている時と同じく何ら変わらないのである。まさに公の場に出れば「見て見られ」という渦中に誰もが置かれるのだ。この辺りの社会性、公共性という感覚も日本という国は意識が希薄のようだ。

依然続く多数のマスク着用の大半の理由が「同調」ということがはっきりすれば今後の脱マスクの流れや方向性が予測しやすい。今素顔率が1割から2割の割合が3割から4割、そしてマスク:素顔が50:50となればそこからはオセロで白が黒に一気に転じるように一気に脱マスクが加速すると思う(とはいえ、2割から3割とたった1割増やすだけでも実に変化が緩慢で至難の国なのだが)。

現在コロナウイルスの重症化率も致死率もインフルエンザ以下だ(昨年からそうだが)。感染法上の分類が5類になりわかりやすくなったが、風邪の一種なのだ(元からそうなのだが)。世界のガンたる機関WHO、日本のガンたる機関医師会が今更何を言おうがパンデミックは終わったのである(もっとも自分的には始まってもいないと思っているし、医療関係機関、一部政府機関等、利権絡み機関が企てた壮大なパンデミック計画と言う人もいる。自分的にはなにか地球温暖化論と似てなくもない気がするが)。いい加減マスクも終わらないと、否、終わらせないといけないのである。

 

 

 

 

 

 

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